おば(あ)さんの行動パターン2014/01/15 09:17

 標題のことを時折、ふと思うことがあります。いえ、「おば(あ)さんの行動パターン」というものがある、というように思っているのではありません。
 思うのは、「おば(あ)さんの行動パターン」について思い込んでいる人が多いのかなということです。

 数ある例のうち、比較的最近のこと。
 年末に4人でイタリアンの店で忘年会をしました。孫もいるような年齢の女性4人です。大いに食べ、飲み、喋り、そして店を出ると、もう9時。そこは、大阪梅田のヨドバシカメラ。10時まで開店しています。PCを買うことを検討している1人に付き合ってPC売り場へ。それから、ポータブルDVDプレーヤーを買おうと思っている人につきあって、またそちらの売り場へ。どっちにも興味のある私は、さしあたって買う気はないけど、ノリノリで移動します。そして、エスカレーターに乗ろうとしたところで、若い店員さんが声をかけて来ました。
「ハァ~イ!」とにこやかに。「え?」と振り返る私たち。
単に「May I help you?」と、声をかけてきたらしいのですが、いえいえ、私たち、日本人だし、、、。

 4人共、未だかつてアジア系に間違えられた経験のない純和風の風貌。しばらく、「何だったんだろう?」と話し合っていましたが、はたと気づきました。年末の夜遅く、ヨドバシカメラでのんびりとショッピングしている年配のおば(あ)さんグループは、アジアからのツアー客に見えたのでしょう。
 日本人のおば(あ)さんたちは、今時分、ヨドバシなんかうろついていないものなんだ、と納得しました。

 それでさらに思い出しました。よく一緒に行動する親しい友だちと、メガネ屋さんに行きました。彼女とは何度か一緒に行ったらしいのですが、それはこちらは忘れています。
 私が眼鏡を合わせてもらっていて、友人がサングラスのコーナーを見て回っている時に、若い女性の店員さんが急に尋ねてきました。
「ごきょうだいですか?」
「え? 違いますよ」と私。
「どういうご関係ですか?」と、にこやかに尋ねられるのだけど、
「え?」と、ポカーンとする私。
「いつも、仲良く一緒にいらっしゃるので、、、。」と、あくまでもにこやか。


 客がどんな関係の連れと来ようがどうでもいいじゃないか、何ゆえに聞く? 
「友だちですけど、、、」憮然と答えて、サングラスコーナーで待っていた友人に帰り際に、
「関係を聞かれた。わけわからん」とぼやくと、
「おばさん同士の友だちって、珍しいんかな」と友人。

 あ、そうか、と思いました。私のようなおば(あ)さんは、おじ(い)さんである夫か、もしくはその他の家族と思しき人と行動するものらしくて、いつも同じ顔ぶれで現れる私たち(全然、似ていないからきょうだいにも見えない)の関係は何だろう? と素朴に聞きたくなったのでしょうか?

 以前、この友人と旅行した時も、ホテルでお土産を買っていたら、話しかけてきた店主の男に、「きょうだい?」と聞かれました。

 これが、若い女性客だったりすると、友だち同士と思われて済むのでしょうけれど、年配女性となると、一定のイメージが張り付いていて、そのイメージから逸脱した行動をとると、こういう不躾な質問に遭遇するのですね。

 でも、今の世の中、女友だちと行動するおば(あ)さんたちがたくさんいて、年末だろうが夜中だろうが動きまわっているのですが、どうも古風なイメージだけがいつまでも流通しています。

 今後は縁先で日向ぼっこしてお茶をすすって生きていきましょうかねぇ、、、。(って、縁先ないし、、、。)ぽたぽた焼きのイメージキャラクターみたいなおばあちゃんも今時いないんだけど、普通に流通しています。おば(あ)さんの行動パターンに対する思い込み幻想は、いつか変っていくのでしょうか?

 あ~、めんどくさ!

そろそろ総括の季節?2013/11/26 21:10

 疲れております。

 400人を超えたからと言って、愚痴っている場合ではありませんでした。友人は、500人のクラスを教えているとか、、、。まだ若いので、馬力もありそう、、、いえいえ年のせいにしてはいけませんね。若くても、エライ人です。

 いささか疲れておりまして、年を感じております。
一昨日、また、同年配の知人の訃報を聞きました。どっと元気が減りました。私より8歳若い友人が、「あなたの周りの人は、死に過ぎ」と言います。

 確かに、私の周りの友人知人は早死に傾向です。どの人も、夫がいなくて、1人で食い扶持を稼いで来た女性ばかり。私の周りに専業主婦はゼロ。
 女性が1人で、この社会の荒波を泳ぎ渡っていくのは、やはり相当なストレスなのだと思わないではいられません。今の若い女性とは違って、私の世代は、1人で生きるのに親からのバックアップがあったわけではなく、むしろ、親たちの規範を振り切って1人で生きようとした人ばかりです。私なども、「女に学は要らない」と、成績が良いことさえ「よくないこと」とたしなめられたのでした。子どもの頃、本を読むのが無上の喜びでしたが、親はそれを喜ばず、父などは私の読んでいる本を取り上げて、庭へ投げつけたことさえありました。「本を読む女」など目障りで仕方がなかったのでしょう。生き難い時代に、娘時代を送りました。

 そのような時代を同じように生きたであろう友人知人が、それでも自分の歩みたい人生を歩んで、そして想定よりも早い人生の店じまいです。そのような年齢の女性が1人で、あるいは子どもをかかえて生計を維持するのは大変なストレスだったことでしょう。

 「団塊の世代は長生きしない」と思っていましたが、私のまわりの、過酷な人生を選んだ「団塊の女」限定かもしれません。どの友人も口を揃えて、「親の世代のように長生きはしないと思う」と言います。それは実感です。みんな疲れているから、、、。

 今日はちょっとテンション低いです。すみません、久々の更新なのに。

見かけと違う2013/08/08 17:32

 しょっちゅう言われます。
「あなたって、本当に見かけと違いますね」と。

 ほんとうに、しょっちゅうです!

 本人は自覚がありません。私のままに振る舞っているつもりです。でも、どこでも、誰からでも言われます。

 そして、それは嬉しくない、です。

 私は、真面目そう、と言われます。女らしいと言われます。おとなしそう、と言われます。

 で、話をすると、「意外ですね」と言われます。

 友人の中には、「思っていたのと違って、そんなにやわな人じゃないってわかったから、つきあいやすくなった」と言う人もいます。
 なんだか、傷つきやすそうに見えていて、傷つけないようにものを言うのに気を遣っていたのだそうです。
 心外です。私はそんなにやわじゃない。

 でも勝手に、私の風貌や最初の印象で、やわな女性のように思うらしいのです。声が大きくない、典型的な大阪のおばさんイメージの、「ガハハハ」と笑うタイプではない、もの言いがどうしても京都・・・これも手伝って、私のイメージが作られているらしいのです。

 初めから声が大きくて、ガーガーものを言う人の方が、「案外、優しいところもある」と、見直してもらったりするのに、私は逆なんですよね。「きついところがある」ということになってしまいます。
 本来、私は、とびきり、優しいのに・・・。ただ、不正や狡いことが嫌いなだけ。

 友人は「得なタイプよね~」と言いますが、私は、「損だなぁ」と思っています。普通に思っていることを言っただけでびっくりされるのだから、本当に損です。
 
 私にとってどうでもいいことは逆らいません。「あぁ、そうですか」とふわっと聞き流します。○○のお店はこういうところがダメ、というような話は、人それぞれだからなぁと思うので、逆らったり、異論を唱えたりしません。それも、思い込みを生むみたいです。
 でも、自分のポリシーに引っかかってくる話題だと、ちょっと待てよ、今のは聞き捨てならないぞ、となって、意見を述べます。で、何気なく喋っているだけの人は、反駁できずにやられてしまいます。それで、恨みに思うのかもしれません。
 やっぱり、私は損しています。意見を言うだけで、「え?」と思われるなんて、心外です。

 ほんとうに、いつもいつも、「見かけと違う」と言われ続けて、なんだかな~、という気分です。

終戦のエンペラーの続き2013/07/31 11:27

 そうそう、書き忘れていました。当時の日本政府参謀と天皇の関係や力学が面白いのです。

 アメリカ人は、どうしても、日本の政策決定の過程がわからない。日本人独特のメンタリティやコミュニケーションのありようが謎なのです。

 でも、最近の日本人にも、この決定のあり方はわからないと思います。多くの団体や組織がもめるのも、コミュニケーションの手法や流儀がそれぞれ異なる人が構成するようになったから。
 たぶん、昔なら、メンタリティも流儀も共通しているので、今ほどトラブルを生まなかったように想像します。

 昔って、どれくらい昔かと言うと、、、、。柳田国男が狸囃子について言及していた頃のコミュニティが閉じられていた頃、、、って、昔過ぎるだろっ、て言われそうですが(苦笑)。

 私は京都出身ですが、よく大阪の人から「京都はいけず」と言われて、悲しくなります。確かに京都人の複雑なコミュニケーションは熟達しないと難しい。でも、あれも、同じ文化を共有する人にとっては、習熟していってやがて洗練されるものであるに過ぎないのです。
 でも、他の文化で生きてきた人には、その高度なコミュニケーションスタイルは、もはや意地悪にしか見えない。ダイレクトに表現しない「察しの文化」ですから、熟達するにはかなり時間がかかります。
 でも、次第に京都人も、近代的価値観で公教育を受けて、思ったことをちゃんと表現するスタイルを良しとする考え方が身についてきました。
私などの世代は、まさにそういう狭間の世代かもしれません。学校で教わることと、家で言い聞かされることとが真逆であったりして、私は家では叱られることの方が多いので、学校で教わる価値観を内面化していったように思います。で、古い京都人のコミュニケーションスタイルに戸惑い続け、習熟できずに叱られ続け、結局忌避したまま逃げ出しました。

 でも、大人になった今、(年寄りになった今^^)、しみじみ思います。あれは、柳田国男の言及した狸囃子に連なる世界観の共有だったのだな、と。
 と、まあ、エンペラーから狸囃子に飛んでしまいましたが、多くの文化的ディスコミは、身近なところにもありますね。
 戦後すぐに駐留したアメリカ人が、日本独特の意志決定過程について、不可解きわまりなかったことは想像がつきます。
 そして、政府首脳の構成メンバーのメンタリティや力学、そして今の官僚組織のセクショナリズムやヘゲモニー争いなど、触発されてあれこれ思いをめぐらせることの多い映画でした。

男性のパートナー2013/06/26 14:13

 世の中の人は、女性がパートナーの話をすると、そのパートナーは男性だと思い込む人が多いらしいのですが、私の守備範囲、交友範囲では、そんな常識はありませ~ん。だから、友人がパートナーの話をし始めると、しばらく話を聞いてから、「あ、これは男性なのかな?」と話の内容から想像したりします。で、「パートナーって、男性なの?」とあらためて問い返すと、友人も心得たもので、「そう、男なの」と教えてくれます。

 だいたい、女性が女性のパートナーを持っている時は、「パートナーって、女性なの?」とは聞き返したりしません。世の中の「常識」とやらでいやな思いをさせられてきた経験があるだろうと想像するので、そこはさらっと流すのが、私の交友関係では普通のエチケットです。

 で、先日、久しぶりにアラカンの旧友たち数人(みんな女性)と会って食事をしました。最後は、企画してくれた友人の家に招待されたのですが、その友人のパートナー(男性)のかいがいしいこと! ほんとに、尽くしておられるのです。その方も定年退職して家におられるのですが、お掃除もお料理もされるそうで、アッシーくんもしてくれて、ほんとうに素晴らしい尽くしぶり。
 え~っ! 現役を退いたパートナーって、こんなにすごい素敵なの? 尽くすだけ尽くして、あとは邪魔にならないようにお部屋におこもり。こっちに用事があるときだけ出て来てくれて、後はごゆっくり、という感じで引っ込んでしまわれる。コーヒーを淹れてくれているのを見ながら、ここは一緒に加わるのだと思っていたので、コーヒーをサーブし終わったら、部屋に入ってしまい、帰る時には呼び出されてアッシー。

 「男のパートナーって、こんなにいいものなの?」と私が思わずつぶやいたら、友人の一人が「女のパートナーは違うの?」と聞き返してきました。いやいや、私はわびしい独り者。ただ、定年後の男の人は手がかかって邪魔、という話をよく聞いていたので、そういうように思いこんでいたのでした。夫がいる友人たちで、老後は女だけで共同生活をするんだ、と言っている女性たちもいるし、離婚したりずっと非婚だったりする少し年上の女性達で、女性ばかりでルームシェアしている人もいます。

 だから、男性はダメ、と思いこんでいた私の短絡も問題ではありましょうが、いや~、びっくりしました。男の人もいろいろなんですね。
 私の夫も長生きしてくれていたら、そんなふうになったのかなぁと思いました。基本的に穏やかな人だったし、、、。 大病をした後だったら、一皮剥けて、さらに優しくなったかもしれないし。

 まぁ、考えても仕方のないことを考えるのはやめましょう。私は、これからも一人でがんばって生きていくのだわ、と思いながら、一方で、そもそも何故人は番うのかなぁと、解けない謎の前に茫然とします。