わかったふり?2024/03/07 09:02

今までに思い違いが多すぎた。

先のブログにも書いたように、
みなさん、わかったふりをしているのではなく、
わかっているつもりなのだろう。
「私はよく知りませんので、説明をお願いします」と言う人はほとんどいない。
で、結果、実はどの人もわかっていなかった、ということが多過ぎる。

学生を相手にしているときは、基本、そういうことがなかったのだが、
市民や主婦歴の長い人たちに話をするときは、こけることがある。
相手は、結構、「何でもわかっている風情」だ。
だから、あんまり初歩的な話をしてもつまらないだろうと、
レベルを上げて話をすると、不評を買ったりする。
「そんなん、大学の授業でやるようなことだ、わからない」と文句も出る。

どのレベルで話をすればいいのか、わからない。
そもそも、皆さんは、自分にどの程度の知識があるか、というようなことをわかっておられない。
それはそうだろう、山に登るのに、頂上の高さや道のりがわかるから、自分がどのへんにいるのかがわかるわけで、
目指す場所が見えなかったら、自分はずいぶん頑張ったんだから、頂上に近いはず、と思えてしまうのかもしれない。

私も相手を読み間違う。
知っていることを聞かされたら退屈だろうと想像してしまうが、
たいていは、皆さんは、「知っていない」のだ。
でも、長年の人生経験で、堂々としていらっしゃる。
だから、こちらは相手を読み間違えてしまう。

いや、私の自尊感情の低さもあるのだろう。
どうせ、私が知っているようなことは、皆さん、知っているだろうし、、、
という大間違いの認識が、
たまにある。

だからと言っても、かつて、当事者で私以上に勉強している人がいて、
こちらの足りない部分を補われて、
私の面目がつぶれたこともあるしね、、、。
難しいねぇ、、、、
大人の人に話をするのは、
大学で授業をするのとは、また違う苦労がある。

講演だけではなく、ITもそうだ。
ある講師に、パソコンの使い方を説明していたら、
「自分でできる!!」とイラつかれた。
で、説明するのをやめたのだが、結局、わかっていなかった。
その人はできなかったのだ。
講演中、もたつく、もたつく。
そのたびに、私が出て行って、操作を手伝う。

今度は聴衆がイラつく。
ほんとうに、もう、さんざんだわ、、、
あ、最後は、愚痴か、、、。

私は甘かった、、、2024/03/06 14:18

ⅠTに弱い人は、アナログの世界では、結構、優秀な人が、私の周りには多い、ということを書いた。

そのことをわかってから、すっかり見る目が変わった。

が、私はまだ甘かった。
この人たちは、「わかったふり」をするのも、とてもうまいのだ。
いや、ふりではないのだろう。
本当に、その時はわかった気になるのだろう。

しかし、実際は、わかっていない、ということが最近、わかった。

懇切丁寧に説明したつもりで、
「なるほど」などと返事をされるから、わかってもらった、と思っていたが、
とんでもなかった。

正直に言う。
私はもう、お手上げ状態だ。
相手は、想像したよりはるかに、猛者だった。

ステンレスの板を見て、私が「つるつるしています」と言うと、
相手は、天然の岩石を持って、その平らな面を見ながら「はい、つるつるしています」と、答えているようなものか、、、。
あ~、わからん!
例えがおかしい・・・

みんな賢いのだから、私なんかができることは誰でもできると思っていたことは、全部、間違っていたし、
それどころか、そもそも見ている物が違っていた。

頭をかきむしりたいくらい、
私の懇切丁寧な説明も、わかるようになってもらおうと思う親切心も、
雲散霧消しそうだ。
ほんとうに、頭をかきむしっている・・・

人との関係で一つわかったこと2024/03/01 10:15

長年の近しい友人が、あんまり親しくない人にはものすごく優しいのに、
私には、えらそうで、粗雑に扱うので、
嫌な感じはするのだけど、
あんまり、友達のいない私は、それでも縁を切れない。

私が、文句を言う時は、
その瞬間は、
一生、絶交することになってもやむを得ない、という気持ちで言う感じだった。

この世に別れを告げる覚悟は、子どもの頃からあって、
最後は死んでしまったらおしまいだから、
もう、どうでもいいや、という気持ちになる。
子ども時代に絶望感をさんざん味わった、というのは、そういう心性を育てたということだ。
私を養育した人たちは、私に心があると考えたこともなかったのだろうと思う。
自分たちがおこなっていることを、世間で言う「虐待」とは想像もしなかっただろう。
物質的に満たしてやっているのだから、これ以上に良い親はいないと思っていたようだ。
私を
「人間の屑」だの、
「出来損ない」だの、
「欠陥品」だのと罵り続けた。
こういうことを言われ続けた子どもが、「自分は生きる価値がない」と思うようになるのは当然なのだけど、
大人になって少しずつ、自分にも生きる価値がある、と思えるようになって、
人生の色が変わってきた。
それでも、子ども時代の親の呪詛は追い払えないから、辛いことがあると、つい、自分を「消す」という行為に直結して考える。
子ども時代の虐待は、脳に影響を与える、という研究はあって、身体的虐待でなくても、脳に何らかの損傷を残すのだろうということは、納得のいく話だ。
脳内の化学作用はその人の「本質」に近くなるだろうと、私も考えている。

私は、友人と思っている人に、苦情を言うときは、それなりに、覚悟を持って言ってきた。
が、有難いことに、(ここはほんとうにありがたいことに)、
友人たちは、それで私と縁を切らなかった人がほとんどだ。

逆に、そのために、私と縁を切った人は、私がその人にとってそれだけの位置にいたということか、
あるいは、その人自身が、「絶望」をいつも溜めていたか、だと思う。

心が健康な人は、それだけでは縁を切らない。
私の苦情が覚悟の上だったとしても、
その人を全否定しているわけではないことをわかっている人は、
その一事をもってして、私と縁を切ろうとはしない。
こういう心の健康な人によって、私は生かされてきたのだなと思う。

そして、冒頭の近しい友人だが、
他の人にはとても親切で優しいのに、
私にはぞんざいになるのはなぜか、ということを尋ねたら、
(これは苦情ではなく、疑問形で尋ねた)、
「あなたは少々、雑なことを言っても、関係は変わらないから」と答えた。
あ、そういうことか、と初めて知った。
私は他人にそういう安心感を持たないから、いつも「覚悟」が要ったのだ。

その人は、近くにいる人ほど、雑に扱うように見える。
自分の母親には特に雑だ。
そんなことで文句を言わなくても、と思うようなことで、
ずけずけと文句を言っている。
が、一方で、母がうるさいから、と気も使っている。
たぶん、ずけずけと文句を言い合う親子なのだろう。
だから、お互いに喧嘩をしては気を使い合う日常のようだ。

私はそのような日常には疲れるので、それはしたくない。
子ども時代、父親にさんざん嫌がらせを言われ、
呼吸するように文句を言われ続けて、
それが当たり前になってしまっていた。
それに対して、抗弁しては喧嘩になり、最後は「口答え」を封じる父親によって暴力をふるわれ、泣き寝入りしてきた。
その父のやり方は私にもしみついた習慣になって残っていて、
結婚相手にも文句を言い続けたし(彼はほとんど聞いていなかったけど)、
近しい友人にも同じことをしていたと思う。

ある日、そのことに気づき、父の影響だと気づいて、
ピタッとやめた。
無意識の習慣になっていることを止めるのは、相当な気づきと自己改革が要る。
いろいろな気づきの集積によって、ようやくこの悪癖から逃れた(と思う)。

母は、この悪癖を持たなかったので、(私には冷たい人だったけど)、母の振る舞いに学ぼうとした。
それも無意識の内なのだが、母の振る舞い方を取り入れた。
私の中には「母」もいたので、「父」を駆逐して、「母」を採用したのだ。

が、件の友人は、自分の母親の習慣から抜け出せない。
母親と同居しているので、その習慣を日々生きている。
この友人の母親も、外面は極めて良い。
が、娘にはごちゃごちゃとうるさいらしい。
私は、この友人の習慣のとばっちりを受けてきた。
が、ある時、大喧嘩になって、それで彼女は以前より、ガミガミ言わなくなった。
しかし、私の中には、しこりが残り続ける。
それでも、距離を置けば、気の置けない友人でいられるので、なんとなく友人関係は続いている。
そして、彼女は、私には縁を切られないと、信じているということがわかった。
そうだろうな、どんな扱いを受けても、私から縁を切ったことはない。
私はたいていは、縁を切らない。
仕方がないからだ。

子ども時代の父に比べたら、まだましに感じる人が多い。
なにしろ、いつでも縁を切れる関係というのは、うんとましだ。
子ども時代には、親とは縁を切れない。
あの悪夢を生きたので、今はこの世はまだましだ、という気分で生きてはいる。
どんなに寂しくても、今はましだ。

なんだかなぁ、、、2023/11/23 21:38

コンビニに行った。

2~3個、商品を買おうと思ったので、カゴを探した。
なかなか見つからない。
と思ったら、あった!
デカすぎて、見えなかったわ。

取れるわけない!
カゴはあきらめた。

写真、拡大するとわかる。
真ん中の青いカゴのタワー。

誰が積んだ?

不機嫌な人たち2023/06/29 21:58

関わっている団体で、
自分の感情をコントロールしない人が多い団体がある。
いや、本人はコントロールしているつもりなのだろう。
で、我慢を重ねた上で、破裂させているのだろうけれど、
会議の度に、怒っている感じがする。

いつも誰かが怒っている。

かなわんなぁと思うのは、その怒っている人自身が、
「あんたにはこういうところがある!」と責めている相手とそっくりなところだ。
心の中で、「あなたもそうだよね」とつぶやくが口には出さない。
火を噴いて攻撃されるだろうから、、、。

例えば、自分が投げかけたメールの返事がない、と言って、
烈火の如く憤る。
しかし、その人自身が、こちらが投げかけたメールに返事をしてこないことなど、しょっちゅうだ。
だから、私は、
「誰でも、忙しい時期がありますから、、、」と言うのだが、
「忙しい時でも、こんな大事なことに応えないなんて!」と、怒りはおさまらない。

こういうタイプの人が多数派だ。
そして、そういう人に限って、自分より強そうな相手には文句を言わない。
で、仲良くしていたりする。
私は、あんまり理不尽だと、相手が誰であろうと、その理不尽だけを指摘するのだが、
人というものは、相手によって態度を変えるらしく、
結局、私のような、思考をする人間は生きにくい。
相手によって態度を変え、弱っている相手を攻撃するような、ゲスな(と敢えて言うが)人間が生き残る。
正義を振りかざしている団体であるだけに、とても残念だが、
こういう人たちを相手にしていると疲れ果てる。

そろそろ遠ざかろうかな、と思っているのだが、、、。

人はそれぞれ時間の経ち方が異なる。
自分が暇で、メールの返信を待っているときは、相手の動きを遅く感じるのだろう。
が、自分が忙しくしていて、アッと言う間に時が経つときは、相手からの働きかけへの応答が遅くなっていても、自分自身は忙しいので、遅くなっている自覚がない。
それぞれの時間がずれているだけだ。
だから、客観的に時間を測れば、相手の返信が「遅い」と感じる時間も、自分が「早い」応答をしたと思っている「時間」も、実は変わらないのかもしれない。
客観的にものが考えられない人は、自分の尺度ですべてを測る。

そういう人に何を言えばよいのかわからないから、困惑するのだ。

逃げた方がよいのだろうな。