なんだか、私もおかしくなってくる、、、2017/01/14 08:47

こんなことではよくないと思いながら、
ネガティブな感情にやられそうになる。

義姉に何かを納得させるのは、ものすごくエネルギーが要る。
上の姉がいらつくのはわかる。
が、私までいらつくわけにはいかないので、
とにかく、辛抱強く、ものすごく忍耐強く、
説明を繰り返す。
それでも短時間で、元の木阿弥。
納得してくれたことも、消え去る。
ものすごく目の粗い笊に液体を通すような感じで、
たまたま、ごく少量の記憶が引っかかって残っていることもある。
が、引っかかっているのは、記憶の片鱗なので、
全貌はもうわからず、記憶をたどって元の情報を知ることは不可能だ。

彼女を病院へ連れ出した時も、
無事に診察を終えて、地域包括支援センターの人とも姉とも別れて、
一人になった時、どっと疲れが、、、。
消耗しきっている感じだ。

地域包括支援センターの人は、強制にならないように一歩引いているので、やはり姉を説得して目的を達成するのは、私にかかってくる。
なんとか、義姉を専門医に診せて、診断書をもらい、
意見書をもらって、
介護保険につなげることまではするしかない。
できれば成年後見人をつけて、代わりに意思決定する人がいた方がいいのだが、そして、そういう人に早くバトンタッチしたいのだが、
今のところ、私がキーパーソンになっちまっている。

上の姉から、「頼りない姉でスミマセン」とメール。
娘からは、「頼りない子どもたちでごめんね」とライン。

いや、どちらも頼りない人たちではないのだけど、
どうも、私の周りに来ると、頼りないことになってしまう。
私がそうしてしまうのだろうか?
私の問題なのかなぁ、、、。

う~ん。
私が頼れるのは誰?
誰かに優しくされたいよ~。

母も私を頼りにしていたが、
私が母を頼ることはなかった。
と言うより、頼りにすると、肩透かしをくらったので、
最初から頼らなくなった。

なんだか、不幸感が、、、。
まずいぞ! なんとか、立ち直らねば。

不幸感2017/01/14 09:36

ブログに連続記事。

昔、管理職だった頃、
息子と同い年の部下の男性(と言っても、一応、彼も管理職)に、
私の息子が全然いたわってくれない、と、
冗談まりじにだけど、話したことがある。
私の母を車に乗せるときはそろりそろりと、
とてもソフトな運転をするのに、
私が乗せてもらった時は、まだ半身しか乗っていないのに、
車を発進させて、「まだ乗ってない!」と言ったら、
「え? まだ? 早う、乗りぃな」と、なんとも情のない返事。

なぜ、私はこんな扱いを受けるのかと、
そのエピソードを紹介して、ぼやいたら、
「僕もM吉さんみたいなお母さんだったら、そうなりますよ」と、
答えが返ってきた。

なぜ? 
なぜぇ~?

私は、愛されないの?
いたわってもらえないの?
優しくしてもらえないの?

親に優しくしてもらえなかったので、
なんだか、どこかで「愛を乞う人」(あ、映画のタイトルみたいだ)になってしまっているところがある。

もう、年なんだから、諦めようかね、と思いながら、
これで死ぬのは、私ってかわいそう、と思ったり、
でも、かわいそうがっても仕方ないから、
諦めるか、と思ったり、、、。

いくつになっても、同じ悲しみをよみがえらせてしまうわ。

愛を乞う人2017/01/16 17:12

つい先日、テレビドラマで、
篠原涼子主演の「愛を乞う人」をやっていた。

全部観たわけではなく、
たまたまテレビをつけたら、それらしいシーンに遭遇して、
「おや、これは? 俳優は違うけど、「愛を乞う人」のようだ」と思い、
番組詳細を確認して、やっぱり、という感じだった。
1シーンを見てすぐにわかったのは、
かつて、原田美枝子主演のこの映画を何度観たかわからないくらい、観たからだ。
なぜ購入したのかも忘れたのだが、VHSを持っていて、
戦後の街の風景や、虐待のすさまじさや、すさんだ女性の描き方など、
強烈な印象に圧倒されていた。

授業でも何度か使ったことがあるのだが、
心理学系の授業でも観せていたらしく、
知っている学生も結構いた。

戦後という時代背景も心理的状況も、尽きない興味に誘われるのだが、
そして当然、下田治美さんの原作も読んだのだが、
(だいたい、映画化された作品は原作より劣るという印象を持っているが、これは、映画化されてもレベルが落ちていないと思った)
そもそも小説なので、私が求める解説には至っていない。
ますます、謎が深まり、強烈な印象を残し続けているのだった。

その下田治美さんについて、検索をかけたが、やっぱりよくわからない。
そして、もう亡くなっておられる。

エッセイをいくつも書いておられるようだが、
あの作品の背景につながりそうもないので、隔靴掻痒の感じである。

その関連で思い出すのは、
大杉栄と伊藤野枝の遺児、伊藤ルイさんの著作の中の数行である。
連想ゲームのように、この映画のことを考えると、必ず、つながって思い出す。
伊藤ルイさんには、生前、一度だけお目にかかったことがある。
仕事の関係で、すれ違った程度の出会い方だったが、
その流れでこの方の本を読んだ。
そこに書かれていたわずか数行が長く心に残っていた。
ルイさんを育ててくれた祖母の家には、他にも自分の「いとこたち」だったか二人の子どもが引き取られていたが、
幼い頃に亡くなったというのだ。
その頃、祖母が言っていたのは、
「こういう子は」(生まれながらに親の情を受けていない、と言うような意味)、
「よう、生きられん」というようなことを言っていた、というのがあって、
(だいぶん、記憶が薄れている。読み直してみればいいのだが、その本が今どこに置いてあるのか、探すのは大変そうだ)
それが忘れられなかったのだ。
生まれながらに幸薄く、生命力のようなものがひ弱いので、
長く生きられない、という意味だったと思う。

「愛を乞う人」を書いた下田治美さんの心象風景をもっと見てみたいと思うのだが、
亡くなられたと知って、それも息子さんのことで訴訟を起こした、と言うような事件が検索で出てきて、
人の生命力の強さや弱さが何に由来するのかは、一概に言えないにしても、
何か、そのはかなさを感じてしまうのだ。

もう私の周りの年の変わらない人たちが何人も鬼籍に入っている。
はかなさと切なさを味わいながら、
自分の残り時間を、ふと数えてしまうこの頃。

まぁ、意外と強靭であった、という総括になるのかもしれないけれど。

補講が休講2017/01/24 14:03

学園祭でできなかった授業の補講が今日でした。
電車も動いているし、普通に行きました。何にも迷わず。

で、配布物を印刷して、もうちょっとしたら教室に行こうと思っていたら、講師室に飛び込んできた先生が、開口一番、
「せっかく来たのに休講なんですね〜。何しに来たんだか」とおっしゃる。

え? にゃんですと?

思いもしてないことを言われると、私もおかしくなります。

で、教えてもらった貼り紙を見て、了解。
大雪警報が出たので休講にしたそう。
そう言えば、事務の人が何か不思議なことを言ってました。
「寒いのにせっかく来てくださったのに、休講ですものね〜」とか何とか。

休講って、確かに彼女は言ってました!
想定していないことは、耳がスルーしたようです。

やれやれ〜
もっと早く気付いていれば、大阪にいたのに。

まあでも、テストだから頑張って来た、という学生にも会えたし、ま、いっか。

人間関係でちょいちょい思うこと2017/01/27 09:38

チョイチョイ、同じようなネタで書いていますが、
また、ネガティブな感情のこと。

先日、会食した二人の友人たちとは、パワハラ、モラハラの話題で、
盛り上がりました。
三人とも共通の人(Tさん)に、いやな思いをさせられた経験があります。
と言っても、私は第三者に近いです。
直接いやなことをされたのではなく、奇妙な言動で困惑した経験しかありません。
が、後の二人は、パワハラ直撃でした。

二人とも、今まで私にはそんなに直截に語らなかったので、
イマイチよくわからなかったのですが、
会食では、二人の被害経験が白熱して語られ、
そうか、ほんとうはこんなに怒っていたのか、とあらためて驚いたと共に知ったことも多々ありました。

パワハラ、モラハラの被害を受けた人は、
心傷ついて、屈折します。
疑心暗鬼にもなります。
Tさんは、かつて、私たち3人とも、それぞれに仲良くしていた人。
私は、直接の被害者ではないので、二人とも私には、
Tさんのことをあまり強く悪くは語っていなかったのでした。
被害を受けた二人が、ほんとうに心許せる相手は、同じ被害者。
会食した二人が最近、とても仲良くしているので、
「仲良しなんだなぁ」と、ちょっと不思議だったのですが、それで腑に落ちました。
ある日、語り合って、共にTさんから被害を受けたことがわかったそうです。

被害を受けると、同じ思いを共有している人が、必要になります。
たとえ共感してくれる人でも、温度差があるだけで辛い。
被害者には怒りもあるので、温度差のある相手に、怒りまで共有してもらうのは難しいでしょうから。

嘗て、ある人がパワハラ被害を受け、
味方をしてくれている人との温度差に気づいて、ひどく傷ついたことがありました。
ハラッサーではなく、その味方だと思ってきた人との同席も辛がるようになりました。
その人は感情レベルで温度差はあるけれど、正しいことをしたいと考えている人でもあります。
決して、ハラッサーに加担するような人ではありません。

でも、被害を受けて傷ついた人は、そういう第三者にも傷つくのです。

ある会合で被害者が、その第三者の同席を辛がるので、
やむを得ず、その人の同席を断ったことがあります。
もちろん、それらしい理由をつけたのですが、相手は自分が私から拒否されたと感じたようです。
それ以降、とても私を慕ってくれていた人ですが、連絡が途絶えました。

気持ちは引き裂かれるように辛いですが、
こういう時、誰を守るのか、否、何を守るのか、という判断を迫られます。

私は往々にして、「人」ではなく、「事」を重視する、という癖があります。
何が正しいか、ということを考えようとしてしまいます。
人の好悪にふりまわされたくない、と言うか、、、。

でもそれは、他人事だから、ですね。
私にも人の好悪がないわけではありません。
大事にしたいと思っている友人たちはいます。

でも、何か、行動するとき、できる限りニュートラルにふるまおうとするのです。
Aのことではあの人は嫌な人だったけど、
Bについてはあの人は関係がないのだから、公平にしようと考えるのです。
でも、そういう私の立ち位置は、時に、不信感を抱かれます。

古い友人に、「よくあんな人と仲良くできるね」と言われたことがあります。
その古い友人は、好き嫌いが激しいので、嫌いとなったら、全部嫌いになるようです。
でも、人っていろんな面があるからなぁ。
一つのことで、判断できないよ、というのが私のホンネ。

と、偉そうに言いながら、
私も強い恨みの感情や怒りを抱くことはもちろんあります。
そして、ネガティブな感情は、仲間を求めます。
自分の嫌いな奴を、同じくらい嫌いと思っている人が必要になるのは事実。
そして、そういう人に救われてきたのも事実なのですが、、、。

他人事だと理性的でいられるけど、
自分のことになると理性なんかぶっとんじゃう自分を認めるしかないでしょうね。