哀愁と二人連れ2017/06/28 10:04

同行二人(どうぎょうににん)という言葉を思い出したが、
私の場合、そんなに格調高くないし、、、

母が、
「もう、長く生き過ぎた」と言ったり、
「もう、終わりにしようと思う」と言ったりしたときと、
たぶん、近い心境にあるのかなと思う。

仕事が、自分の存在価値を問わないで済む状況を作っていた。
多くの人がそうなのだろう。
自分の存在価値を問うまでもなく、
日々の仕事や用事を懸命にこなしていく。
が、ある日、それを失うと、この世に用のなくなった自分に呆然とする。

忙しい時は、あんなに願った「毎日が日曜日」の生活に、
慣れることができない間、おそらく空しいため息をつき続けるのだろう。
私の友人の一人は、田舎に家を買って、
広大な庭の手入れをして忙しくしている。
が、一人きりの暮らしだ。

また別の友人は、NPOを立ち上げたり、団体のボランティアを引き受けたりして、有償ではないが社会活動を継続している。

「身を要なきものに思ひな」すのを、先送りしている。

私もまだ、ゼロではない。
自治体の審議会の仕事は続くし、
授業もゼロにはならないが、
早晩、すべてがなくなる。
その日、私はどうしようかと、漠然と哀しみを感じている。

高齢になってから、やったことのない仕事ができるとは思えない。
NPOを立ち上げる馬力はないし、
これといった趣味もない。

ある年長の女性は、すべてそれらを見越して、
人生設計をしてきた。
高級ケア付きハウスに住んでいるが、
そこで自分の趣味を存分に生かせるように、
ハウス設計の段階から主導権をもって動いてきた人だ。
そして、見事なまでに充実した暮らしを実現している。
すべて想定内で動くことのできるその人の賢さに感服しながら、
挫折を知らないメンタリティ(であるとすれば、という但し書きつきだが)の揺らぎのなさに、魅力を感じない、という厄介な自分。

「転ばぬ先の杖」
親によく言われたが、
転んでもいないのに、杖を持つ気にはなれなかった私は、
転ぶ度に「痛い」と思い、なぜ転んだのかを分析し続けてきたが、
結局、「杖」には興味が持てないままだ。
「転ぶ」理由の方に興味があって、、、。

だから、明日がどうなるのか、わからない。
わからないが、漠然とした不安はある。
8歳も年下の友人が、
「定年後、どうしよう?」と、あれこれ模索している。
で、思いついたことを次から次、電話で伝えてくる。
だいぶん、いろいろ変転した。
地方の眺めのいいケアハウスに住む、とか、
再任用の枠で仕事にとどまると言ったり、やめると言ったり、
シニア向けのサロンをやろうと言ったり、、、
今は、仏教の勉強をしたいのだそうだ。

人が頭の中で、ああでもないこうでもない、と考えることを
全部、口に出して言ってるね?
面白いけど。

で、私自身。
何も定まらない。
同行二人(どうぎょうににん)と書いた笠をかぶって、お遍路の旅に出る、というのも、昔、考えたのだけれど。
その「意味」を自分なりに考えながら、下手くそなブログを書くのもいいかな。

ポスト・トゥルース2017/06/28 22:41

もう10年以上も前になるが、
私が遭遇した事件の時には、まだ標題の言葉はなかった。
が、まさにポスト・トゥルースの事件であった。

当時、ある「陰謀」が強く言われていたが、
その「陰謀」の場面を見た、という人は誰もいなかった。
「陰謀」があったに違いない、という推測だけが独り歩きしていた。
「陰謀」によって、ポジションを奪われた、という人の主張であった。
が、その後、その人に最も近いポジションに就いた私は、
どこをどう見ても、「陰謀」の痕跡を見つけられなかった。
私の目には、「陰謀」などなかった。
が、パワーゲームがあり、
様々な人たちによるそれぞれの思惑に基づいた言動はあった。
早い話が、「陰謀」を共有するほど意思統一のできた組織ではなく、
それぞれが、自分の利益を第一義に、勝手にいろいろ言ったりやったりしていた、という感じだ。

私の目から見れば、「真相」は実にくだらない。
各々が自分の感情で、パワーゲームをやっていた、のだ。
その結果、ある人がポジションを追われてしまった。
ポジションを追われたのは気の毒だが、
もう少し、冷静に事態を見る目は必要だったと思う。
自分の利益に寄与しない人は、みな、悪い人に見えていたようなのだが、
誰もが自分自身の利益に沿って動いていただけなのだ。
くだらな過ぎて、ミステリーにもならない。

しかし、その「陰謀」疑惑は、裁判にまでなった。
私も迷惑をこうむった。
自分の利益に目がくらんで、「陰謀」だと思い込んだ人の妄想に、
皆、振り回された。
しかし、その「陰謀」説は、まだ信じる人は信じているのだろう。

人は、見たいものだけを見、知りたいことだけを知り、信じたいことを信じるのだ、と、この事件に振り回されて、つくづく思った。

ポスト・トゥルースの時代だと言う。
それなら、私はもっと以前に巻き込まれて、エライ目にあった。
だから、とてもよくわかる。
ほんとうに、そういう時代だ。
否、昔からそうだったものに、呼び名が与えられたのかもしれない。
たぶん、そうだろう。