散る桜 残る桜も散る桜2026/05/17 10:04

一人暮らしで病弱で、という境涯は、あんまり気分が盛り上がらないものだ。

楽しいことが少ない。
人とあまり接触しないので、結局、ひとりぼっちで陰気になる。
陰気になると、余計,人が寄りつかない。
当たり前だけどね。

半月ばかり入院していた。
どういうことが原因でこうなったのか、わからない。
ただ、その入院の前、一ヶ月近く、ものすごく欝っぽかったのは事実。
それが、自律神経に不調を来す原因になったのか、
腸がもともと丈夫ではないので、こちらに症状が出たのかも。

まあ、とにかく、半月の入院で、さらに体力を消耗した。
退院後、さらに半月が経ったが、すっかり「元気」とはならない。

気分を盛り上げる材料が少なすぎてね。

時々、グループホームとか、そいうところへ入所することも考えるのだが、
そういう所で、一人でもとんでもない人がいたとしたら、(性格が悪いとか、なぜかわからないけど、私のことを気に入らない人とか)に遭遇してしまったら、もう地獄だ。
それだけはやめようと、やっぱり思う。

若い頃、専業主婦として(望んだことはないけど,そういう立場だった)いつも家にいたとき、「ここはぬるま湯地獄」だと、日記に書いていた。ずっとぬるま湯に浸けられていて、出られないのも地獄だった。
何も事件も起こらない、何も辛酸を舐めるわけではない、が、辛かった。

今もそんな感じかな。
事件はない。
辛酸を舐めているわけではない。
が、辛い。
希望がないとか、喜びがないとか、なんか、ポジティブな事がなさ過ぎて、
しかもそんなにふんだんに使えるお金もないし、
お金をかけないであちこちに出歩くだけの丈夫さもないし、、、ね。

なんか、人生を通じて、こういう感じかな。
その間に、絶望のどん底に突き落とされたり、
わけのわからない陰謀に巻き込まれたり、
人の世は、私が何もしないでも忙しく、
周りが勝手に動き、事件を起こしまくっていた。

やっと、そういう世知辛いシャバから退いて、
自分なりに平和になったのだけど、
そうすると、今度は、生きながら、死んだような日々。
まあ、いいけどね。
こういうふうに書いているだけで疲れてきたわ。

そのうち、死ぬんだろうけど、
具合の悪いときは、もう死ぬのかなと思ったけど、
なんだか、残念な人生だったな、としか思えないんだな。

息子という他者2025/09/28 11:36

 息子が、3年前の交通事故後の手術のあと、だいぶん、回復していたのだが、あまりにも複雑な骨盤の修復施術であったために、関節が痛んでいて(それは手術後の医師の説明でも予測されてはいたのだけど)、とうとう人工関節に置換する手術を受けることになった。
 以前の入院は事故現場が長崎であったため、長崎の病院だったが、今回は、家から通える距離の総合病院である。コロナの影響もほとんどなくなり、面会も楽になった。
 それで、改めて、息子という関係性の他者との出会いにいろいろ思うことが増えた。

 50歳代前半の「おじさん」になっている息子との心理的距離は近くはないが、政治的な思想などは、そんなに違わない。
トランプのむちゃくちゃぶりや、参政党の移民排斥の言説など、彼も同じように批判的に見ているので、話していてもストレスは少ない。
さらに、3年前からのにわか障害者の生活を通して、街のつくりが、いかに健常者仕様であったかを痛感することが多いらしく、今の状況を、「学ぶ」機会として受け容れていることも、わたし的には賛同できる姿勢だ。

 が、やっぱり、理解が難しいところもある。特に、彼は私の思いや状況については、表面的な理解しかしていないなと、よく思う。彼の父親もそうであったように、「女性」の立場には興味が薄く、私が機嫌良く見えていればそれでよし、とする無関心さではある。
男性にとっても、生きがたい社会であるので、それ以上に、自分を置いておいて気を配らねばならない存在は、できればいないに越したことはない。
子どもを産んだ「女性」にとっては、自分のこと以上に気を配り、安全を保ち、絶えず庇護しないといけない「子ども」という存在がデフォルトだった。
わかりやすく言えば、(わかりやすいのかな?)、自分の顔が痒くても子どもを両手で支えないといけない状況では掻いたりできない。
痛くても苦しくても、まずは「子ども」の安全確保だ。
自分のことは後回し、というのが常態だ。

息子はそういう経験は、おそらくしていないのだろう。
職種によってはあり得るが、「仕事」で自分以外の人に配慮するのと、「日常生活」で四六時中、自分以上に他者に配慮するのとは、やっぱり違う気がする。
日常生活では、インターバルはないからね。

私への共感度で言えば、娘の方が遙かに高い気がする。
彼女は子どもを産んでいないが、それでも、共感度の高い人だ。
高すぎて心配になるくらい、気を配ってくれる。

これって、ジェンダーかな?

母と息子、という関係性にある他者との出会いを、今、日々、感じている。
子ども時代だけではなく、彼は,生まれてから今日に至るまで、「男」として社会化されてきている。
「男」たちと、「男」社会で、仕事をしてきている。
大人になっても、社会化は続く感じがする。

自己肯定感2025/05/21 09:53

この手のテーマは、しょっちゅう書いているので、また同じ事の繰り返しかもしれないけれど、
人の生涯に大きい影響を与えるのは、
標題のこのことだと思う。
しみじみ思う。

人は、みな、少しずつ他の人とは違うものだ。
癖も、生活習慣も、体調も、あらゆる面が人それぞれだ。
共通点もあるが、違いもある。
それは、赤ちゃんの時から顕著だ。
それが、個性というものだろう。

が、その個性の違いを受け止められない養育者に育てられると、
子どもは災難だ。
自分そのものである部分を否定され、除去しようとされ、
自分であろうとすることが攻撃を受ける。
その子どもは、「その人自身」でいることを受け容れてもらえないのだから、
いつもびくびくといじけている子どもになる。

が、養育者によっては、
子どもの個性を当たり前のこととして理解しているので、
その子どもが、その子らしい部分を発揮することを妨げない。
「そういう子だ」と受容している。
矯正しようとはしない。
もちろん、社会のルールやマナーは教えるが、
その子がその子自身であることを否定したりはしない。

人はそれぞれ、みな異なるので、
それぞれその人らしいだけなのだが、
この、養育者の態度によって、人生の明暗が分かれる。

その子らしさを損なわれずに受容されてきた子は、
臆することなく、その子自身の個性を発揮して、
のびのびした自己認識を持つことになる。

が、その子らしさを否定され、叱られ、嫌われて育った子は、
自分が自分であることに引け目ばかり感じている。
自分は良くない存在だと思い込んで育つ。
いつもおどおどし、暗い人格を形成して大人になる。

以下のことも、嘗てここに書いたことかもしれないが、
また、書く。
忘れられないことだからだ。
以前、大教室で大人数の学生を教えていた。
ある時、同じ系列の科目を教えている専任の先生から、
「学生アンケートをとりたいので、M吉先生のところは学生数が多いから、アンケートに協力してほしい」と、頼まれた。
もちろん、二つ返事でOKである。
授業の最後の方で時間を取って、アンケートに回答するように学生に伝えた。
人数が多いので、教室を出るときに、教卓にアンケート回答を置いて出るように指示をした。
学生はそういうのは嫌がらない。
2~300人の学生が教卓に回答用紙を置いて、次から次へと出て行く。
そのアンケートは匿名だが、フェイスシートに「自分のことを好きかどうか」という設問があって、5段階のうちのどこかに回答するようになっていた。
学生が回答用紙を置くのを見守りながら、ある時から、用紙を置く学生の表情とフェイスシートの回答との関係に気づいた。
学生の表情が暗めの子は、必ず、「自分が嫌い」を選んでいた。
いきいきした、あるいは脳天気な顔つきの学生は、「自分が好き」のところをチェックしていた。
学生の表情を見てから回答を見ると、100パーセント、予想が当たった。
もちろん、学生たちは無表情なつもりだろう。
泣き顔でもなければ、一人で笑っているはずもない。
比較的豊かな家庭の、常識の通じる学生たちなので、普段の、一人でいるときの表情をしているだけだったろう。
が、憂いを帯びた顔と、前向きのいきいきした表情の違いは、見事に回答に反映されていた。

許されるなら、悲しげな学生一人ひとりを傍に呼んで、
「あなたはとても素敵な子よ、あなたのままで素晴らしいのよ」と伝えたくなった。

養育者は、子どもの間違った行為は正してやらないといけない。
が、その子どものその子らしさを正そうなどとしてはならない。
それは、その子自身であって、そこを否定すると、その子の魂は死ぬ。
魂は殺してはいけない。

あらためてこんなことを考えたのは、
私の友人たちをいろいろ思い浮かべて、
皆それぞれ、どこか変で、独特だ、と思ったからだ。
が、そのことを恥じるわけでも、悔いるわけでもなく、
堂々とその人自身である、という人が多い。
たまたま、私の交流関係は、高学歴で仕事に成功している人が多い。
高学歴で仕事に成功する、ということは、
満足度、幸福感が高い、ということと相関関係があるだろう。
だから、比較的、元気で明るめの高齢者が多いことになる。
もちろん、それも一概には言えない。
私の周りにはそういう人が多いようだ、というだけのことだ。

一方、昔、出会ったカウンセリングに訪れていた人たちは、
自己否定の権化のようだった。
一時的な「相談」ではなく、カウンセリングを必要とする人たちは、
「あなたはそのままで素敵なのよ」という言葉を聞きたかったのかもしれない。
が、カウンセラーからいくらその言葉を聞いても、
あまり効果はない。
カウンセリングの理屈を知り尽くしているその人たちは、
カウンセラーの決まり文句で慰められたりはしない。

必要だったのは、もっと幼い頃、
自己認識と共に成長するプロセスで、
その言葉を聞くことだった。

じゃあ、成長しきったら、もう回復できないのか。
いや、大人になっても好転することはあるだろう。
ただ、子ども時代に否定的に育てられた悲しみは残る。
心に傷は残るだろう。
それでもいいのだ。
完治はしないが、寛解まで持って行ければ、上上出来だ。

そんなことを考える今日この頃。




強さって、何?2025/02/10 20:02

私より、年上の人が書いているエッセイを読んだ。
賢くて、読書意欲が旺盛で、読んだ本について、いろいろ思い出をまじえながら、エッセイを書かれている。

短いエッセイだが、読み応えがある。

で、歴史に残る女性の哲学者や革命家について語った後、
最後に、日常に戻ったご自分の暮らしの風景を書かれている。
それによると、98歳の叔母さんがこの頃、骨粗鬆症になって
歩くのがいささか辛そうになられたとのこと。

で、M吉、「ん?」「98歳で?」と思わず、年齢のことろを再読する。

骨粗鬆症にはぎりぎりまだなっていないそうだけど、
予防のために薬を服用し始めた私、、、
98歳の人が、私より、ちょと先を行っておられる、、、。

その人が若くて強靱な身体の持ち主なのか、、、。
私が早く追いつきそうになっているのか、、、。

思えば、そのエッセイを書いた人も、
シャープで、頭脳の衰えはなさそう。
よく旅行もされるようで、どう見ても、お金持ち。
先日、ものすごく久しぶりにお会いしたが、
少し背中が丸くなっておられたけれど、
お元気そうで、溌剌としておられた。

お金持ちって、きっと、からだも強いんだ。
いやいや、健康を維持できる資力がある、ということだろう。
旅行も行ける、温泉も行ける、趣味も楽しめる、、、
未来への不安もなければ、強さも維持できるのだろう、、、。

と言うのは、もちろん、一部の人の話で、
人の強さ、弱さは、測るのは難しいし、意味もないかも。

まだ現職だった頃、仕事上の困難が次から次、目の前に立ちはだかった。
闘わないといけない相手が複数いて、毎日、ファイティングモードだった。
が、身のうちから、力を感じることがあった。
何だかわからないが、ものすごく、気の強い自分を感じていた。
私って、強い! と、自分で驚いていた。
闘志満々だったのだ。
人生の一時期でも、そういう自分を感じられたのは良いことだろう。
自分の強さに自己陶酔できたなんて、、、。

強くなったり、弱くなったり、一人の人間でもいろいろある。

がんばるには、鉄のハートが要る2025/02/02 14:27

この年になっても、
まだ苦労は続く。

人と関わると、面倒なこともあるし、
気もたくさん遣う。
感情も揺さぶられる。

それでも、誰とも関わらないで生きることは難しい。
人は人を求めるものなのかもしれない。

いや、言い直そう。
私は、人を求めているのだろう。

傷つけられず、優しい気持ちでいられる人ならなおありがたい。

でも、そうもうまくいかないので、
結局、鉄のハートが要るなあ、という感慨。