桜紅葉 ― 2021/11/26 16:41
なんで、今頃、、、という話なのだが。
今年は、、というか、今年も、というか、
紅葉を観に行くことがない。
京都の嵐山には、若い頃、毎年秋になると出かけていた。
私は、嵐山の紅葉が、この世で一番美しいものとすら思っていた。
が、今や、コロナ禍で、どこへも出かけることがない。
で、近所の大阪城公園にいつものように出かけるのだが、
ここの紅葉は、イマイチと思ってしまう。
私の記憶の中で、嵐山の紅葉が、ますます美しくなり、
光り輝いてきているので、
身近に味わえるものを有難く思わなくなっている。
京都の思い出がどんどん美化される。
が、先日、京都に住んでいる友人が、
「嵐山もイマイチだった」と言っていた。
どうも、今年の気温の変化のせいで、鮮やかさが足りないとか、、、?
そうか、じゃあ、京都に行けなくてもいいか、という気分になった。
で、そういう目で見ると、また大阪城公園を見る目が変わる。
桜の見事な風景はこの春に味わったばかり。
ただの京都びいきではない。
桜の大阪城公園は素晴らしくて評価している。
第二寝屋川まで来ると、
桜の華やかさに目を奪われて、思わず、声が出るほどだった。
そして、先日、
友人と散歩していて、その桜が
見事に色づいているのに気づいた。
楓の色とはまた違う、実に微妙な柿色で美しく群れている。
「うわぁ、きれい」と、思わず、声が出る。
「今年は、秋もがんばることにしました! って、言ってるようね」と、
興奮して私が叫んだら、
「たぶん、毎年だと思う」と、友人が笑う。
いや、気づかなかったぞ、
秋にこんなに美しく色づくなんて、、、。
ちゃんと見ていなかったのは、こっちなんだけど。
与えられたものを改めてちゃんと見るようになるのは、いいことだね。
今年は、、というか、今年も、というか、
紅葉を観に行くことがない。
京都の嵐山には、若い頃、毎年秋になると出かけていた。
私は、嵐山の紅葉が、この世で一番美しいものとすら思っていた。
が、今や、コロナ禍で、どこへも出かけることがない。
で、近所の大阪城公園にいつものように出かけるのだが、
ここの紅葉は、イマイチと思ってしまう。
私の記憶の中で、嵐山の紅葉が、ますます美しくなり、
光り輝いてきているので、
身近に味わえるものを有難く思わなくなっている。
京都の思い出がどんどん美化される。
が、先日、京都に住んでいる友人が、
「嵐山もイマイチだった」と言っていた。
どうも、今年の気温の変化のせいで、鮮やかさが足りないとか、、、?
そうか、じゃあ、京都に行けなくてもいいか、という気分になった。
で、そういう目で見ると、また大阪城公園を見る目が変わる。
桜の見事な風景はこの春に味わったばかり。
ただの京都びいきではない。
桜の大阪城公園は素晴らしくて評価している。
第二寝屋川まで来ると、
桜の華やかさに目を奪われて、思わず、声が出るほどだった。
そして、先日、
友人と散歩していて、その桜が
見事に色づいているのに気づいた。
楓の色とはまた違う、実に微妙な柿色で美しく群れている。
「うわぁ、きれい」と、思わず、声が出る。
「今年は、秋もがんばることにしました! って、言ってるようね」と、
興奮して私が叫んだら、
「たぶん、毎年だと思う」と、友人が笑う。
いや、気づかなかったぞ、
秋にこんなに美しく色づくなんて、、、。
ちゃんと見ていなかったのは、こっちなんだけど。
与えられたものを改めてちゃんと見るようになるのは、いいことだね。
なんか、絶望的だな ― 2021/01/27 22:38
菅首相が誕生した時、
彼は、
「自助、共助、公助」と恥ずかしげもなく言った。
私の周りは、一人残らず、呆れて、絶句してしまった。
政治家が、「自助」なんて言葉を使うのか、、、。
順序が逆だと言う人もいたが、
私は、そもそも、政治家の口からそんな単語が出て来ること自体に、ものすごく抵抗感。
政治家の仕事を、初っ端から投げ出したことばだ。
そんなことを言う奴は、政治家ではない。
案の定、彼は政治をしない。
今、惨憺たるありさまだ。
自民党に投票する奴って、どんな奴?
責任取れよ。
自分が選んだんだから。
「国民が選んだんだから」とはよく聞くフレーズだが、私は選んでいないよ。
国民の責任にして、評論家ぶっている連中にもむかつくのだ。
自民党を選んで、ずっと政権を許し続けている連中のせいだ。
と言っても、そういう人たちは、
自分たちの責任なんて、考えもしないだろう。
大きな政党だから、寄らば大樹と、選んでいるのだ。
力のある者におもねる文化は、「日本の伝統」だからね。
彼は、
「自助、共助、公助」と恥ずかしげもなく言った。
私の周りは、一人残らず、呆れて、絶句してしまった。
政治家が、「自助」なんて言葉を使うのか、、、。
順序が逆だと言う人もいたが、
私は、そもそも、政治家の口からそんな単語が出て来ること自体に、ものすごく抵抗感。
政治家の仕事を、初っ端から投げ出したことばだ。
そんなことを言う奴は、政治家ではない。
案の定、彼は政治をしない。
今、惨憺たるありさまだ。
自民党に投票する奴って、どんな奴?
責任取れよ。
自分が選んだんだから。
「国民が選んだんだから」とはよく聞くフレーズだが、私は選んでいないよ。
国民の責任にして、評論家ぶっている連中にもむかつくのだ。
自民党を選んで、ずっと政権を許し続けている連中のせいだ。
と言っても、そういう人たちは、
自分たちの責任なんて、考えもしないだろう。
大きな政党だから、寄らば大樹と、選んでいるのだ。
力のある者におもねる文化は、「日本の伝統」だからね。
トランプの戦略 ― 2021/01/22 20:02
トランプは、
「既得権益」の上にあぐらをかいている連中によって、
収奪されてきた正当な利益を奪還したい、
という欲望を
不満を持っている人々の心奥から掘り起こし、煽り、
狂信的な信者を増やした。
このやり方は、大阪で維新の橋本が、
公務員を批判し、
日頃から公務員に不満を持っている層の代弁をして、
支持者を増やしたのと同じだ。
トランプも橋本も、人々のくすぶる怒り、不満にうまく火をつけた。
アメリカは暴徒と化した人々がたくさん現れ、やっぱり極端な国だと驚いたが、人々のトランプへの傾倒は共感はしないが推測はできる。
だが、トランプのカリスマ性は、トランプ教団の教祖までであるべきだったとは思う。
とにかく、あの扇動はうまかった。
最後は、隠れていた狂人ぶりが露呈して、ハッと我に返った信者もいただろうが。
維新の人気もこれに近くて、ちょっと怖い。
しかし、今のところ、暴走は止まっている。
若い人は、維新を革新だと思っている、と聞いて、革新の意味も変わったのだと改めて思う。
都構想を焦りすぎて、大阪市民は、何とかわけのわからないところの手前で踏みとどまれた。
しかし、維新は、相変わらず人気がある。
ポピュリズムの典型だ。
そして、こうしたトランプや維新の人気が、
ナチスの台頭と重なって見えてこわい。
じわじわと大きくなる。
バイデンになってようやく、平常に復した、という感じがする。
今後は、まともな政党政治の攻防になっていけばよい。
あるニュースでは、トランプとバイデン政権とは、この幕引きに当たって、裏で取引をしただろうと憶測している。
それが本当なら、トランプは弾劾されない。
弾劾なしを条件に、そろりとホワイトハウスを立ち去ることを受け入れたのではないかと。
トランプ教の信者は蚊帳の外なのだろう。
プアホワイトの怒りは反知性主義の波と結びついて、うまいことトランプに操られたと思う。
橋本にしても、トランプにしても、
人々の不満を掘り起こし、怒りに火をつける、というやり方で、
人々を扇動したのだが、
このパッションは怖い。
思想的賛同ではなく、激情に働きかけるやり方は危険だ。
橋本は、最近、テレビによく出ていて、
彼の言うことが全部いやだということではない。
他の政治家が言わないことも言っていて、各論では賛成できるところもある。
だが、最も重大なことを彼は自覚していなかったと思う。
自分の問題意識が大衆の中のネガティブな感情に届き、
激情として人々に共振し、
危険な波を生み出すことに。
「正しいことは何か」を考えるのではなく、
「自分は損をした」という怒りで行動する人たちが共振し合う事態だ。
政治は、感情で動かしてはならないのだと思う。
人々は、政治家の私利私欲が見えれば、もちろん、非難する。
「許せない」と思う。
だから、そこに訴えかけるように、葬り去りたい議員や切り捨てたい議員が「不正」を働いた、という発信は成功する。
しかし、頭に血をのぼらせていては、公正な判断はできない。
役所の窓口で、カウンター越しの担当者に暴力をふるうような
空しくて凶暴な行為に出るのではなく、
その背後にどういう構造が闇深く広がっているかを見抜けないと、
雑魚同志でいがみ合って傷つけ合っているのを高みの見物をしている者たちが、
相変わらず、この世の富をさらって豊かになるだけだ。
いい加減、目を覚ました方がいいのだが、
富を独占している連中は、
この世を動かす手段も権力も、もうとっくに手に入れている。
その手法は、人々に媚薬をかがせ、催眠術にかけ、一瞬のイリュージョンで惑わせるなど、実に巧妙なのだ。
「既得権益」の上にあぐらをかいている連中によって、
収奪されてきた正当な利益を奪還したい、
という欲望を
不満を持っている人々の心奥から掘り起こし、煽り、
狂信的な信者を増やした。
このやり方は、大阪で維新の橋本が、
公務員を批判し、
日頃から公務員に不満を持っている層の代弁をして、
支持者を増やしたのと同じだ。
トランプも橋本も、人々のくすぶる怒り、不満にうまく火をつけた。
アメリカは暴徒と化した人々がたくさん現れ、やっぱり極端な国だと驚いたが、人々のトランプへの傾倒は共感はしないが推測はできる。
だが、トランプのカリスマ性は、トランプ教団の教祖までであるべきだったとは思う。
とにかく、あの扇動はうまかった。
最後は、隠れていた狂人ぶりが露呈して、ハッと我に返った信者もいただろうが。
維新の人気もこれに近くて、ちょっと怖い。
しかし、今のところ、暴走は止まっている。
若い人は、維新を革新だと思っている、と聞いて、革新の意味も変わったのだと改めて思う。
都構想を焦りすぎて、大阪市民は、何とかわけのわからないところの手前で踏みとどまれた。
しかし、維新は、相変わらず人気がある。
ポピュリズムの典型だ。
そして、こうしたトランプや維新の人気が、
ナチスの台頭と重なって見えてこわい。
じわじわと大きくなる。
バイデンになってようやく、平常に復した、という感じがする。
今後は、まともな政党政治の攻防になっていけばよい。
あるニュースでは、トランプとバイデン政権とは、この幕引きに当たって、裏で取引をしただろうと憶測している。
それが本当なら、トランプは弾劾されない。
弾劾なしを条件に、そろりとホワイトハウスを立ち去ることを受け入れたのではないかと。
トランプ教の信者は蚊帳の外なのだろう。
プアホワイトの怒りは反知性主義の波と結びついて、うまいことトランプに操られたと思う。
橋本にしても、トランプにしても、
人々の不満を掘り起こし、怒りに火をつける、というやり方で、
人々を扇動したのだが、
このパッションは怖い。
思想的賛同ではなく、激情に働きかけるやり方は危険だ。
橋本は、最近、テレビによく出ていて、
彼の言うことが全部いやだということではない。
他の政治家が言わないことも言っていて、各論では賛成できるところもある。
だが、最も重大なことを彼は自覚していなかったと思う。
自分の問題意識が大衆の中のネガティブな感情に届き、
激情として人々に共振し、
危険な波を生み出すことに。
「正しいことは何か」を考えるのではなく、
「自分は損をした」という怒りで行動する人たちが共振し合う事態だ。
政治は、感情で動かしてはならないのだと思う。
人々は、政治家の私利私欲が見えれば、もちろん、非難する。
「許せない」と思う。
だから、そこに訴えかけるように、葬り去りたい議員や切り捨てたい議員が「不正」を働いた、という発信は成功する。
しかし、頭に血をのぼらせていては、公正な判断はできない。
役所の窓口で、カウンター越しの担当者に暴力をふるうような
空しくて凶暴な行為に出るのではなく、
その背後にどういう構造が闇深く広がっているかを見抜けないと、
雑魚同志でいがみ合って傷つけ合っているのを高みの見物をしている者たちが、
相変わらず、この世の富をさらって豊かになるだけだ。
いい加減、目を覚ました方がいいのだが、
富を独占している連中は、
この世を動かす手段も権力も、もうとっくに手に入れている。
その手法は、人々に媚薬をかがせ、催眠術にかけ、一瞬のイリュージョンで惑わせるなど、実に巧妙なのだ。
戦後の民主主義 ― 2020/08/11 09:52
私は戦後の生まれだから、高度経済成長の申し子のような世代の人間だ。
家庭環境もあるのだろうが、使い捨てが推奨され、常に新品を購入することが良いことのような空気があって、
特に母がそうだったせいか、
私は、いつも新しい物を持っていた。
未だに、中古は苦手だ。
他人の使った物をもらい受けるなど、とんでもない、という感じだ。
子どもの頃、社会には、民主主義の到来を、まだ喜んでいるような空気が漂っていた。
小学校、中学校ではしつけが中心で、「ちゃんとしないといけない」という空気があったが、
高校に入った時、その自由な空気にめまいがしそうだった。
当時の京都は蜷川府政。おそらく、その革新の息吹が教員たちにも共有されていたのだろう。
自由と平等を享受し、それを生徒にも伝えようとする教員たちの明るい表情が、私にも希望を与えるものだった。
カリキュラムは基本的に個人単位。
もちろん、学年制なので、学年をまたぐことはできなかったが、
いくつかの選択科目から自分で選び、自分で履修科目を構成する。
全く同じカリキュラムの人は、クラスに一人もいなかった。
ホームルームの机は一応指定されているが、
そこに物は入れない。
ほぼ、毎時間、カバンを持って、受講する教室に移動するからだ。
休憩時間は、常に、移動する生徒が流れている。
親しい友人に会うと、
「次、何の科目受けるの?」という会話がしょっちゅう交わされる。
朝、登校すると、必ず掲示板を見る。
休講通知が出ているので、休講を確認したときは、「さて、何をしようか、どこに行こうか」ということになる。
午後の休講だと、帰宅する生徒も多い。
私も帰宅組だった。
1時間目が休講だとわかっている日は、登校も遅い。
科目によっては、席が決まっていないので、座る場所も自由。
好きな科目だったりすると、かぶりつきに座る。
「この科目が、入試に関係のない人は、後ろの席で内職してよろしい」と言うような先生もいた。
制服の指定はあったが、
制服廃止キャンペーンを張っていた生徒会の役員たちによると、
「制服ではなくて、標準服だから、着ることは強制されていない」とのことだった。
それでも、制服を着せようとする統制型の体育の教員などがいて、
生徒との攻防が盛んだった。
が、体育の教員もさまざまで、
「鬼の××、仏の〇〇」と称されている二人の男子体育の教員がいた。
実際、「仏の〇〇」がホームルームの担任になったとき、
その穏やかさに感嘆した。
こういう大人になりたい、と切に思った。
男子は詰襟の学生服だったが、全員が着ているわけではなく、
ダークな色のセーターやカーディガンをいつも着用している生徒もいた。
あるホームルームで制服談議になったとき、一人の女子が、
「詰襟の制服を着ている男子は素敵に見える」と発言したら、
カーディガン派の生徒が、
「俺、明日から制服着よっ」と言って笑わせていた。
ある男子学生は、詰襟の下に派手なオレンジ色のセーターを着ていて、どこにいても目立っていた。
暑かったのか、たまたま教室で制服を脱いだとき、
一瞬言葉を失った教員は、
「派手な色やなぁ。目がちかちかするわ」と苦笑していた。
女子は、基本的に制服の上着(これは実は気に入っていた)の下に着用するブラウスの規定がなく、(たぶん、白とは書かれていたのだと思う)、
私もフリルやレースのついたブラウスを着ていて、女子のブラウスはどの人もなかなか華やかだった。
靴について、戦後すぐに作られた校則だったのか、
「赤い靴はいけない」とのみ書かれていた。
だから、私たちの世代は、「赤い靴でなければいいんだ」と解釈し、私も冬は、白いブーツをはいていた。
「なんで、そんなしゃれた格好してんねん。君は、おしゃれなんかしないで、家で青い顔をして受験勉強してると思ってた」と漢文の教員に言われた。
受験勉強なんかしていないが、そう誤認識されていたことが結構ショックだった。
とにかく、平和で牧歌的で、穏やかな教員と生徒たちが集まっている学校だった。
振り返る限り、あまり何かを愛する気持ちが薄い私でも、高校時代は良かったと思っている。
個人的には孤独で、家に帰れば親との闘いが続く日々だったが、高校は良かった。
わが校は、六三三一四制だと、一年先輩の生徒が言っていたが、
確かに、一浪して大学に入った生徒が多かったようだ。
社会科の教員は、
「わが校は、昔は秀才が集まっている名門校だったのに、今は何だ、君らは縁側で日向ぼっこしてぼーっとしている老人みたいだ」と、嘆いていた。
そうなのだ、その日向ぼっこしている老人のような平和で鷹揚な雰囲気が私を救っていた。
そして、教員側にも、基本的に生徒の自主性と尊厳を重んじる姿勢が貫かれていた。何か申し合わせがあったのか、やはり、当時の政治的姿勢が反映されていたのか、
戦後の平和と民主主義の訪れを、教員たちはほんとうに喜んでいる感じがした。
これを享受し、維持しよう、という意欲を感じていた。
府内では、毎年、各高校から希望者を募って、討論集会が行われていた。
希望者だけなのだが、結構、参加する生徒も多く、私も毎年参加した記憶がある。
各分科会に分かれるのだが、テーマは部落問題や人権問題などの、政治社会的な問題から、友情や恋愛までさまざまだった。
バスに乗って、会場となっている他の高校へ移動した。
同じ高校生でありながら、理論的な発言をしていく生徒たちに圧倒された。
私はどうしても、部落問題をわかりたかった。党派的な主張と人権論がどうずれるのか、どうしても知りたかった。
今は党派自体が変容しているので当てはまらないが、当時は共産党系と社会党系と、新左翼系の主張が錯綜していて、私にはわからなかったのだ。
党派的に落ち着きたかった。
しかし、誘われて参加した党派は、私には違和感があった。そして、抜けた。
もちろん、数年後には、その違和感の正体を言語化することができ、私は今日的な問題意識を持っていたのだと思えるのだが、当時は苦しんだ。
平和ボケしているような同級生の中で、学校自体はよきものを醸し出していたが、個人的にはいろいろ悩んだ時代だ。
そして、今の時代、あの民主主義の日差しは陰っている。
現政権ののらりくらりは、あの時代の悪しき継承かも。
家庭環境もあるのだろうが、使い捨てが推奨され、常に新品を購入することが良いことのような空気があって、
特に母がそうだったせいか、
私は、いつも新しい物を持っていた。
未だに、中古は苦手だ。
他人の使った物をもらい受けるなど、とんでもない、という感じだ。
子どもの頃、社会には、民主主義の到来を、まだ喜んでいるような空気が漂っていた。
小学校、中学校ではしつけが中心で、「ちゃんとしないといけない」という空気があったが、
高校に入った時、その自由な空気にめまいがしそうだった。
当時の京都は蜷川府政。おそらく、その革新の息吹が教員たちにも共有されていたのだろう。
自由と平等を享受し、それを生徒にも伝えようとする教員たちの明るい表情が、私にも希望を与えるものだった。
カリキュラムは基本的に個人単位。
もちろん、学年制なので、学年をまたぐことはできなかったが、
いくつかの選択科目から自分で選び、自分で履修科目を構成する。
全く同じカリキュラムの人は、クラスに一人もいなかった。
ホームルームの机は一応指定されているが、
そこに物は入れない。
ほぼ、毎時間、カバンを持って、受講する教室に移動するからだ。
休憩時間は、常に、移動する生徒が流れている。
親しい友人に会うと、
「次、何の科目受けるの?」という会話がしょっちゅう交わされる。
朝、登校すると、必ず掲示板を見る。
休講通知が出ているので、休講を確認したときは、「さて、何をしようか、どこに行こうか」ということになる。
午後の休講だと、帰宅する生徒も多い。
私も帰宅組だった。
1時間目が休講だとわかっている日は、登校も遅い。
科目によっては、席が決まっていないので、座る場所も自由。
好きな科目だったりすると、かぶりつきに座る。
「この科目が、入試に関係のない人は、後ろの席で内職してよろしい」と言うような先生もいた。
制服の指定はあったが、
制服廃止キャンペーンを張っていた生徒会の役員たちによると、
「制服ではなくて、標準服だから、着ることは強制されていない」とのことだった。
それでも、制服を着せようとする統制型の体育の教員などがいて、
生徒との攻防が盛んだった。
が、体育の教員もさまざまで、
「鬼の××、仏の〇〇」と称されている二人の男子体育の教員がいた。
実際、「仏の〇〇」がホームルームの担任になったとき、
その穏やかさに感嘆した。
こういう大人になりたい、と切に思った。
男子は詰襟の学生服だったが、全員が着ているわけではなく、
ダークな色のセーターやカーディガンをいつも着用している生徒もいた。
あるホームルームで制服談議になったとき、一人の女子が、
「詰襟の制服を着ている男子は素敵に見える」と発言したら、
カーディガン派の生徒が、
「俺、明日から制服着よっ」と言って笑わせていた。
ある男子学生は、詰襟の下に派手なオレンジ色のセーターを着ていて、どこにいても目立っていた。
暑かったのか、たまたま教室で制服を脱いだとき、
一瞬言葉を失った教員は、
「派手な色やなぁ。目がちかちかするわ」と苦笑していた。
女子は、基本的に制服の上着(これは実は気に入っていた)の下に着用するブラウスの規定がなく、(たぶん、白とは書かれていたのだと思う)、
私もフリルやレースのついたブラウスを着ていて、女子のブラウスはどの人もなかなか華やかだった。
靴について、戦後すぐに作られた校則だったのか、
「赤い靴はいけない」とのみ書かれていた。
だから、私たちの世代は、「赤い靴でなければいいんだ」と解釈し、私も冬は、白いブーツをはいていた。
「なんで、そんなしゃれた格好してんねん。君は、おしゃれなんかしないで、家で青い顔をして受験勉強してると思ってた」と漢文の教員に言われた。
受験勉強なんかしていないが、そう誤認識されていたことが結構ショックだった。
とにかく、平和で牧歌的で、穏やかな教員と生徒たちが集まっている学校だった。
振り返る限り、あまり何かを愛する気持ちが薄い私でも、高校時代は良かったと思っている。
個人的には孤独で、家に帰れば親との闘いが続く日々だったが、高校は良かった。
わが校は、六三三一四制だと、一年先輩の生徒が言っていたが、
確かに、一浪して大学に入った生徒が多かったようだ。
社会科の教員は、
「わが校は、昔は秀才が集まっている名門校だったのに、今は何だ、君らは縁側で日向ぼっこしてぼーっとしている老人みたいだ」と、嘆いていた。
そうなのだ、その日向ぼっこしている老人のような平和で鷹揚な雰囲気が私を救っていた。
そして、教員側にも、基本的に生徒の自主性と尊厳を重んじる姿勢が貫かれていた。何か申し合わせがあったのか、やはり、当時の政治的姿勢が反映されていたのか、
戦後の平和と民主主義の訪れを、教員たちはほんとうに喜んでいる感じがした。
これを享受し、維持しよう、という意欲を感じていた。
府内では、毎年、各高校から希望者を募って、討論集会が行われていた。
希望者だけなのだが、結構、参加する生徒も多く、私も毎年参加した記憶がある。
各分科会に分かれるのだが、テーマは部落問題や人権問題などの、政治社会的な問題から、友情や恋愛までさまざまだった。
バスに乗って、会場となっている他の高校へ移動した。
同じ高校生でありながら、理論的な発言をしていく生徒たちに圧倒された。
私はどうしても、部落問題をわかりたかった。党派的な主張と人権論がどうずれるのか、どうしても知りたかった。
今は党派自体が変容しているので当てはまらないが、当時は共産党系と社会党系と、新左翼系の主張が錯綜していて、私にはわからなかったのだ。
党派的に落ち着きたかった。
しかし、誘われて参加した党派は、私には違和感があった。そして、抜けた。
もちろん、数年後には、その違和感の正体を言語化することができ、私は今日的な問題意識を持っていたのだと思えるのだが、当時は苦しんだ。
平和ボケしているような同級生の中で、学校自体はよきものを醸し出していたが、個人的にはいろいろ悩んだ時代だ。
そして、今の時代、あの民主主義の日差しは陰っている。
現政権ののらりくらりは、あの時代の悪しき継承かも。
平安神宮神苑 ― 2017/08/06 13:40
くそ暑い(おっと、お下品!)、猛暑の京都に行って参りました。
友人の用事につきあったのですが、用事が済んでから、平安神宮に行きました。
ただ暑いばかりで、ほんとに特筆すべきことのない京都散策ですが、
ふだんはお金を払ってまで入ることはない、と、行かないできた神苑に入りました。
桜の季節とか、紅葉の頃とか、見ごたえのある時期もありますのに、
このどうしようもない暑熱の下を、600円を払って、酔狂なお庭観賞に入りました。
これも暑さのせいでしょう。
珍しく写真を何枚か撮ったので、載せてみます。
たぶん、子どもの頃に、親か祖父に連れられて、入ったことはあると思うのですが、
自分が大人になってから、入ったことはありませんでした。
今の季節は少々もったいないかもしれませんが、春や秋なら、やはり見応えはあるでしょう。
入場券を買って入って間もなく、
日本最古の電車が展示されていて、子どもの頃の市電を思い出します。
もちろん、私の子どもの頃は、ここまで古くはありませんが(^^)
社殿を回り込んでいる神苑は、中央に4つほどに分かれた池があり、ぐるりと池の端をめぐるようにゆっくり歩きます。
しばし池の上の渡り廊下で、さわさわと吹く自然の風に涼みました。
池にはたくさん鯉がいて、実に平和な世界。
たたずまいが美しく、静かです。
このあたりは観光客も少なく、大人の人が一人、二人とそぞろ歩きしているところです。
説明書きも読まず、ただただ風景と空気を味わいました。
単に暑くて、説明なんてどうでもよかったんだけど(^^)
平安神宮は、明治28年に創建されていますから、近代の都市建設の一部ですよね。
だから、古い由縁を探す、というお勉強モードは要らない感じで、わたし的には気楽でした。
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