虐待の記憶2023/12/25 14:24

今の「虐待」の定義は幅広い。

有形力の行使にとどまらず、精神的な虐待も含まれる。
今の感覚だと、私の親は、大変な虐待者だ。
ねちねち、ねちねちと、私を言葉でいびり続け、
私が反発すると、有形力を行使した父。

母親は、ネグレクトという虐待の行使者だったが、
外目には、世話が行き届いている、というイメージを作り出していた。
私の話など聞かず、蔑み、時には嫌悪を示し、
病気になると不機嫌に世話だけをする母は、
外形的にはよくできている「母親」だった。
だた、終生、私に愛情を抱くことはできなかったのだろう。

それは、私の育った家庭だけがそうだったのか、
一昔前の親というものはそうだったのか、そこはわかりにくい。
ただ、純朴に子どもを溺愛するタイプの親はいたような気がする。
野心もなく、自分の優位性を示したいという欲望もなく、
わだかまりの少ないタイプの大人は、子どもの幼さを受容したような気がする。
特に、日常のこまごました仕事を嫌いでないタイプの人はそうだったかもしれない。

私の母は、美しい暮らしに憧れ、
手を汚すのが嫌いで、めんどくさがりだった。
そういう人が、「主婦役割」を期待されたこと自体が不幸なのだが、
さぞ、子どもという存在はウザい存在だったろう。
手がかかり、自分を楽にはしてくれない、邪魔な存在なのに、
時代の流れの中で、自分より良い暮らしをしているのだから、
母には、私はウザいだけの存在だったろう。
その自覚すらなかったろうが、、、。
まだ幼い頃から、私は、母の機嫌ばかり気にしていた。

父は、「嫌い」で済んだが、母を嫌いにはなれないことは、私の最大の弱点だった。

この精神的に厳しい家庭で、一人っ子として育つと、
親たちが醸し出す空気の中で、それ以外の価値観が入り込む余地がなく、
私の暗い、不活発な、精神性が育まれてもおかしくないだろう。
他からの異なる価値観が入らない、ということはとても恐ろしいことだ。
そういう意味では、学校教育は私を救っていたと言える。
私の親の、ある意味、長所は、外面をとても気にかける人だったところだ。
服装も持ち物もきちんとさせて、時間割を揃えて(母がやっていた)、
世話の行き届いた子どもとして学校へ送り出していたので、
私は、学校教育における戦後の民主主義を何の違和感もなく吸収したと思う。
いくら父が家の中で、反対の価値観で私を洗脳しようとしても、
見栄っ張りの母が人一倍きれいな服を着せて上等の文房具を持たせて送り出してくれる学校では、辛いことが少なく(むしろ、今思えば、優位性を帯びた立場である方が多く、妬まれることはあったと思う)、そこでの価値観を至上のものとできた。

ただ、私の今の精神性が、
この幼い頃からの養育環境によって醸成され、
自分を否定され続けて自尊感情を育み損ねた状況は、
老人になってもたたり続けている、ということは言える。

ひょっとして、この悪夢の子ども時代の後遺症が、
良い方に働いているとしたら、
「家庭」というものを相対化できること、
「伝統」や「先祖」などという幻想にとりこまれていないこと、
「親」とか「家族」とか、多くの人が、何かしら、良いものがありそうな気がするらしい仮構の概念から、完全に自由であること、だ。

その代わり、自分の「幸せ」を信じる力は極めて弱いけれども。
人からの「好意」や「愛情」を信じにくい傾向があるけれども。

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