やっぱり、私はもう古いのかも、、、。2023/02/14 19:16

誰もがそうだと思うのだが、
高齢者でも高齢ということに、慣れているわけではない。

今の年齢は、生まれて初めて、経験する年齢だ。
だから、時として、自分の老化に驚き、うろたえる。
少し前までは、昨日の自分と今日の自分はそんなに変わらなかった。
が、今は、日によって、調子が違い、衰えをひどく感じる時と、
比較的元気な時がある。
まあ、とびきり丈夫な人は、まだそういう経験をしていないのかもしれないが、多くの人は70歳を過ぎれば老化現象に遭遇して、困惑しているのではないか。

しかし、ものの考え方などは、そうは変わらないと思っていた。
いや、変わらないから、今、私は、この部分でも困惑しているのだ。
参加する活動団体の構成メンバーが、
自分よりうんと若い人が増えた。
以前から、たいてい最年長でつまらない思いをしていたが、
それでも、似た年齢の人が多い時は感じなかったギャップを感じるようになった。
それは、ものの考え方とかではなく、
感覚的なものだ。

今の人も、昔の私も、価値観、思想は変わらず、
年齢差があっても、「対等」だと思っている。
人として対等であると、、、。
しかし、最近、ある程度、年齢差がある若い人に不快になることが多いのだ。
無礼な人だと思うことが増えた。
それは、何だろう? と思っていた。
そして、ふと、思った。
嘗て、同じ年齢の活動家が、「若い人は、私たちがやって来たことに対してリスペクトがなさすぎる」と息巻いているのを見て、
私たちも若い時は、年長の人に向かってとても生意気だったのではないかと、その息巻く同世代の方に共感できなかった。
が、いま、私は同じような不快感を持っているのだ。
若い人が「対等」であるのはわかっている。
が、何だろう? 何か、無礼な気がするのだ。
「対等」であっても、「リスペクト」は要るのではないか? という感じだ。
特に私は、相手が子供でも、リスペクトをもって対応する、ということを心がけてきた。
それこそ、人として、「対等」だからだ。

そして、年上の人には、それなりの年月を積み重ねてこられた相手として、リスペクトしつつ、向き合っている。
それは、しみついた態度だ。
意識しなくても、そうなる。
ちょっと、腰をかがめるような心持ちだ。

が、私が無礼と思う人は、たぶん、腰をかがめるどころが、胸を張って、対応してくるのだろう。
それは、私の感覚からみれば、ふんぞり返った姿勢だ。

育ちのせいかもしれない。
他人には、失礼のないように、
へりくだった態度が当たり前、ということを、自然に身につけさせられた。
それは、ある種の人から見れば、「卑屈」にさえ見える態度なのだろうか?

いやだ、卑屈はいやだ。
卑屈は、私も嫌いだ。
だから、お世辞も言わないし、過剰な謙遜もしない。

母たちの世代は、謙遜が激しくて、
子どもの頃、母の知り合いに道で出会ったとき、
母に連れられている私をその人が褒めると、
母は、これ以上ないほど、私をけなし続けた。
いかに私が、ダメな子どもであるかを、何とかして相手にわからせなければならない、というように、私のダメさ加減を強調していた。
長じて、私自身は、そういう態度に疑問を持つようになり、
異なる態度をとる大人になったが、
相手へのリスペクトは、基本的にしみついている。

母たちの世代は、なぜあのように、過剰な謙遜をし続けたのだろう。
母方の祖父は、自分の子どもを褒めるなど、まことに無作法なことだと言っていた。
祖父の価値観では、自分の身内を褒めるようなことは、「田舎者」のすることで、この上なくダサいことだった。
自分の子どもを、「〇〇ちゃん」とちゃんづけで呼ぶのもカッコ悪いことだったらしい。
だから、母は、祖父から、「自分の子どもをちゃんづけで呼ぶようなかっこ悪いことをしたらあかん」と強く言い渡された、と言っていた。

「ちゃん」づけで呼ばれたこともなく、
褒められたこともなく、
人前でけなされ続けた、
そういう扱いを受ける子育て法とは、どういう文化だったのか。

まあ、とにかく、私は、へりくだる癖のある人間になった。
向かい合う人に、無礼な感じを抱かれることのないように、身についた態度だ。

が、それは、良き慣習でもなかったのだろう。
むしろ、そのせいで、
私は「卑屈」な人間に見られ、
品性下劣な相手だったりすると、マウントされることになるのかもしれない。

子どもの頃から、初対面の生徒から、
勉強のできない子だと思われてしまったり、
頼りない子どもだと思い込まれてしまったり、、、。

で、リアルタイムの今も、
近所のおっさんが、私には気を許してくるのか、
道で会って、こちらはちゃんと挨拶をしているのに、
「ちーっす」という感じで返してくるのがいる。
会議でろくに発言もできない70代のじじいに、
あんなカジュアルな挨拶をされたくはないよ、くそじじい。

三つ子の魂百まで。
身についた姿勢、感覚、ハビトゥスというようなものなのか、、、。

強風とばあさん2023/02/21 13:33

所用があって、歩いて20分くらいの公的施設に向かうところだった。
寒いけど、まあ、何とか大丈夫、という感じ。

が、風が強くなってきて、7~8分くらい歩いて、
広い十字路まで行ったら、歩けなくなった。
風に押し戻されるような感じの中を歩いて来たが、
やがて、2~3歩、後ろや横に飛ばされるようになって、前に進めなくなった。

これは、常時吹く風というより、突風に近い風だからだろうか。
これはヤバいと思って、
目の前のビルに入ろうとするが、そのビルの前までたどり着けない。
通常なら15歩ほど歩けば入れるビルの正面玄関に行けない。

立ってるのもまずい。
これは今日は無理だと悟り、家に帰ることにした。
が、引き返すのも困難。
何とか踏ん張って安全な場所を探し、
ようやく、手すりまでたどり着いて、手すりをつかんで突風に耐えた。

で、周りを見ていると、女性でも普通に歩いている。
が、一人だけ、小柄な高齢女性が歩けなくなったらしく、
連れらしい中年の女性二人があわてたように両脇から支えた。
ああ、私はあの小さなおばあさんと一緒なんだと知った。

イキった恰好をしていても、年寄りは年寄りなのだな、私。

どっしりした体形の人に(男の人はびくともしないように見える)、
せめて、信号を渡る間だけでも(狭い横断歩道なのに、手すりを離すのが怖い)、
連れて行ってもらおうかと、まわりを見回すが、
ちょっと離れているだけでも、声をかけづらい。

ようやく、風が少し凪いだので、横断歩道を渡り、(ひょろひょろしながら)、
先ほど入ろうとしたビルの反対側のビルに入ることができた。
地形というのも原因なのだろう。
高層ビルと高層ビルの間の風が吹き渡る広い交差点だ。
ただ、私が渡りたかった横断歩道だけは道幅が狭い。
南側は大阪城公園という広い空き地が拓け、
広い車道をはさんで高層ビルが立ち並ぶ、
少し行くと川だ。

ビルに入ると、なんとか突風から免れたが、ショックは尾をひいている。
カフェがいくつもあるビルなので、休憩したいが、早く家に帰りたい気持ちの方が強い。

歩けなくなるほどではないが、
油断できない強風の中を、
なんとか、家にたどり着いた。

一歩、家に入れば、暖かく穏やかで、
ベランダには陽光が差込み、洗濯物が揺れている気配もない。

あれは何だったんだ? と思いつつ、
今日はもう、外に出る気力を失った。

ベランダから見える木々は、そよいでいる程度の穏やかな風景だ。
が、さらに向こうに見える道路端の大木は結構な揺れだ。

風のめぐりの複雑さなのだろう。
が、私自身、天候の変化にも、すっかり脆弱になった。
思わぬところで、自分の弱さを知る。