承認欲求ということ2020/05/05 09:59

言い古されたことだし、
その起源が新しいのかどうかもわからない。
しかし、10年くらい前から、やたら言われるようになった印象があることばだ。

家にいるので、動画配信の映画やドラマを観る機会が増えている。
先日、『ジャッジ』というアメリカ映画を観たときに、この承認欲求のすさまじさを感じたのだ。
法廷物を観たかったのと、主人公がアイアンマンだし(笑)という軽い感じで、観たいものはほぼ観尽くしたあとで選んだ。

で、特に映画批評をする気はないのだが、正直言って、男の承認欲求のすごさを知りました、という感想しかない。

主人公は、父親の承認を求め続けている中年の弁護士。
母親の死で、故郷の小さな町に帰って来た。
優しかったらしい母親の死はとても悲しいらしいが、しかし、彼のこだわりは、あくまで厳しかった父の自分へのまなざし。
法廷物なので、事件解決を軸に話は進むのだが、
私を圧倒したのは、主人公の男の苦悩の深さ。
妻とは離婚寸前だが、
高校時代の美人の彼女と再会する。
この美人の彼女は、(アメリカ映画の女性像には多いタイプだが)、気が強くしっかり者で、主人公の男の身勝手さ、性格の問題をあげつらって面罵する。
が、「それでも愛している」と言う。
そうなのだ、男には、
自分の欠点も何もかもわかった上で、それでも愛してくれる美しい女性が必要なのだと見える。
そして、彼女に癒される。
が、それでも解決しないのは、父の自分への冷たさ。
主人公は、最後に、父から「お褒め」の言葉を言われる。
そして、父は死んで行く。
最後に主人公を評価した父の葬儀の後、美人の彼女が優しく微笑みながら彼の手をとる。
ぎくしゃくした兄との和解のまなざしというおまけもある。

このハッピーエンドまでつきあわされて、
「しょうもなっ」と、吐き捨てたくなったが、
ああ、こういうことか、と改めて思った。
男たち(何度もこのブログでは断っているが、全員ではない)は、
「俺を認めろ、認めろ」とずっと騒いでいる感じがする。
激しい承認欲求があって、男社会で芽の出なかった男は女にマウントし、
あるいは、この映画のように、父親の評価というものに固執し続ける。

「友がみな 我より偉く見ゆる日よ 花を買い来て妻としたしむ」という啄木の歌。
子どもの頃、わかったような気がしていたが、本当にわかっていたのか。
男社会で承認欲求を満たされない男が、妻とひと時の慰めを得る、よくある話だ。
が、本当に欲しいのは、男社会での成功。つまり、他の男たちの自分を見上げる眩しそうな眼差しだ。
それは、30年以上も前に思ったことでもあったが、あらためて思い出す。
30年以上前に何があったかと言うと、ゲイの友人たちとよく話をしていた時代である。
女性たちと素直な交流をするゲイの男性たち(ゲイの男性がすべてそうだというわけではない)とは、ヘテロの男とは異質の交流の仕方ができていたので、結構、一緒に遊んだ時代があった。
が、その時に、詳しいいきさつは忘れたが、
「あ、この人たちも男社会の中で承認されたいんだ」と思う出来事があった。
友情は、女の側の錯覚かもしれないと思った。
ジェンダー不平等のこの社会の中で生まれ育って、ゲイ男性だって、「男性」側にいる人たちだ。
認めてほしいのはやはり、男社会(もちろんヘテロの男社会)であって、
「花を買い来て」、女友達としたしんでいるだけの「男」なのだ、と思った。
それ以来、あんまり、彼らとも楽しく交流はできなくなって、私の人生から、「男」の影は完全に消えた(笑)。

時代状況も変わったし、私の社会的位置は、年齢に沿って、当時に比べれば若干上がったので、今はそのような感慨を持つ機会は減った。
岡村隆史のラジオでの発言が問題になる時代になった。
10年前なら、まだ、今回の岡村発言など当たり前のようにまかり通り、批判する女性は、ヒステリックなフェミおばさんだけと言われていただろう。
この10年の間に、それが急速に変わった。
変わった理由の一つは、
女性の人格をふみにじる男たちに対して、
鋭く「論理的に」批判することのできる「男」が増えたからだ。
女性ばかりが批判していた時代は、感情的だと言われたが、
(どんなに理論を尽くしても)、
それなりのステータスのある男性たちが批判し始めたので、
それらの主張は意味を持ち始めた。

そうなのだ、男が言い始めたので、
とんでもない男連中も、耳を貸さざるを得なくなった。
構図はたぶん、そうだろう。
フェミニストの言い分がわかる男が増えて、
そういう男がそれなりの地位を築いていると、
それに追随する男も増える。
そして、社会の流れが変わる。

もちろん、それでも、男社会のまなざしを気にしながらも、
屈服しない男はいる。
承認されたいのは俺だ! 女ばっかり優遇しやがって! という哀れなひねくれ男は、ヘイトに走ったりするのだろう。
自分より弱い人を探し出して、なんとか自分の値打ちを高めたいのだろう。
「父親の承認」→「自己承認」という図式に失敗した連中がいるのは確か。

まあ、どうでもいい映画でも、学ぶことがある、という話。