希望が枯れる? ― 2020/04/03 09:46
コロナの影響で、世の中の様子が変わっている。
買い物に出ると、マスクをしている人が多いが、
人々は普通に出歩いている。
家で逼塞していて、孤独になっていたのは過剰反応だったか、と思うような風景。
昨日、歩いていると、
前方に、自転車に寄りかかって立ったまま、ハンドルに伏せっている人がいた。
横断歩道の車道の脇に。
歩道を歩いていた私は、え? とその人に目が釘付け。
やがて、信号が変わって、人が二人、歩いて渡ってくる。
大して広い道ではない。
二人とも、その自転車の人を不安そうに見つめながら通り過ぎる。
誰もが、え? と思う光景だが、誰もが声をかけられない。
私もその一人。
普段なら、確実に駆け寄って声をかける。
が、躊躇する。
具合が悪いのなら、なんとかしなければ。
でも、近づいていいのか? 自転車にだって、触っちゃまずいのじゃないか?
その人が顔を上げた。
明らかに真っ青。
うわ、どうしよう・・・
振り返ってずっと見ていると、
その人は、ゆっくり自転車を押して、信号を渡って行った。
渡り終わったのを見届けて、思わず、ホッ。
今、AEDで人を救助って、手袋も保護服もなしでできるんだろうか?
(私は、習ったけど、使える自信はないけれども。)
もはや助け合いなんて、できないんじゃないか?
手をつなぎ合い、つないだ手を離さない、人と人の絆。
ついこのあいだまで、そんな掛け声が、、、。
あっけなく無効になる。
思いもかけない事態になって、あっという間に、小さな通りすがりの親切もできなくなった。
持病のある者は、いつもの受診も控える。
悪くなっても、もう、助けてもらえないかもしれない。
昨年の8月は、
人工呼吸器を気管に挿管しての緊急手術を受けた。
で、命拾いした。
今、そんなことが可能なのだろうか?
全身麻酔を使っての手術など、今はできないのではないか?
静かに、静かに、ひたすら平穏に。
いつまで続くかわからないけど、それしか乗り切る方法はない。
明日の検査もキャンセルしようかと思っている。
いま、緊急でもないのに、病院に行くなんて、無謀なのでは? と躊躇している。
写真は、そんな思いの日の慰め。
家の前の桜の木。
晴れて美しい日なのに、逆光で暗く写っているのが、何かの象徴のような、、、。
(いや、それも考えすぎ?)
やだね ― 2020/04/17 18:54
(と度々書いてきたが)
今度のコロナ感染拡大については、
若干、気の毒な感じも持っている。
「親分、大変でんなぁ・・・」という感じ。
まぁ、この人のブレインがどんな人たちか、
どんな黒幕がいるのか、考えるだけでも気分が悪いので、
思うのは、そこまでだけど、、、。
この国の人々の常なのか、
多くの人間というものがそういうものなのか、
私にはわからないのだが、
普段は、ろくに言うことを聞かなくても、
どうしてよいか誰もわからない局面にくると、
〇〇長の責任を問うてくる人の何と多いことか、と思うのだ。
コロナしかり、である。
これがどういうウィルスなのか、どういう展開をするのか、
そんなことは誰にもわからない頃から、
親分を責め立てていた。
さぞかし、困り果てていただろうと思う。
それは、天災などでもそうだ。
災禍に遭った地域の長が、責任を問われているのを見て、
「誰が、そのとき、正しい判断をできたの?」とは思う。
結果的に、犠牲を出したところは、判断が間違っていた、遅かった、ということになり、
結果的に助かったところは、判断が正しかったことになる。
それは結果論だ。
結果を分析して、今後の防災に活かすのは正しいと思う。
が、そのとき指揮にあたる立場だった人を責めるのは酷だ。
逆に、ほめたたえるのも奇妙だ。
一瞬の決断が明暗を分けた。
それは、次への教訓にはなっても、
誰かを糾弾するのも、誰かを英雄視するのも、
違うように思う。
もちろん、弱い立場に置かれた人たちのささやかな願いを切り捨て、
特権階級の利益を優先する制度・構造を
意図的に作り出した奴は、許しちゃいけないと思うけど。
その視角から、弱者を落としていることをわかっていて、政策立案している奴は許せない。
あるいは、全く視界から消えていて、弱者の存在すら気づかないのかな?
いや、考えたこともな~い!のだろう。
グランドデザインを描いた奴は憎んでも憎み切れないけど。
それに踊らされている中間層の罪も深いと思うけど。
そして、一人の〇〇長に全責任を負わせて、自分は関係ないというふりをし続ける奴が一番むかつくけど。
責任というやつ ― 2020/04/21 13:48
取るべき責任はとり、取れない責任はとれない、という、
とてもシンプルな考え方をしていた。
まだ、重い責任が自分にかかってこなかった頃。
が、ある職場で、思い知った。
いや、もっと早くに思い知るべきだったのだが、
なにしろ、おニブの私、
「責任」という名の武器で直撃され、
満身創痍で、やっと知った。
いろいろな人が、自分に「責任」が来ないように、
いかに神経をとがらせているかを。
「責任」を取るべき立場になると、うまくいかない理由の責任を全部、取らされる。
システムの不具合であろうが、
とっくに逃げちゃった前任者の不手際だろうが、
時には、コントロール不能な「天候」が原因であっても。
ある日、突然、恭しく迎えられて、玉座に座らされることがあれば、
それは人身御供に選ばれたのだと思った方がいい。
詰め腹を切らされるのは、すぐだ。
理由は、「責任」だ。
昔の「責任者、出て来い!」というセリフは、本当の権力者を相手にしていたことが多いが、
今は、詰め腹を切らせる誰かを探している。
〇〇長と名付けられた中間管理職、
名ばかり社長、
権限のない責任者だ。
権限は持たせずに、責任だけを取らせる。
誰が本当に、それを画策しているのか。
ドラマのように、わかりやすい悪人がいるわけではない。
現実は、とても複雑だ。
一人の人間が企んだ陰謀であるわけではなく、
有象無象の人間が、
自分に「責任」が来ないように小さな画策を続ける日々だ。
だから、自分の責任だと自覚しにくい構造にもなっている。
誰が責任を取るのか、
ではなく、
誰に責任を負わせるのか、
ということに関心が向いている。
だから、
「自己責任」ということばが便利良く使われたりもする。
権力もない、いかなる権限もない人は、
「自己責任」を負わねばならない。
貧しいのも、職がないのも、生き甲斐がないのも、辛いのも
全部、自己責任だ。
「問責」の時代だ。
何でもかでも自分以外の誰かのせいにしたいのだ。
実は、そのことが、一番、解決から遠いのだけど。
いずれ、そのうち・・・ ― 2020/04/24 21:52
だが、もう、それが通用しない、ということを思い知る。
40年来の友人が3月末に亡くなっていたことを知った。
いつものように、メールのチェックをしていて、
件名と差出人にざっと目を通していて、
「〇〇さんの訃報」という件名が見えたような気がした。
え?
何?
何の見間違い?
と、そこに戻る。
そして、見間違いでないと知る。
が、何度も、嘘でしょ? え? 違うでしょ? と見直す。
何度も何度も、見直す。
え? なんで、あの人が死ぬの?
頭がパニックになっている。
嘘でしょ? 何かの間違いでしょ?
何度も何度も、そのメールを見直す。
書かれていることは、確かに、その40年来の友人のことだ。
間違いなく、彼女のことだ。
でも、なんで?
え? え?
確かに病気が進行していた。
でも、一般の人と変わらず寿命が保たれる病気であると聞いている。
死ぬ病気ではない、と。
彼女のお母さんも、とても小柄な人だったそうだが、
90歳まで生きられた。
彼女も、弱弱しいながら、長生きをするのだと思い込んでいた。
昨日、知ったのだけど、まだ、心の中で、
「嘘でしょ? 違うでしょ?」と言い続けている。
何度も、発作のように泣けてくる。
なぜ、彼女が?
生きる力がなくなっていったのか。
病気が進行して、がっくりしていただろう。
思うようにならない人生に、だんだん生きたい意欲を失っていったのか。
若いときは、たくさん話をしたけれど、
最近は、病気もあって、彼女は地元に引きこもりがちだったので、
会う機会が減っていた。
でも、私もやがて仕事を終えて時間ができるから、
また、昔のようにゆっくり会える日が来ると思っていた。
そのときは、たくさん、思い出話をしたいと思っていた。
いずれ、そのうちに、、、。
しかし、もう、それは通用しないのだ。
いずれ、そのうち、は、もう来ない。
私たちには、いずれ、そのうちなんて、あり得ないのだ。
どちらかが、
もう、待ってられないから、先に行くね、と立ち去る。
昨年の12月に部屋で倒れているのを発見されて、
救急搬送されて以来、入院していたようだから、
今回のコロナ感染とは別だろうと思うが、
遠方に住む娘さんが家族葬をされたそうだから、
友人関係の人は、詳しいことを誰も知らない。
ほとんど何もわからない。
ただ、亡くなったことだけを知らされ、呆然としている。
この時期のお葬式は、参列も難しい。
寂しい季節に寂しく逝ってしまったよう。
憂いのあった彼女の風情を思い出して、これが彼女らしい逝き方なのかと、
納得しないまま、そんなふうに思ったり。
なぜ?
なぜ? こんなに早く?
心の中で問うたびに、泣く。
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