責任というやつ ― 2020/04/21 13:48
まだ比較的若い頃は、
取るべき責任はとり、取れない責任はとれない、という、
とてもシンプルな考え方をしていた。
まだ、重い責任が自分にかかってこなかった頃。
が、ある職場で、思い知った。
いや、もっと早くに思い知るべきだったのだが、
なにしろ、おニブの私、
「責任」という名の武器で直撃され、
満身創痍で、やっと知った。
いろいろな人が、自分に「責任」が来ないように、
いかに神経をとがらせているかを。
「責任」を取るべき立場になると、うまくいかない理由の責任を全部、取らされる。
システムの不具合であろうが、
とっくに逃げちゃった前任者の不手際だろうが、
時には、コントロール不能な「天候」が原因であっても。
ある日、突然、恭しく迎えられて、玉座に座らされることがあれば、
それは人身御供に選ばれたのだと思った方がいい。
詰め腹を切らされるのは、すぐだ。
理由は、「責任」だ。
昔の「責任者、出て来い!」というセリフは、本当の権力者を相手にしていたことが多いが、
今は、詰め腹を切らせる誰かを探している。
〇〇長と名付けられた中間管理職、
名ばかり社長、
権限のない責任者だ。
権限は持たせずに、責任だけを取らせる。
誰が本当に、それを画策しているのか。
ドラマのように、わかりやすい悪人がいるわけではない。
現実は、とても複雑だ。
一人の人間が企んだ陰謀であるわけではなく、
有象無象の人間が、
自分に「責任」が来ないように小さな画策を続ける日々だ。
だから、自分の責任だと自覚しにくい構造にもなっている。
誰が責任を取るのか、
ではなく、
誰に責任を負わせるのか、
ということに関心が向いている。
だから、
「自己責任」ということばが便利良く使われたりもする。
権力もない、いかなる権限もない人は、
「自己責任」を負わねばならない。
貧しいのも、職がないのも、生き甲斐がないのも、辛いのも
全部、自己責任だ。
「問責」の時代だ。
何でもかでも自分以外の誰かのせいにしたいのだ。
実は、そのことが、一番、解決から遠いのだけど。
取るべき責任はとり、取れない責任はとれない、という、
とてもシンプルな考え方をしていた。
まだ、重い責任が自分にかかってこなかった頃。
が、ある職場で、思い知った。
いや、もっと早くに思い知るべきだったのだが、
なにしろ、おニブの私、
「責任」という名の武器で直撃され、
満身創痍で、やっと知った。
いろいろな人が、自分に「責任」が来ないように、
いかに神経をとがらせているかを。
「責任」を取るべき立場になると、うまくいかない理由の責任を全部、取らされる。
システムの不具合であろうが、
とっくに逃げちゃった前任者の不手際だろうが、
時には、コントロール不能な「天候」が原因であっても。
ある日、突然、恭しく迎えられて、玉座に座らされることがあれば、
それは人身御供に選ばれたのだと思った方がいい。
詰め腹を切らされるのは、すぐだ。
理由は、「責任」だ。
昔の「責任者、出て来い!」というセリフは、本当の権力者を相手にしていたことが多いが、
今は、詰め腹を切らせる誰かを探している。
〇〇長と名付けられた中間管理職、
名ばかり社長、
権限のない責任者だ。
権限は持たせずに、責任だけを取らせる。
誰が本当に、それを画策しているのか。
ドラマのように、わかりやすい悪人がいるわけではない。
現実は、とても複雑だ。
一人の人間が企んだ陰謀であるわけではなく、
有象無象の人間が、
自分に「責任」が来ないように小さな画策を続ける日々だ。
だから、自分の責任だと自覚しにくい構造にもなっている。
誰が責任を取るのか、
ではなく、
誰に責任を負わせるのか、
ということに関心が向いている。
だから、
「自己責任」ということばが便利良く使われたりもする。
権力もない、いかなる権限もない人は、
「自己責任」を負わねばならない。
貧しいのも、職がないのも、生き甲斐がないのも、辛いのも
全部、自己責任だ。
「問責」の時代だ。
何でもかでも自分以外の誰かのせいにしたいのだ。
実は、そのことが、一番、解決から遠いのだけど。
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