自分なら、もっとうまくやれた、、、という錯覚2019/01/31 10:57

某裁判の傍聴に行った。
私と関わりの深かった組織を舞台にした裁判なので、
登場する様々な名称にフラッシュバックすること夥しく、
最後は胃がきりきりと痛んできた。

想起したつらつらの一つが、タイトルに挙げたこと。

私が難儀している状況を見て、
「自分ならもっとうまくやれるのに、、、」という思いが伝わってくる人たちがなんと多かったことか。

それは、私も自戒しないといけないことではある。
自分の経験と重なる部分があるだけなのに、
他人の難儀は、「どうしてそうなるの?」と思うようなことはたくさんある。
同じ場にいて、自分も辛い思いをした人は、まだ共感できるだろうが、
全く、その場の空気を知らない人は、その空気の息苦しさを想像できないのだ。
「空気を読む」という言い回しが定着して久しい。
多くは、「空気を読めない」人を批判して使われてきたが、
実は、「空気」というのは、人の言動に大きな影響を与えるのだ。
その場に居合わせないとわからない「空気」というものが、確実にあるのだ。

他人の難儀の話を聞いて、傲慢なコメントを述べる人は、
「自分なら、もっとうまくやれたのに」と思っていることが多い。
だから、難儀している人の方に共感できない。

全く同じ状況で、同じような立場に置かれてしまったとき、
ほんとうに「うまくやれる」かどうかはわからない。
金縛りにあったように動けなくなって、下手な反応しかできないかもしれない。
もっと稚拙な反応をして、結局、さらに追い詰められるかどうかもわからないのだ。

私は、なめられるタイプらしく、
(たぶん、おとなしそうで、鈍そうに見えるんだろう)
私が困った状況にいても、
私だからそんな困った状況になる、と思う人もいるようだ。
「自分なら、もっとうまくやれる」と。
ダイレクトに言わないけれど、それは読み取れる。
が、私がそれを読み取っていることも気づかれないようだ。

若い時に勤めた会社で、まさにそのようなことが起こっていた。
新種の事業で、会社の基盤が固まらず、
会社としては、経営、運営共に苦難続きだった。
すると、会社を辞めて、同種の事業を立ち上げる人が続出した。
「自分なら、もっとうまくやれる」と、思った人たちだろう。
そして、ことごとく、失敗した。
借金をつくって雲隠れしてしまった人もいる。

結局、最初に事業を立ち上げた人は、とても人が善く、
会社を乗っ取られたり、何度も大変な目に遭って、苦難の半生を送ったけれども、
一番、偉大な人だったと私は思う。
その会社は後に大きくなって分裂したが、その理念は受け継がれている。
私は、あまりの経営、運営の厳しさで過重労働になり、退職したけれども、
その時、いつも電話で仕事の連絡を取り合っていただけの東京本社の人たちが、抱えきれないほどの大きな美しい花束を贈ってくれたのを覚えている。
1年足らず在職しただけの私に、なんと過大なはなむけをくれたことだろう。
有難すぎて、なんとかお礼を送りたいとずっと思っていた。
その花束をかかえた写真を撮ってもらって、
贈ってくれた人たちに送ろうと思っていたが、
それすら、しないままになってしまった。
今のようにメールで個人的な連絡を取り合う時代ではなく、誰に宛ててお礼を送ってよいかわからず、
不器用な私はそれっきりになってしまった。

もっとうまくやれればよかったのに、、、。
自分でさえ、そう思うことは多いなぁ、、、。

だから、赦しあう必要があると思うのだ。
相手の足りないところは、自分にも足りないところがあるのと同様だから、
「自分なら、もっとうまくやれる」と思うのは、大きな錯覚だ。
自分の不遜さを戒めねば。
が、ほんとうに戒めてほしい人は、たいてい、自分を省みることなんか、絶対しないからなぁ。

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