痛みのない日2016/09/04 15:46

痛みのない時間が続いています。
今日は、朝からずっと起きていられて、うれしい。

でも、うっかり団体のメールに反応したら、
すぐに仕事が押し寄せて来そうなので、
でも、あの激痛がまた来るかわからないと思ったら、
とても仕事を引き受けることはできないので、
団体のメールには近づかないようにせざるを得ません。
辛いですが、それしか、身を守る方法はない。

で、他の、単独で片づけることのできる仕事だけをぼちぼちやりました。
仕事を一つ片づけ、二つめを終えると、少し心が軽くなりました。
で、痛みが再燃していないとわかると、ホッとします。

まだ治療に入れていないので、
治っているわけではありませんが、
痛み止めが効いているようです。
痛み止めを飲んでも無痛というわけにはいかなかったのが、
今日は、朝からほぼ無痛です。
うれしい♪
このまま、いきたい、です。

痛みのない時間が続く・・・2016/09/05 10:18

つ、続いています・・・
うれしい(涙)

24時間以上、もう、痛みがない!

でも、まだ油断はできない。
なにしろ、まだ治療にはいっていないんだし、
薬の効果でしょ。
とは言うものの、傷が治るように、何かが治っているのなら、どんなにうれしいことでしょう。

あの、救急車を呼んだときの激痛がトラウマになっているので、
そしてその後の入院中の数日にわたる猛烈な痛みが忘れられないので、
まだまだ気を抜けない気分です。

でも、痛みがないと、気力がわいてきます。
空になったティッシュの箱をつぶしたり、
お風呂をフルコースで入ったり
(頭もからだも顔も全部洗って、湯船につかることです^^)、
洗濯なんかもやったりして、
普通の生活ができている・・・

いえ、私の普通の生活は、ここに仕事が入ってくるのですが、
今回それはなかったことに・・・。

痛みのない幸せをかみしめています。
後で、行きそびれていた支払いにコンビニまで行こう、なんて思っています♪

分析と解釈2016/09/07 13:30

分析好きなので、で、私だけでなく、同じタイプの友人が多いので、
つい、分析癖が全開して、あれこれ解釈する。

今回の病気も同じ。

医療を受ける側としての経験や
自分のライフスタイルとの関連や
社会の趨勢に至るまで、
あれこれ考え始めて、友人としゃべり始めて、きりがない。

で、そうして到達した一つの解釈が、
大きく覆ることがある。

積み上げてきた議論が、一つの根拠に基づいているとしたら、
その根拠がひっくり返ると、全部、ちゃらになるのは、よくある話だけど。

そんなこんなを思いつつ、
「一つの解釈だけどね・・・」と、ちょっと賢くなった私たちは、慎重に自説を展開する。

あー、でも、体調をくずすと、私自身の根拠さえ見当たらなくなるわ。

パラリンピック開会式2016/09/08 10:13

 テレビでパラリンピック開会式をやっている。
以前、Eテレで「切断ヴィーナス」を紹介した番組を見て、魅せられてしまったので、オリンピックは全然観ないけど、こちらは観る。

 先ほど、両足義足の美女が軽やかに華麗にダンスをしていた。
テクノロジーと人の身体との美しい融合だ。
Eテレに登場した若い女性たちも、義足姿が美しく、魅了された。

 少し前、東京の森美術館で行われた会田誠展の、「犬」と題された四肢切断の少女を描いた作品は、「凌辱」としか感じられない悪趣味の作品だと思った。
痛めつけられて自由を奪われた少女のいかにもヴァルネラブルな姿だ。

 が、「切断ヴィーナス」は、女性たちが自己主張し、不可能を可能にし、自由を獲得していく、力あふれる美しさだ。
病気や事故などによって片脚や両脚の切断を余儀なくされた女性たちが、義肢によって新しい能力を獲得し、実に明るく、様々な可能性に挑戦していく姿は、人を魅了し、ため息すらつかせる。

↓ 義肢の女性たちの写真集

 この国の男性は(あれ? 偏見かな?)、意志の強い、自己主張する女性を苦手な人が多いようで、ヴァルネラブルな風情の女性を好む傾向があるように思う。
「守ってあげたくなる」ような女性を、つまり自分の支配下におさまる女性を好むのだろうと思う。
(そうでない男性もいると思います、もちろん! 多くはないように思うけど。)

 ブログで、男性に「モテる」ということを自慢している女性がいたけれども、もちろん、「モテる」ことが幸せにつながっているのなら、それはそれでいいのだけど、「モテない」ことに不幸を感じている女性がいたら、あんまり良いことではない。
この社会のジェンダー規範のお約束に乗っかると、モテるのは当たり前なのだから、自分の「魅力」をそれで測ったり、自己評価につなげるのは無意味だ。
ジェンダー規範をいかに相対化できるか、の話なのだけど。

 パラリンピックの開会式で、ブラジルのある選手が、子ども時代いじめにあっていたけれども、「絶対に幸せになってやる」と誓った、というエピソードが紹介されていた。
不覚にも涙が流れた。

自分に置き換えるなら、
丈夫な体にはなれないかもしれないけど、幸せにはなれる、ということだ。

痛みがないうちに・・・2016/09/09 08:55

痛みのない間に、一つでも仕事を終えたいと、
某自治体の職員さんから送られてきた資料に目を通し、
我が家から5分くらいのカフェまで来てもらった。

今回、私からの返信がいつになく遅いので、
「ご旅行かなと思ってました。病気だったと知って、びっくりしました」とのこと。
この人は率直な感じで、とても話し易い。
で、仕事の後、ちょっと個人的な雑談に。

すると、息子さんが発達障害、とのこと。
この頃、そういう話をよく聞くなぁ、という実感がある。
そういうことを隠さない人が増えた、ということもあるのかもしれない。
が、その診断も増えたのかもしれない、とも思う。

よく思い出すのだが、
見合い結婚が大多数だった時代、
で、日本人のほとんどが結婚した時代、
信じられないくらい変わり者の男性にも、ちゃんと配偶者がいた。
「うちのお父さんは、ほんとに無口だから」とか、
「頑固なんだから」と言いながら、家庭生活をやりくりしていたおばさんたちの話をよく聞いた記憶がある。

職業によっては、コミュニケーション能力が問われることのなかった時代、
頑固な職人さんやルーティンワークを黙々と続ける無口な人も、
求められる資質は限定的だったから、十分に重宝がられた。

が、多くの人が組織に所属して働く現在、
コミュニケーション能力が低いと、それだけで無能のレッテルを貼られかねない。
「人間力」なんて言葉が登場したとき、なんだこれは? と思ったけれど、周囲とうまく折り合ってこなしていく能力のことを指しているらしい。

発達障害であっても、知的能力の飛び抜けて高い人は、それなりのポジションを獲得できるかもしれないが、
多くの人は持っている能力も、発達障害のために発揮できない、ということの方が多そうだ。

人の能力もグラデーションだから、
誰もが、「障害」と呼びたくなるくらい欠落している点を持っていたりすると思うのだけれど、
なんとか他の能力で補って、バランスを取っている。
バランスが取れなくなるほど致命的な欠落なのか、バランスが取れないような条件下に置かれてしまったか、それらは、みな紙一重だ。

ラベリングすればするほど、それがその人の「本質」みたいになってしまって、
良い傾向とは思わないのだけど、
が、困っている人には、時には「ラベル」も必要だし、、、。
今の私に「病人」というラベルが必要なように。