人は変わる2025/01/02 07:55

新しい年が来た。
ま、暦の上でのことで、自然の周期に取り立てて特別なことはないのだけど。

ひとりぼっちの正月。
世間は家族イベントで何やら賑やかそうだけど、
「正月」だと思うと寂しいが、
いつもの日常と変わるわけではない。
まあ、近所のショッピングモールとかが、昨日は一斉にお休みしているので、
そこがいつもと違うかな。
で、私も昨日はひきこもり。

愛想も素っ気もないタイプの友人が、
珍しく丁寧な大人の物言いで挨拶をしてきたりすると、
おお、人って変わるんだ、、、と感慨が、、、。
基本の気性というものはそう変わらないのかもしれないが、
時と共に、あるいは状況によって、
人は変わったりするのだと改めて思ったりする。

こういう、「人というものは、、、」と考えてしまうのは、
私の変わらない癖かもしれない。
母も私も一人っ子で、他人というものに慣れていない。
その上、私などは、気まぐれでわがままな大人に育てられているから、子供時代から気疲れしていた。
他人と接するたびに、他人について知ろうという気持ちがわく。
そうか、人はこういうときに、こういう反応をするものなのか、、、と、
少しは理解を深める。
が、人によって反応が異なると、また、その理解が揺らぐ。
そうか、、、こういう反応をする人もいるのか、、、。
他人の反応の、共通点と異なる点と、両方を知り、
そうか、、、人って、いろいろな反応をするものなのか、、、と、悟っていく。

そういう繰り返しが大人になっても続いた。
「人って、○○なのか、、、」というのが私の癖だった。
多分、今も変わらないだろう。
こうして学び続ける。
そういう学びが不要な人もいるようで、
他人の気持ちなど知っちゃいない、という感じの人にも出会ってきた。
まだ、そういう人のメンタルには理解が及ばない。

逆に、
「あなたって、○○なのね」ともよく言われた。
レッテルを貼られる不快さも感じたかもしれないが、
それ以上に、そういう言われ方に違和感があった。
わざわざ、そうして、私をどういう人間か定義しないといけないと、
他人が思うほど、私はその人の目には不可解な人物だったのか。

まだ若い頃、ある年上の人が言った。
話をしていて、私が笑ったときだ。
「M吉さんも、M吉さんなりに楽しんでいるのね」と言った。
驚いた。
今まで楽しむことを知らない人に見えていたのか、、、。
面白いときは笑うし、面白くないときは笑わない、、、そういう何の変哲もない反応をする人間だと、自分のことを思っていた。
そうは見えていなかったのか、、、。

まあ、今の私なら、そう言った人自身が、独特のものの捉え方の人だったから、
その人の尺度で、私を測ると、
理解が届いていなかっただけだろうと、思える。
他人というものへの向き合い方が、だいぶん、自分なりにできてきたからだろう。
正しいとか、おかしいとか、そういうことはわからない。
自分なりに考え、反応し、行動する。
自分にはそれ以外にできない、ということで落ち着いた。

たぶん、私も昔に比べてずいぶん変わっただろう。

高校時代の友人で、超わがままな人がいたが、
結婚相手が政治家になった。
ネットで検索すればすぐに名前の出てくる人だ。
大分まえに、同窓会で会ったが、
びっくりするほど、良識的で他人を褒める、穏やかな「奥様」になっていた。

人はどのような境遇にいるかによっても変化する。
だが、基本は変わらない。

そんなことを、思った。
年頭に当たって、と言っても、どうせ、いつもの自然の周期の一つだしね。
でも、それなのに、ちょっと違う気分になっている自分もいる。

私の苦悩は74歳まで続くと言った占い師がいて、かなりこたえていた。
74歳になるのが怖かった。
74歳で自分の死と共に苦悩が終わる、という意味だと受け取った。
そのときの占い師の顔が、不吉なものを見てしまったような顔だったから。

で、今、74歳。
苦悩はだいぶん、薄らいで、
身体状況も悪くない。
苦悩をかかえたまま人生を終わるのなら辛すぎるが、
まあ、こんなに安らかになれるのなら、その占いも怖くない感じだ。
そもそも、そんな占いに心が蝕まれない感じになっている。
どんなに、占いに煩わされる必要はないと説得されても、心に届かなかったが、身体の状況が改善されると、急に気持ちが強くなった。
私も変わるなぁ、、、。

教会のミサ2025/01/03 11:52


昨年、そろそろダウンコートを着る季節になった頃、
わけあって、佐世保にいた。

宿泊しているホテルの近くに荘厳な目立つ外観の教会があって、
有名な観光スポットになっているらしい。
で、行ってみたら、受付の人に、
「ミサをやっているので終わりまで待ってください」と言われた。
ガラス越しに見ることはできるというので、見せてもらうことにした。
入り口の前で寒いのでコートを着たまま、靴だけを脱いで、
受付の人の後ろで中を見ていた。
司祭の声は、スピーカーで、外まで聞こえるようになっている。
で、聞いていた。
イエス・キリストの受難の話など、知らないわけではない話題が織り込まれて、話をされている。
司祭さんというのは、イケボであるのも適性の一つかなと思いながら、
話に聞き入っていた。
で、そのうち動けなくなってしまった。
わけがわからないが、涙がこみ上げてきた。
涙ボロボロになってしまった。

キリストの受難に遭遇した、救われたかった多くの人たちが、
無力なまま、祈る以外に道はなかったろうと思った。
今もそうなのだ。
多くの困難は自分で打開できない。
打開する力が自分にはない。
祈る以外に、念じる以外に、
力を持たない者は何をできるのか。

生きながらえるなら、祈るだけだ。

そんなことをぼんやり考えていて、涙ボロボロになってしまった。
いや、もっと様々なことが心に去来したはずだが、
そのときは、浮世を離れた心地になってしまった。
非日常の気分が訪れることがたまにあるが、そういう経験だ。

観光客だから早々に立ち去るだろうと思われていたのかもしれない。
受付の女性が、
「長くいてくださってありがとうございます」と言って、中に誘ってくれた。
何という儀式かわからないが、
司祭さんの前に行くと、何かを振りかけてくれて、祈りの言葉をかけてくれた。

私を揺さぶったのは、たぶん、キリストに助けを求めた人々と、今も変わらぬ苦悩の絆だ。
私たちは苦悩でつながっている。
そこに絆がある。
それに心を揺さぶられていたのかもしれない。
信じられるものは、悲しみや苦しみの感情だけ、だと。

非日常の経験をして、
ミサの後、事務連絡が始まったので、
それは、私の見知っている団体の集会の後と同じなので、
受付の人にお礼を言って、教会を後にした。

艱難汝を玉にす2025/01/05 09:42

タイトルの言葉を知ったのは、たぶん、中学生の頃。
そして、今もずっと私の心の中にある。
子供だったが、あまりにも辛い日々を送る自分に向けた言葉のように思えたから、心に刻み込んだのだろう。
格言の類を収集するのが癖で、何か自分に希望を与えてくれる言葉に出会いたかったのだろうと思う。

が、今、改めて思う。
艱難は人を強くも美しくもしない。
艱難だけでは人は弱るばかりだ。
生きる力を失う。

人を強く美しくするのは、
共感やあたたかい心遣い、慰撫の時間だ。

先ほど、Huffpostの記事を読んで、しみじみそうだよな、と思った。
他人の不幸に出会うとき、無責任な慰めがあったりする。
その中の一つがこれかもしれない。
他人の不幸をほっときたいが、あんまりつれないのも気がひけるので、無責任な言葉を放つ。

それが結構、罪深い。
自戒もこめて、わかったような気がした今朝。

独立独歩ということ2025/01/12 08:31

この、「連帯」を重視する時代環境にあって、
独立独歩という生き方は、あまり楽ではない。

孤立する気はないし、
連携を拒否するつもりもない。

ただ、自分には自分の考え方があり、
行動の仕方がある、というだけのことだ。

しかし、同調圧力を感じたり、
「連帯」や「絆」を強調されると(強要にみえてくると)、
距離を置こうとする自分がいる。

寄り添い合って、
もたれかかり合って、
「ねぇ~」と同調し合っている人たちを見ると、
羨ましくなったり、
入れないことに寂しさを感じたりはするが、
それでも、そこに入り込もうとはしない。

誰もが誰かを恃みに生きているのだろう。
心のよりどころがあるのだろう。
いや、なければ、心細くて仕方がない。

多くのフェミ友は配偶者持ちだ。
長年、別れずに共に生きてきたのなら、気が合うのだろう。
少なくとも、憎くは思っていないのだろう。
そして、唯一、心を許す相手になっている可能性がある。

ある人は、現職を退いたあと、友人ではなく、妹を選んだようだ。
長年の友人よりきょうだいか、、、と、血縁に恵まれない私は思う。

子供を頼る人もいるだろうが、
私は、子供を自分の孤独に巻き込みたくはない。
子供は子供の人生をできる限り楽しんでほしいと思っている。
私の母は、私を頼りにしていたようだが、
それは、母が意識しないまま、私を搾取することだった。
私が母に食い物にされなかったのは、母とは全く別の交友関係があって、そちらを優先できたからだ。
仕事をしていて、つくづくよかったと思っている。
母は、私が愚痴の相手をすることを望んだようだが、(それも、私が自ら喜んで、母の愚痴を聞きたがる状況?)、そうはいかないことを思い知ったようで、
亡くなる数年前には、弘田三枝子の「人形の家」がやたら思い出される、と言っていた。
ダイレクトには言わない。
そうして、私に自分の孤独を知らしめようとしたのだろうけれど、
もはや、母のそういう策略には乗らなかった。
こうして、子供の頃から支配されてきて、自分の不幸の根源に気づいたので、母の策略のいちいちに気づくことはないが、
基本的に距離を置いたので、もう母の罠にはひっかからなくなっていた。
これも、独立独歩の生き方と言えるのだろうか。

頼り合い、もたれ合いを生きる恃みにしている人には、寂しい生き方に見えるだろうが、
いや、私自身も寂しくてたまらないのだが、
それしかできないし、そうして、すくっと立つ以外にないのだ。

子ども時代の虐待のトラウマは生涯消えない2025/01/15 09:13

タイトルに書いたことは、私の実感に過ぎない。

が、被害経験からの回復とか、
トラウマの克服とか、
そういう字面を見ると、反発する私がいる。

回復なんかしないだろうと思う。

なぜなら、子ども時代の被虐待経験は、
その子どもが人として人格形成をされるプロセスに
織り込まれているからだ。

折に触れて悲しみがよみがえり、
辛い気持ちが再現される。
10歳だった私が経験したことは、
74歳の今になっても、時折、疼痛として私を苛む。

このまま、ちょっと悲しいまま、死んでいくのだろうと思う。

もちろん、適切なケアを受けなかったからだ、という見方もあるだろう。
子ども時代の被虐待経験は、
時を置かずに、ケアを受ければ、深い傷となって残ることはなかったかもしれない。
応急処置が適切に行われれば、傷の回復は望める気もする。
そういう意味では、子ども時代にひどい扱いを受けたとしても、
すかさずその子どもをケアし、温かく見守る体制があれば、
その子どもは助かったかもしれない。
大人への信頼を速やかに回復したかもしれない。
世の中への信頼感も育てることができたかもしれない。

が、私の世代の多くは、
そのような環境にはいなかった。
ひどい扱いを受けたとしても、
外から見える甚だしい虐待でもなければ、
誰もが無関心だった時代だ。
親子や家族、というもの以外に子どもを支えるシステムがなかった。
家庭という地獄から助け出されても、
またもや家庭に帰されるのが当たり前だった時代だ。

だから、そのことの認識が発達してきた現在の状況は、
多少は改善されているのかもしれない。
まぁ、悲劇はまだまだ起こっているだろうと思うけれど。

私のような世代は、トラウマをかかえて年老いている。
悲しみや怒りをかかえて、老いても呻吟している。
自分を虐待した親たちは、その自覚もなく、
安らかに自己満足の最期を迎えたりしているだろうし、
外面からは、結構、恵まれた人であるかのように見られているかもしれない。私などもそうだ。
声を上げなければ、誰も知らない。
が、声を上げても、ただの愚痴だろう。
なにしろ、外見では、それなりに成長して老いてきたのだから。

声を上げることもしない、あるいはできない、
ただただ恨みをかかえて老いてきた人たちは、
扱いにくい老人になっているのかもしれない。
自分をいやな目に遭わせた者が何者かもわからず、
湧き上がる不快な感情をコントロールできず、
自分を虐待した親に似た人になって、
不機嫌に生きているのかもしれない。

親たちは、子どもに鬱屈をぶつけて自分の気分を解消しようとしたが、
それが問題行動だとは思いもしなかっただろう。
「子どものため」というのは、自分の不善な行動のエクスキューズだ。
理不尽な行為だということは薄々わかっていても、
目の前の手のかかる者に感情をぶつけないと自分の鬱憤が晴らせないとき、
あるいは、手がかかる、というそのこと自体に、自分の鬱屈した感情を増幅させて、
虐待を始めるのだ。

私の父の場合、最初、
私に対して、因縁をつけるところから始まる。
私が何かをした、というようなタイミングではなく、
黙って本を読んでいても、一人遊びをしている時であっても、
父は、暇つぶしに私を扱うのだ。
からかったり、説教を始めたり、小言を言ったりして、私を自分の方に向かせることから始まる。
私には不当としか思えないような言いがかりで、
私の欠点を指摘したり、言動の些末な不完全な部分を盛んに言い立てるなどして、
私が怒りを表明するまでやめない。
私は父のその言動の身勝手さに怒りを覚える。
(通りすがりの酔っ払いがからんできたのなら、相手をせずに逃げるところだが、一つ屋根の下にいる素面の父親だ。子どもの私に逃げる才覚はなかった。)
私は難癖をつけてきた父に、怒りをもって反論する。
「口答えするのか」と父は激高し、やがて激しい言い合いになり、最後は父は私を叩く。
言ってわからないやつは叩いてわからせる、という言い分だ。
そこで、初めて、母が言う。
「親に何を言われてもええやんか、もっと大人になりなさい」と。
そして、私と父の性格が似ているから、と、
すべてを私の責任だとなじり、黙って耐えない私を責め立てる。

私が悔しさで泣いて泣いて、それでも、父の理不尽、母の理不尽な意見(親なのだから何を言ってもいいのだ、子どもの私に大人になりなさい、と叱りつける理不尽)に抗弁する。
結局、父からの暴力の痛みと恐怖、
母からの精神的な攻撃への絶望と無力感によって、
私が抗弁をやめ、そして、父の攻撃がやむ。
私は憤死しそうなほど、悔しい思いをかかえて、泣きながら眠るのが常だった。
10歳ほどの子どもだ。
どこにも、私の味方がいない、この世で最も弱い生き物だった頃だ。
大人二人から、力づくで黙らされていた。
世間で報道される虐待事件は、他人事とは思えない。
殺されていった子どもたちは、あの頃の私だと思う。

父との諍いを最初からすべて見ていた母は、ただの一度も間に入らなかった。
父の身体的暴力が激化すると、
私を言葉で叱りつけて黙らせる役割を担った。
多くの夫たちがDVのターゲットに妻を選ぶ。
が、私の父親は私を選んだ。
私が中学3年生まで、母の父親が同居していたので、とても母には手が出せなかっただろう。
彼が鬱屈を晴らす相手は私しかいなかったのだ。
しかも、母は、父が私を褒めたりかわいがったりするのを喜ばない。
母の顔色をうかがう父にとって、
私への攻撃は母の機嫌を取るのにも都合のよい手段だった。

同じ頃のことで覚えている出来事がある。
母が、仕事から帰った父に、
私がいかに言うことをきかない子どもであるかを愚痴った。
すると、父はいきなり私を叩いた。
母は、
「たたかんと、言うてきかせてほしいのに」と父に言った。
母の理想の夫の姿は、
たぶん、妻の言うことを受けて、娘に理路整然とことわりを教える、そのような、
つまり、
戦後のアメリカのホームドラマ、『パパは何でも知っている』の父親のような姿だったのだろう。
勘違いもいいところだ。
武骨な田舎育ちで、太平洋戦争で死んだものとされていたのに、
南方から復員してきた、承認欲求の強い大正生まれの男が、ソフィスティケートされたアメリカの白人中産階級のエリート男と同じふるまいができるわけがない。

私が慰撫されなかったのは、
彼らのやりたい放題の下で、自分の気持ちを封殺されてしまったことだ。
そのくやしさだ。
ただの一度も慰撫されず、悲しみやくやしさを抱えたまま、私は人格形成され、社会化されてきた。
だから、もう、ここからは脱出できない。

あの連中をよみがえらせて、手をついて謝らせることができれば、
涙ながらに詫びを言わせれば、私も少しは心和むかもしれない。
が、連中はもうこの世にいない。
私の親だけではなく、多くのあの時代の親たちは、子どもの心をズタズタにしながら、
自分はいい親だった、と思いながら死んでいった者が多いのかもしれない。

私の世代の人たちが、鬱屈しているのはわかるね。
性格が悪い。
多くが似たような目に遭っているから。
しかし、何でもそうだが、同じ目に遭っていない人も結構いるから、
同世代でも理解されない、というのもいつものことだ。
特に、日頃から付き合いのある、比較的良い教育を受けた人たちは、
自分の現状に満足していたりするから、
ますます、そうではない者の屈折が理解できない人が多い。
理解しようとしても共感ができない。
そうすると、こちらは、慰撫されるどころか、
さらに孤立感を深め、心の傷は疼き続ける。
それも、いつものことだ。