子ども時代の虐待のトラウマは生涯消えない2025/01/15 09:13

タイトルに書いたことは、私の実感に過ぎない。

が、被害経験からの回復とか、
トラウマの克服とか、
そういう字面を見ると、反発する私がいる。

回復なんかしないだろうと思う。

なぜなら、子ども時代の被虐待経験は、
その子どもが人として人格形成をされるプロセスに
織り込まれているからだ。

折に触れて悲しみがよみがえり、
辛い気持ちが再現される。
10歳だった私が経験したことは、
74歳の今になっても、時折、疼痛として私を苛む。

このまま、ちょっと悲しいまま、死んでいくのだろうと思う。

もちろん、適切なケアを受けなかったからだ、という見方もあるだろう。
子ども時代の被虐待経験は、
時を置かずに、ケアを受ければ、深い傷となって残ることはなかったかもしれない。
応急処置が適切に行われれば、傷の回復は望める気もする。
そういう意味では、子ども時代にひどい扱いを受けたとしても、
すかさずその子どもをケアし、温かく見守る体制があれば、
その子どもは助かったかもしれない。
大人への信頼を速やかに回復したかもしれない。
世の中への信頼感も育てることができたかもしれない。

が、私の世代の多くは、
そのような環境にはいなかった。
ひどい扱いを受けたとしても、
外から見える甚だしい虐待でもなければ、
誰もが無関心だった時代だ。
親子や家族、というもの以外に子どもを支えるシステムがなかった。
家庭という地獄から助け出されても、
またもや家庭に帰されるのが当たり前だった時代だ。

だから、そのことの認識が発達してきた現在の状況は、
多少は改善されているのかもしれない。
まぁ、悲劇はまだまだ起こっているだろうと思うけれど。

私のような世代は、トラウマをかかえて年老いている。
悲しみや怒りをかかえて、老いても呻吟している。
自分を虐待した親たちは、その自覚もなく、
安らかに自己満足の最期を迎えたりしているだろうし、
外面からは、結構、恵まれた人であるかのように見られているかもしれない。私などもそうだ。
声を上げなければ、誰も知らない。
が、声を上げても、ただの愚痴だろう。
なにしろ、外見では、それなりに成長して老いてきたのだから。

声を上げることもしない、あるいはできない、
ただただ恨みをかかえて老いてきた人たちは、
扱いにくい老人になっているのかもしれない。
自分をいやな目に遭わせた者が何者かもわからず、
湧き上がる不快な感情をコントロールできず、
自分を虐待した親に似た人になって、
不機嫌に生きているのかもしれない。

親たちは、子どもに鬱屈をぶつけて自分の気分を解消しようとしたが、
それが問題行動だとは思いもしなかっただろう。
「子どものため」というのは、自分の不善な行動のエクスキューズだ。
理不尽な行為だということは薄々わかっていても、
目の前の手のかかる者に感情をぶつけないと自分の鬱憤が晴らせないとき、
あるいは、手がかかる、というそのこと自体に、自分の鬱屈した感情を増幅させて、
虐待を始めるのだ。

私の父の場合、最初、
私に対して、因縁をつけるところから始まる。
私が何かをした、というようなタイミングではなく、
黙って本を読んでいても、一人遊びをしている時であっても、
父は、暇つぶしに私を扱うのだ。
からかったり、説教を始めたり、小言を言ったりして、私を自分の方に向かせることから始まる。
私には不当としか思えないような言いがかりで、
私の欠点を指摘したり、言動の些末な不完全な部分を盛んに言い立てるなどして、
私が怒りを表明するまでやめない。
私は父のその言動の身勝手さに怒りを覚える。
(通りすがりの酔っ払いがからんできたのなら、相手をせずに逃げるところだが、一つ屋根の下にいる素面の父親だ。子どもの私に逃げる才覚はなかった。)
私は難癖をつけてきた父に、怒りをもって反論する。
「口答えするのか」と父は激高し、やがて激しい言い合いになり、最後は父は私を叩く。
言ってわからないやつは叩いてわからせる、という言い分だ。
そこで、初めて、母が言う。
「親に何を言われてもええやんか、もっと大人になりなさい」と。
そして、私と父の性格が似ているから、と、
すべてを私の責任だとなじり、黙って耐えない私を責め立てる。

私が悔しさで泣いて泣いて、それでも、父の理不尽、母の理不尽な意見(親なのだから何を言ってもいいのだ、子どもの私に大人になりなさい、と叱りつける理不尽)に抗弁する。
結局、父からの暴力の痛みと恐怖、
母からの精神的な攻撃への絶望と無力感によって、
私が抗弁をやめ、そして、父の攻撃がやむ。
私は憤死しそうなほど、悔しい思いをかかえて、泣きながら眠るのが常だった。
10歳ほどの子どもだ。
どこにも、私の味方がいない、この世で最も弱い生き物だった頃だ。
大人二人から、力づくで黙らされていた。
世間で報道される虐待事件は、他人事とは思えない。
殺されていった子どもたちは、あの頃の私だと思う。

父との諍いを最初からすべて見ていた母は、ただの一度も間に入らなかった。
父の身体的暴力が激化すると、
私を言葉で叱りつけて黙らせる役割を担った。
多くの夫たちがDVのターゲットに妻を選ぶ。
が、私の父親は私を選んだ。
私が中学3年生まで、母の父親が同居していたので、とても母には手が出せなかっただろう。
彼が鬱屈を晴らす相手は私しかいなかったのだ。
しかも、母は、父が私を褒めたりかわいがったりするのを喜ばない。
母の顔色をうかがう父にとって、
私への攻撃は母の機嫌を取るのにも都合のよい手段だった。

同じ頃のことで覚えている出来事がある。
母が、仕事から帰った父に、
私がいかに言うことをきかない子どもであるかを愚痴った。
すると、父はいきなり私を叩いた。
母は、
「たたかんと、言うてきかせてほしいのに」と父に言った。
母の理想の夫の姿は、
たぶん、妻の言うことを受けて、娘に理路整然とことわりを教える、そのような、
つまり、
戦後のアメリカのホームドラマ、『パパは何でも知っている』の父親のような姿だったのだろう。
勘違いもいいところだ。
武骨な田舎育ちで、太平洋戦争で死んだものとされていたのに、
南方から復員してきた、承認欲求の強い大正生まれの男が、ソフィスティケートされたアメリカの白人中産階級のエリート男と同じふるまいができるわけがない。

私が慰撫されなかったのは、
彼らのやりたい放題の下で、自分の気持ちを封殺されてしまったことだ。
そのくやしさだ。
ただの一度も慰撫されず、悲しみやくやしさを抱えたまま、私は人格形成され、社会化されてきた。
だから、もう、ここからは脱出できない。

あの連中をよみがえらせて、手をついて謝らせることができれば、
涙ながらに詫びを言わせれば、私も少しは心和むかもしれない。
が、連中はもうこの世にいない。
私の親だけではなく、多くのあの時代の親たちは、子どもの心をズタズタにしながら、
自分はいい親だった、と思いながら死んでいった者が多いのかもしれない。

私の世代の人たちが、鬱屈しているのはわかるね。
性格が悪い。
多くが似たような目に遭っているから。
しかし、何でもそうだが、同じ目に遭っていない人も結構いるから、
同世代でも理解されない、というのもいつものことだ。
特に、日頃から付き合いのある、比較的良い教育を受けた人たちは、
自分の現状に満足していたりするから、
ますます、そうではない者の屈折が理解できない人が多い。
理解しようとしても共感ができない。
そうすると、こちらは、慰撫されるどころか、
さらに孤立感を深め、心の傷は疼き続ける。
それも、いつものことだ。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック