教会のミサ ― 2025/01/03 11:52
昨年、そろそろダウンコートを着る季節になった頃、
わけあって、佐世保にいた。
宿泊しているホテルの近くに荘厳な目立つ外観の教会があって、
有名な観光スポットになっているらしい。
で、行ってみたら、受付の人に、
「ミサをやっているので終わりまで待ってください」と言われた。
ガラス越しに見ることはできるというので、見せてもらうことにした。
入り口の前で寒いのでコートを着たまま、靴だけを脱いで、
受付の人の後ろで中を見ていた。
司祭の声は、スピーカーで、外まで聞こえるようになっている。
で、聞いていた。
イエス・キリストの受難の話など、知らないわけではない話題が織り込まれて、話をされている。
司祭さんというのは、イケボであるのも適性の一つかなと思いながら、
話に聞き入っていた。
で、そのうち動けなくなってしまった。
わけがわからないが、涙がこみ上げてきた。
涙ボロボロになってしまった。
キリストの受難に遭遇した、救われたかった多くの人たちが、
無力なまま、祈る以外に道はなかったろうと思った。
今もそうなのだ。
多くの困難は自分で打開できない。
打開する力が自分にはない。
祈る以外に、念じる以外に、
力を持たない者は何をできるのか。
生きながらえるなら、祈るだけだ。
そんなことをぼんやり考えていて、涙ボロボロになってしまった。
いや、もっと様々なことが心に去来したはずだが、
そのときは、浮世を離れた心地になってしまった。
非日常の気分が訪れることがたまにあるが、そういう経験だ。
観光客だから早々に立ち去るだろうと思われていたのかもしれない。
受付の女性が、
「長くいてくださってありがとうございます」と言って、中に誘ってくれた。
何という儀式かわからないが、
司祭さんの前に行くと、何かを振りかけてくれて、祈りの言葉をかけてくれた。
私を揺さぶったのは、たぶん、キリストに助けを求めた人々と、今も変わらぬ苦悩の絆だ。
私たちは苦悩でつながっている。
そこに絆がある。
それに心を揺さぶられていたのかもしれない。
信じられるものは、悲しみや苦しみの感情だけ、だと。
非日常の経験をして、
ミサの後、事務連絡が始まったので、
それは、私の見知っている団体の集会の後と同じなので、
受付の人にお礼を言って、教会を後にした。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。