人生の初期に絶望した人は、、、2025/01/18 14:00

この人生で成功するのは難しいだろうなぁ。

何をやろうにも、縮こまっている。
夢を持とうにも、いじけ過ぎている。
だから、何もやらない。
自信なさげに何かをやっても、縮こまった結果になる。

何一つ、成功しない。

盛り立ててくれる人がいなかったわけではない。
しかし、縮こまっているから、
うまいこと、その親切に乗れない。
私なんて、、、と尻込みして、結局、その厚意も無にする。

そんなことが山ほどあった。

人様に過剰に気を遣いながら生きて、そのせいでかえって失敗さえしたのだ。
思えば、そんな人はたくさんいた。
私などはまだ命拾いできた部類なのだろう。

30代前半の頃、アルバイトで入った職場に、一人だけ、年かさのたぶん、40代か50代の女性がいた。
初日、皆さんに挨拶をし、
その年配の女性にも挨拶をした。
すると、その女性は、私の自己紹介に愛想良く挨拶を返してくれるが、自分の名前すら名乗らない。
それで、「お名前は何とおっしゃるんですか?」と聞いた。
すると、
「いえいえ、私なんか、、、」と、自分を卑下するような感じで、その場を立ち去った。

後日、他の人からその人の名前を知った。
そして、その人が自分を卑下している理由も知った。
その職場で、アルバイトは、若い高学歴女性の集団だった。
20歳代前半の未婚女性たちだ。
私と古くから勤めているもう一人が、30歳を超えていた。
そして、その人と同様に、私もすぐに、若い女性たちが慕ってくれるようになった。
しかし、その賢くて、一緒にいると楽しい彼女たちは、
その年配女性を完全に自分たちの輪からはずし、
口も効かなかった。
何が問題なのかはわからなかったが、同じアルバイトなのに、
その人だけが挨拶もされず、存在さえ無視されていた。

その後、その人が退職することになって、
30歳を超えているもう一人と私とで、
その人を食事に誘い、送別会をした。
3人だけで話したが、その年配女性は、結局、
私たちに感謝の気持ちを述べてはいたが、
自分の話はしなかった。
だから、どういう事情の人であったのかはわからない。

ただ、とびきりの高学歴の若い女性たちとは全く違う境遇のようではあった。
萎縮しきっていた。
私たちと同じアルバイトであることに変わりはなくても、
職種も異なっていたようだ。

それでも、仲間として、挨拶をし合う環境はつくれるはずだが、
なぜか、とんでもない仲間外しが行われていた。
未だに、腑に落ちない光景で、陰りとして残っている過去の出来事だ。

当時、若い高学歴女性たちは、アルバイトをしながら、結婚相手を探していたような感じだった。
今から40年前だ。
その職場は、学習塾を全国展開している大手企業で、
男性の正社員全員に、女性のアルバイトが一人ずつつくシステムだった。
男性たちは自分のデスクがあり、アルバイトは、その男性の事務補助として、みなで大きなテーブルで事務処理をこなしていた。
特に高学歴でなければ勤まらない職務ではない。
ただ、その会社のネームバリューと業種で、高学歴女性が集まったのだろう。
私も一人の男性社員の業務を補佐していた。
ある日、彼が、書いた顧客への挨拶状か何かを清書するように言われて、その文章に呆れた。
誤字が多い。文章も下手くそ。
なるべく原文を変えないように、誤字を直し、文章の体裁を整えた。
彼の仕事量が多く、彼につくアルバイトが長続きしないところに、私が雇われたらしく、他の女性たちが帰っても、いや、彼も帰ってしまっても、私はその日の仕事を終わらせるために、残業もしていた。
他の男性社員に、「俺もあんなアルバイトについてほしい」と言わしめるほど、私はよく働いたらしい。

そして、ほどなく、全貌が見える。
正社員でありながら、学力も大したことない男たちと、
彼らをはるかに上回る高学歴女性のアルバイトたちが、
広いフロアで二分されていた。

さらにフロアの端の方には、
学習塾の「講師」と呼ばれる40歳前後の女性たちがいて、主婦のかたわら、パートに来ている人たちだった。
「講師」ということで、これまた優越感を隠しもしない態度でいるのだが、
アルバイト女性たちは、「あの人たち、短大卒らしいわよ」と、関わりを持とうとしなかった。

40年前と言えばまだまだ女性の進学率は低い。
その頃、すでに40歳代になっている女性たちは、
短大卒であっても、エリート意識を持っている人が多かった。

大したことないオトコの正社員と、
とびきり高学歴の若いアルバイト女性と、
短大卒の中年女性パートが、
同居している職場空間だった。

時代を感じる。
今、思えば、冒頭に挙げた年配女性は、
「中卒」だったかもしれない。
まだそういう人がたくさんいた時代だ。
教育産業の大手の会社では、その学歴序列が顕著だったのかもしれない。

その女性が、人生の初期に絶望したかどうかはわからない。
が、「中卒」が大多数ではなくなっていた時代だったから、
いじけていたのは確かだろう。

なんか、やるせないね・・・

私は女の人が怖い2025/01/19 09:01

正直に言うと、ほんとうに女の人が怖い。

昔、自分には男のファンがたくさんいて、その中に複数の愛人もいる、と豪語していた友人は、
「男の嫉妬の方が怖いよ」と言っていた。
それもよく聞く話だ。
男たちは、権力を持っている分、怒らせると怖い。
その言葉を言った友人は、
女に対しては、小ずるい策を弄していた。
私などは簡単にひっかかってしまう小技を使って、他の女性の位置を押し下げる動きをしていた。
それなどは、彼女の習い性とも言うべきもので、深慮遠謀の表れではないように思う。
だから、私も、彼女の周りの友人たちも、その「悪い癖」については見逃していた。
目立たず、小さな「誹謗中傷」で、こっそりと、女友達の評価が落ちるように仕向ける。
そう、それは、彼女の「天然の行為」にすぎないので、すさまじい攻撃などで被害を受けた経験をすると、彼女のような人は「敵」ではないのだから、「ま、いっか」となる。

しかし、その深く企まれたわけでもない「小さな悪意」は、時折、その行為の対象となった人に、甚大なダメージを与えることもある。
実は、それが怖いのだ。

冒頭の友人は、
私は仕事の場面がほとんど重ならなかったので、
大した被害は受けなかった。
ま、被害はあったことはあったけどね。

しかし、この「習い性」を身につけた女性たちによって、
「敵」としてターゲットにされてしまった場合、
歩く道が罠だらけで、
私のようなぼんやりした者は、罠にはまりまくる。
気がついて、その道を歩くのをやめた時には、満身創痍だ。

罠を仕掛けた人を恨んでばかりいたが、
まあ、私のぼんやりぶりも大概だ、と、最近は思うようになった。
罠にかかりやすい私の事情もある。
自分に尖った物を向け始める相手を、正しく見極められない。
危機感が薄いというか、
優しく、正しく、誠意を持って相手に向き合えば、わかり合えると、思い込んでいたりする。
だって、そんなドラマが多いじゃないか。
主人公の誠意が通じる瞬間とかがあるじゃないか。
しかし、現実にはそれはない。
なにしろ、人は「正しさ」とか「誠意」の基準が違う。
相手が正しいと信じているものを
私が正しくないと認識していれば、齟齬しか生まれない。

ドラマは単純だ。
一つの正義、一つの誠意が、すべての登場人物に共有される。
そうはいかないのが現実社会だ。

女性たちは、習い性で、
気に入らない者を、「陰口」という武器で追い落とす。
彼女たちにとって、気に入らない者の言動はすべて、攻撃のネタになる。
すべてが、彼女たちの邪推を活発にし、隠密行動を活性化させる。
「陰口」という武器は、私には太刀打ちできない武器だ。
使いこなせないし、防衛するのも、苦手だ。

が、この「陰口」という武器はことのほか、威力を発揮する。
なぜか、この「陰口」が効果を発揮する下地が、存在する場合がある。

私が目にした「陰口」戦略を駆使する集団は、
みな、女性たちだった。
だから、私は女性が怖いのだ。

「陰口」は、様々な装いをもってささやかれる。
被害者を装った場合、(あくまで装っている場合ね)、
悪意を持って、言葉巧みに、いかにもありそうな事例をでっち上げて表現される場合、
悪意はないが、表現力が豊かで、真に迫った物言いでなされる場合。

私は基本的に、
「〇〇さんが、あなたのことを××と言っていたよ」とは言わない。
聞かされた方も愉快ではないだろうし、
言った本人も、一時的な感情でこぼしてしまったかもしれず、
大事(おおごと)にしない方針だからだ。
人はしばしば失言する。
私もするけどね。
それを後生大事に持っている必要はない。
その場のはずみ、ただのアホ、うっかり、
など、いくらでもミスは転がっている。

だが、そこに食いついて、伝播させるタイプの人がいる。
そこに食いつくのは、
たいてい、基底に、「悪意」が巣くっている人だ。
悪意か、不満か、不遇感か、とにかく、そういったネガティブな感情が支配しているときだ。

そういう人が「陰口」を聞いたとき、
それはその人の格好の武器と変わる。
しかも、時に、非常に破壊力のある武器となる。
話に尾ひれがつくかもしれない。
伝える必要もないのに、わざわざ伝えることもある。
悪意を持って、その小さな「誹謗中傷」を既定の事実であるかのように、流布させる人もいる。
火種はだんだん大きくなる。
甚大な被害に結びつく頃、そういう人は、自分が何をしたか、と言うことも忘れていたりする。
自分がどういう役割を果たしたか、など自覚はない。
「だって、みんながそう言っているんだもの」としか思わない。
時には、自分ではなく、「みんな」がそう言っていた、としか思わない。


結果は重大だ。
実際に、それで破壊されてきた人々、人の絆、そのようなものをたくさん見てきた気がする。

女の人は怖い。
これは、私の正直な実感。

嘘情報が流布する奇妙さ2025/01/20 18:47

ずいぶん、昔のことだ。
が、今でも、鮮明に、あのときの、驚きというか呆れというか、を覚えている。

母が、私の近所のマンションに引っ越してくることを決めたときだ。
古い一戸建てを売ることにした。
決心すると、行動は早い母、早速、大手の不動産業者に依頼して、販売手続きを進めた。

まず、家の査定のために、測量から始まる。
町なかの、隣と軒を接した家で、境界がそれぞれややこしい。
亡父も不動産業者だったので、そこは抜かりなく、登記も、過去に所有する隣家を売った時の契約書も万全なものだった。
母の要請で、何度も、打ち合わせの際に、私も足を運んだ。

が、それぞれだだをこねる近所ばかりだった。
境界で苦情を言ってきたりするのを、測量士、不動産業者、そして私も書類に目を通し、問題なしと結論づけて近所を納得させるまで、結構、時間を費やした。
日頃、良い人たちで、両親は良好な関係を築いてきたはずなのに、こういうことは別物らしい。

その間に、
「しばらく貸してほしい」と頼んでくる近所の人もいたりした。家を改築するので、借りたいとのことだった。
母は、そういう話を一切断っていた。
今思えば、高い家賃をもらうわけにもいかず、またもや、ややこしい話になるのかもしれない近所とは早く縁を切りたかったのかもしれない。

引っ越し作業が始まった時、私は母の家に行っていた。
荷物が運び出されるので、玄関は大きく開け放たれ、
一方の隣家の主婦が手伝いだか何だかわからないが、
しばしば顔を出していた。
そして、私に言った。
「この家は売らんと、貸さはるんですね」と。
私はびっくりして、
「え? 母はどこにも貸さないで売ることにしましたよ」と訂正した。
すると、その人は、
「そんなことないです。私、お向かいの〇〇さんに聞きました」と、自信たっぷりに答えた。
あまりの自信たっぷりさと、その、お向かいの〇〇さんという、噂好きのご近所の組み合わせに、もう、訂正するのを諦めた。

そうか、、ガセネタって、こうして流布するのか、、と、妙に感慨深く思った。

そのお向かいの〇〇さんは、たぶん、想像でものを言ったのだろうが、あるいは、「貸してほしい」と言ってきた人からその希望を聞いたのだろうが、なぜか、それが既定の事実に変貌していた。
そして、その噂は、別の人の強い確信となっていた。

母にそのことを言ったが、母はもう気にもとめなかった。
母は、既に、そのご近所から心が離れていた。
トラブルがないように気を配りながら住んでいたが、
心を許しているわけではなかったようだ。
だから、境界線のことも偽情報も、聞き流していた。

父が売って隣家を買った人の息子が話し合いの場に来て、何度も文句を言っていた。
私は父とその人の父親が交わした契約書を指し示しながら、
「法的に全く不備のない契約だと思いますが」と言うと、
「そりゃあ、裁判をすれば、うちが負けますよ」と怒りながら、相手は言った。
バブルの頃の価格なので、高額だったことが彼を怒らせていたのだ。
それも、彼ではなく、彼の父親がおこなった契約なので、怒りを持って行く場所がなく、
結局、隣接している場合、本来ならその人が持つべき費用を、自分は一切払う気がない、と言い放った。

それは、実は不当な言い分だったが、
母は、私に、
「全部、向こうの言うとおりにしたげて」と言った。
すべてが煩わしく、さっさと縁を切りたかったのだろう。

それで、母は、何の未練もなく、転居した。
母の家から数軒離れた先の私と同じくらいの年齢の女性が、
母との別れを惜しんで泣いていたが、母は、愛想良く挨拶をし、
私たちの車が出発すると、実にクールで、すべてを忘れたかのようだった。
「あの人、泣いたはったね」と言っても、そのことに反応さえしなかった。
今となれば、母の心情はわからないが、、、。

スマホを忘れただけなのに、、、2025/01/23 15:05

今朝は、定期的に検査を受けている病院に行くのに、いつもより早く支度をして出かけた。
最近は、朝から出かける用事が少ない(と言うか避けている)ので、結構、たいそうになる。

で、マンションを出て、スマホで電話をしている人を見かけて、
スマホを家に置き忘れてきたことに気づいた。
一瞬、取りに戻ろうときびすを返したが、
清掃の人と挨拶を交わした直後、
なんだか、また会うのもおっくうな感じで、
諦めた。
一日、スマホのない外出を経験するのも、何かの実験だ、と電車に乗って病院へ。

大した乗車時間ではないが、なんだか落ち着かない。
多くの人は、スマホを見ている。

手持ち無沙汰だが、病院に着いて、
病院では、Kindleを持って行っていたので、本を読んでいた。
Kindleがなかったら、たぶん、コンビニに何か本を買いに行ったような気がする。

で、散歩をしてから帰ろうと思った。
が、スマホのない不便さに(特に必要とする場面もないにもかかわらず)妙に疲れを感じて、
昼食用の食べ物を買って、家へまっしぐら。

つ、疲れたぞ、、、。
スマホなしで、長くはいられない。
何だろう? この依存ぶりは、、、。

やたら疲弊した。
何だろうね、この現象。

SNS2025/01/26 09:25

Facebookをやっているが、
いいね、をつけてもらって、最初はただただありがたい、だけだったが、
だんだん、
その数が気になってきた。

やばい。
これ、やばい。

人気投票ではないのだから、気にしてはだめなのだ。
今まで、欠かさず「いいね」をしてくれていた人が、急にしてくれなくなったとして、
そして、他の人のメッセージには「いいね」をしているのを見たとして、
だからと言って、いちいち、気持ちを煩わせてはやばくなる。

新たなプレッシャー、
新たなストレスを産み出してしまう。
メッセージを出せば、出しっぱなし、というのがいいのだろう。

ネットでの中傷事件以来、懲りたはずなのに、
まだまだ賢くなってないね。