ないないづくし ― 2025/02/02 13:08
どうしたらいいんだろうね。
ものすごく寂しいことがある。
先日、ある友人も、「寂しくて涙が出た」という話をしていた。
私よりよほどアクティブに活動している人だ。
その人が寂しいと言う。
その人も一人暮らしだ。
猫はいるらしいけど。
猫がいるだけましにも思えるけど、その人はその人で、
本当に寂しいのだろう。
心許す人がいないのかもしれない。
しかし、私もその人も、お互いを選んではいない。
お互いにそれほど、必要としないタイプの人間だ。
だから、どちらも寂しい。
私は、以前はクラシックのコンサートに行ったり、
映画に行ったり、
時には、その気さえあれば、旅行もできる逃げ場があった。
しかし、今は、お金もないからね。
寂しい人がお金もなかったら、どうすればいいんだろうね。
気晴らしができない。
からだも弱いので、安価なリクレーションに気軽に参加できない。
体弱い、お金ない、仕事ない、人間関係に恵まれない、、、
これって、自分の不徳の致す所なのだろう。
今日一日、乗り越えたら、明日には、
近所の病院に行く、という用事があるから、何とかなるかな。
ものすごく寂しいことがある。
先日、ある友人も、「寂しくて涙が出た」という話をしていた。
私よりよほどアクティブに活動している人だ。
その人が寂しいと言う。
その人も一人暮らしだ。
猫はいるらしいけど。
猫がいるだけましにも思えるけど、その人はその人で、
本当に寂しいのだろう。
心許す人がいないのかもしれない。
しかし、私もその人も、お互いを選んではいない。
お互いにそれほど、必要としないタイプの人間だ。
だから、どちらも寂しい。
私は、以前はクラシックのコンサートに行ったり、
映画に行ったり、
時には、その気さえあれば、旅行もできる逃げ場があった。
しかし、今は、お金もないからね。
寂しい人がお金もなかったら、どうすればいいんだろうね。
気晴らしができない。
からだも弱いので、安価なリクレーションに気軽に参加できない。
体弱い、お金ない、仕事ない、人間関係に恵まれない、、、
これって、自分の不徳の致す所なのだろう。
今日一日、乗り越えたら、明日には、
近所の病院に行く、という用事があるから、何とかなるかな。
私は女の人が怖い ― 2025/01/19 09:01
正直に言うと、ほんとうに女の人が怖い。
昔、自分には男のファンがたくさんいて、その中に複数の愛人もいる、と豪語していた友人は、
「男の嫉妬の方が怖いよ」と言っていた。
それもよく聞く話だ。
男たちは、権力を持っている分、怒らせると怖い。
その言葉を言った友人は、
女に対しては、小ずるい策を弄していた。
私などは簡単にひっかかってしまう小技を使って、他の女性の位置を押し下げる動きをしていた。
それなどは、彼女の習い性とも言うべきもので、深慮遠謀の表れではないように思う。
だから、私も、彼女の周りの友人たちも、その「悪い癖」については見逃していた。
目立たず、小さな「誹謗中傷」で、こっそりと、女友達の評価が落ちるように仕向ける。
そう、それは、彼女の「天然の行為」にすぎないので、すさまじい攻撃などで被害を受けた経験をすると、彼女のような人は「敵」ではないのだから、「ま、いっか」となる。
しかし、その深く企まれたわけでもない「小さな悪意」は、時折、その行為の対象となった人に、甚大なダメージを与えることもある。
実は、それが怖いのだ。
冒頭の友人は、
私は仕事の場面がほとんど重ならなかったので、
大した被害は受けなかった。
ま、被害はあったことはあったけどね。
しかし、この「習い性」を身につけた女性たちによって、
「敵」としてターゲットにされてしまった場合、
歩く道が罠だらけで、
私のようなぼんやりした者は、罠にはまりまくる。
気がついて、その道を歩くのをやめた時には、満身創痍だ。
罠を仕掛けた人を恨んでばかりいたが、
まあ、私のぼんやりぶりも大概だ、と、最近は思うようになった。
罠にかかりやすい私の事情もある。
自分に尖った物を向け始める相手を、正しく見極められない。
危機感が薄いというか、
優しく、正しく、誠意を持って相手に向き合えば、わかり合えると、思い込んでいたりする。
だって、そんなドラマが多いじゃないか。
主人公の誠意が通じる瞬間とかがあるじゃないか。
しかし、現実にはそれはない。
なにしろ、人は「正しさ」とか「誠意」の基準が違う。
相手が正しいと信じているものを
私が正しくないと認識していれば、齟齬しか生まれない。
ドラマは単純だ。
一つの正義、一つの誠意が、すべての登場人物に共有される。
そうはいかないのが現実社会だ。
女性たちは、習い性で、
気に入らない者を、「陰口」という武器で追い落とす。
彼女たちにとって、気に入らない者の言動はすべて、攻撃のネタになる。
すべてが、彼女たちの邪推を活発にし、隠密行動を活性化させる。
「陰口」という武器は、私には太刀打ちできない武器だ。
使いこなせないし、防衛するのも、苦手だ。
が、この「陰口」という武器はことのほか、威力を発揮する。
なぜか、この「陰口」が効果を発揮する下地が、存在する場合がある。
私が目にした「陰口」戦略を駆使する集団は、
みな、女性たちだった。
だから、私は女性が怖いのだ。
「陰口」は、様々な装いをもってささやかれる。
被害者を装った場合、(あくまで装っている場合ね)、
悪意を持って、言葉巧みに、いかにもありそうな事例をでっち上げて表現される場合、
悪意はないが、表現力が豊かで、真に迫った物言いでなされる場合。
私は基本的に、
「〇〇さんが、あなたのことを××と言っていたよ」とは言わない。
聞かされた方も愉快ではないだろうし、
言った本人も、一時的な感情でこぼしてしまったかもしれず、
大事(おおごと)にしない方針だからだ。
人はしばしば失言する。
私もするけどね。
それを後生大事に持っている必要はない。
その場のはずみ、ただのアホ、うっかり、
など、いくらでもミスは転がっている。
だが、そこに食いついて、伝播させるタイプの人がいる。
そこに食いつくのは、
たいてい、基底に、「悪意」が巣くっている人だ。
悪意か、不満か、不遇感か、とにかく、そういったネガティブな感情が支配しているときだ。
そういう人が「陰口」を聞いたとき、
それはその人の格好の武器と変わる。
しかも、時に、非常に破壊力のある武器となる。
話に尾ひれがつくかもしれない。
伝える必要もないのに、わざわざ伝えることもある。
悪意を持って、その小さな「誹謗中傷」を既定の事実であるかのように、流布させる人もいる。
火種はだんだん大きくなる。
甚大な被害に結びつく頃、そういう人は、自分が何をしたか、と言うことも忘れていたりする。
自分がどういう役割を果たしたか、など自覚はない。
「だって、みんながそう言っているんだもの」としか思わない。
時には、自分ではなく、「みんな」がそう言っていた、としか思わない。
結果は重大だ。
実際に、それで破壊されてきた人々、人の絆、そのようなものをたくさん見てきた気がする。
女の人は怖い。
これは、私の正直な実感。
昔、自分には男のファンがたくさんいて、その中に複数の愛人もいる、と豪語していた友人は、
「男の嫉妬の方が怖いよ」と言っていた。
それもよく聞く話だ。
男たちは、権力を持っている分、怒らせると怖い。
その言葉を言った友人は、
女に対しては、小ずるい策を弄していた。
私などは簡単にひっかかってしまう小技を使って、他の女性の位置を押し下げる動きをしていた。
それなどは、彼女の習い性とも言うべきもので、深慮遠謀の表れではないように思う。
だから、私も、彼女の周りの友人たちも、その「悪い癖」については見逃していた。
目立たず、小さな「誹謗中傷」で、こっそりと、女友達の評価が落ちるように仕向ける。
そう、それは、彼女の「天然の行為」にすぎないので、すさまじい攻撃などで被害を受けた経験をすると、彼女のような人は「敵」ではないのだから、「ま、いっか」となる。
しかし、その深く企まれたわけでもない「小さな悪意」は、時折、その行為の対象となった人に、甚大なダメージを与えることもある。
実は、それが怖いのだ。
冒頭の友人は、
私は仕事の場面がほとんど重ならなかったので、
大した被害は受けなかった。
ま、被害はあったことはあったけどね。
しかし、この「習い性」を身につけた女性たちによって、
「敵」としてターゲットにされてしまった場合、
歩く道が罠だらけで、
私のようなぼんやりした者は、罠にはまりまくる。
気がついて、その道を歩くのをやめた時には、満身創痍だ。
罠を仕掛けた人を恨んでばかりいたが、
まあ、私のぼんやりぶりも大概だ、と、最近は思うようになった。
罠にかかりやすい私の事情もある。
自分に尖った物を向け始める相手を、正しく見極められない。
危機感が薄いというか、
優しく、正しく、誠意を持って相手に向き合えば、わかり合えると、思い込んでいたりする。
だって、そんなドラマが多いじゃないか。
主人公の誠意が通じる瞬間とかがあるじゃないか。
しかし、現実にはそれはない。
なにしろ、人は「正しさ」とか「誠意」の基準が違う。
相手が正しいと信じているものを
私が正しくないと認識していれば、齟齬しか生まれない。
ドラマは単純だ。
一つの正義、一つの誠意が、すべての登場人物に共有される。
そうはいかないのが現実社会だ。
女性たちは、習い性で、
気に入らない者を、「陰口」という武器で追い落とす。
彼女たちにとって、気に入らない者の言動はすべて、攻撃のネタになる。
すべてが、彼女たちの邪推を活発にし、隠密行動を活性化させる。
「陰口」という武器は、私には太刀打ちできない武器だ。
使いこなせないし、防衛するのも、苦手だ。
が、この「陰口」という武器はことのほか、威力を発揮する。
なぜか、この「陰口」が効果を発揮する下地が、存在する場合がある。
私が目にした「陰口」戦略を駆使する集団は、
みな、女性たちだった。
だから、私は女性が怖いのだ。
「陰口」は、様々な装いをもってささやかれる。
被害者を装った場合、(あくまで装っている場合ね)、
悪意を持って、言葉巧みに、いかにもありそうな事例をでっち上げて表現される場合、
悪意はないが、表現力が豊かで、真に迫った物言いでなされる場合。
私は基本的に、
「〇〇さんが、あなたのことを××と言っていたよ」とは言わない。
聞かされた方も愉快ではないだろうし、
言った本人も、一時的な感情でこぼしてしまったかもしれず、
大事(おおごと)にしない方針だからだ。
人はしばしば失言する。
私もするけどね。
それを後生大事に持っている必要はない。
その場のはずみ、ただのアホ、うっかり、
など、いくらでもミスは転がっている。
だが、そこに食いついて、伝播させるタイプの人がいる。
そこに食いつくのは、
たいてい、基底に、「悪意」が巣くっている人だ。
悪意か、不満か、不遇感か、とにかく、そういったネガティブな感情が支配しているときだ。
そういう人が「陰口」を聞いたとき、
それはその人の格好の武器と変わる。
しかも、時に、非常に破壊力のある武器となる。
話に尾ひれがつくかもしれない。
伝える必要もないのに、わざわざ伝えることもある。
悪意を持って、その小さな「誹謗中傷」を既定の事実であるかのように、流布させる人もいる。
火種はだんだん大きくなる。
甚大な被害に結びつく頃、そういう人は、自分が何をしたか、と言うことも忘れていたりする。
自分がどういう役割を果たしたか、など自覚はない。
「だって、みんながそう言っているんだもの」としか思わない。
時には、自分ではなく、「みんな」がそう言っていた、としか思わない。
結果は重大だ。
実際に、それで破壊されてきた人々、人の絆、そのようなものをたくさん見てきた気がする。
女の人は怖い。
これは、私の正直な実感。
人生の初期に絶望した人は、、、 ― 2025/01/18 14:00
この人生で成功するのは難しいだろうなぁ。
何をやろうにも、縮こまっている。
夢を持とうにも、いじけ過ぎている。
だから、何もやらない。
自信なさげに何かをやっても、縮こまった結果になる。
何一つ、成功しない。
盛り立ててくれる人がいなかったわけではない。
しかし、縮こまっているから、
うまいこと、その親切に乗れない。
私なんて、、、と尻込みして、結局、その厚意も無にする。
そんなことが山ほどあった。
人様に過剰に気を遣いながら生きて、そのせいでかえって失敗さえしたのだ。
思えば、そんな人はたくさんいた。
私などはまだ命拾いできた部類なのだろう。
30代前半の頃、アルバイトで入った職場に、一人だけ、年かさのたぶん、40代か50代の女性がいた。
初日、皆さんに挨拶をし、
その年配の女性にも挨拶をした。
すると、その女性は、私の自己紹介に愛想良く挨拶を返してくれるが、自分の名前すら名乗らない。
それで、「お名前は何とおっしゃるんですか?」と聞いた。
すると、
「いえいえ、私なんか、、、」と、自分を卑下するような感じで、その場を立ち去った。
後日、他の人からその人の名前を知った。
そして、その人が自分を卑下している理由も知った。
その職場で、アルバイトは、若い高学歴女性の集団だった。
20歳代前半の未婚女性たちだ。
私と古くから勤めているもう一人が、30歳を超えていた。
そして、その人と同様に、私もすぐに、若い女性たちが慕ってくれるようになった。
しかし、その賢くて、一緒にいると楽しい彼女たちは、
その年配女性を完全に自分たちの輪からはずし、
口も効かなかった。
何が問題なのかはわからなかったが、同じアルバイトなのに、
その人だけが挨拶もされず、存在さえ無視されていた。
その後、その人が退職することになって、
30歳を超えているもう一人と私とで、
その人を食事に誘い、送別会をした。
3人だけで話したが、その年配女性は、結局、
私たちに感謝の気持ちを述べてはいたが、
自分の話はしなかった。
だから、どういう事情の人であったのかはわからない。
ただ、とびきりの高学歴の若い女性たちとは全く違う境遇のようではあった。
萎縮しきっていた。
私たちと同じアルバイトであることに変わりはなくても、
職種も異なっていたようだ。
それでも、仲間として、挨拶をし合う環境はつくれるはずだが、
なぜか、とんでもない仲間外しが行われていた。
未だに、腑に落ちない光景で、陰りとして残っている過去の出来事だ。
当時、若い高学歴女性たちは、アルバイトをしながら、結婚相手を探していたような感じだった。
今から40年前だ。
その職場は、学習塾を全国展開している大手企業で、
男性の正社員全員に、女性のアルバイトが一人ずつつくシステムだった。
男性たちは自分のデスクがあり、アルバイトは、その男性の事務補助として、みなで大きなテーブルで事務処理をこなしていた。
特に高学歴でなければ勤まらない職務ではない。
ただ、その会社のネームバリューと業種で、高学歴女性が集まったのだろう。
私も一人の男性社員の業務を補佐していた。
ある日、彼が、書いた顧客への挨拶状か何かを清書するように言われて、その文章に呆れた。
誤字が多い。文章も下手くそ。
なるべく原文を変えないように、誤字を直し、文章の体裁を整えた。
彼の仕事量が多く、彼につくアルバイトが長続きしないところに、私が雇われたらしく、他の女性たちが帰っても、いや、彼も帰ってしまっても、私はその日の仕事を終わらせるために、残業もしていた。
他の男性社員に、「俺もあんなアルバイトについてほしい」と言わしめるほど、私はよく働いたらしい。
そして、ほどなく、全貌が見える。
正社員でありながら、学力も大したことない男たちと、
彼らをはるかに上回る高学歴女性のアルバイトたちが、
広いフロアで二分されていた。
さらにフロアの端の方には、
学習塾の「講師」と呼ばれる40歳前後の女性たちがいて、主婦のかたわら、パートに来ている人たちだった。
「講師」ということで、これまた優越感を隠しもしない態度でいるのだが、
アルバイト女性たちは、「あの人たち、短大卒らしいわよ」と、関わりを持とうとしなかった。
40年前と言えばまだまだ女性の進学率は低い。
その頃、すでに40歳代になっている女性たちは、
短大卒であっても、エリート意識を持っている人が多かった。
大したことないオトコの正社員と、
とびきり高学歴の若いアルバイト女性と、
短大卒の中年女性パートが、
同居している職場空間だった。
時代を感じる。
今、思えば、冒頭に挙げた年配女性は、
「中卒」だったかもしれない。
まだそういう人がたくさんいた時代だ。
教育産業の大手の会社では、その学歴序列が顕著だったのかもしれない。
その女性が、人生の初期に絶望したかどうかはわからない。
が、「中卒」が大多数ではなくなっていた時代だったから、
いじけていたのは確かだろう。
なんか、やるせないね・・・
何をやろうにも、縮こまっている。
夢を持とうにも、いじけ過ぎている。
だから、何もやらない。
自信なさげに何かをやっても、縮こまった結果になる。
何一つ、成功しない。
盛り立ててくれる人がいなかったわけではない。
しかし、縮こまっているから、
うまいこと、その親切に乗れない。
私なんて、、、と尻込みして、結局、その厚意も無にする。
そんなことが山ほどあった。
人様に過剰に気を遣いながら生きて、そのせいでかえって失敗さえしたのだ。
思えば、そんな人はたくさんいた。
私などはまだ命拾いできた部類なのだろう。
30代前半の頃、アルバイトで入った職場に、一人だけ、年かさのたぶん、40代か50代の女性がいた。
初日、皆さんに挨拶をし、
その年配の女性にも挨拶をした。
すると、その女性は、私の自己紹介に愛想良く挨拶を返してくれるが、自分の名前すら名乗らない。
それで、「お名前は何とおっしゃるんですか?」と聞いた。
すると、
「いえいえ、私なんか、、、」と、自分を卑下するような感じで、その場を立ち去った。
後日、他の人からその人の名前を知った。
そして、その人が自分を卑下している理由も知った。
その職場で、アルバイトは、若い高学歴女性の集団だった。
20歳代前半の未婚女性たちだ。
私と古くから勤めているもう一人が、30歳を超えていた。
そして、その人と同様に、私もすぐに、若い女性たちが慕ってくれるようになった。
しかし、その賢くて、一緒にいると楽しい彼女たちは、
その年配女性を完全に自分たちの輪からはずし、
口も効かなかった。
何が問題なのかはわからなかったが、同じアルバイトなのに、
その人だけが挨拶もされず、存在さえ無視されていた。
その後、その人が退職することになって、
30歳を超えているもう一人と私とで、
その人を食事に誘い、送別会をした。
3人だけで話したが、その年配女性は、結局、
私たちに感謝の気持ちを述べてはいたが、
自分の話はしなかった。
だから、どういう事情の人であったのかはわからない。
ただ、とびきりの高学歴の若い女性たちとは全く違う境遇のようではあった。
萎縮しきっていた。
私たちと同じアルバイトであることに変わりはなくても、
職種も異なっていたようだ。
それでも、仲間として、挨拶をし合う環境はつくれるはずだが、
なぜか、とんでもない仲間外しが行われていた。
未だに、腑に落ちない光景で、陰りとして残っている過去の出来事だ。
当時、若い高学歴女性たちは、アルバイトをしながら、結婚相手を探していたような感じだった。
今から40年前だ。
その職場は、学習塾を全国展開している大手企業で、
男性の正社員全員に、女性のアルバイトが一人ずつつくシステムだった。
男性たちは自分のデスクがあり、アルバイトは、その男性の事務補助として、みなで大きなテーブルで事務処理をこなしていた。
特に高学歴でなければ勤まらない職務ではない。
ただ、その会社のネームバリューと業種で、高学歴女性が集まったのだろう。
私も一人の男性社員の業務を補佐していた。
ある日、彼が、書いた顧客への挨拶状か何かを清書するように言われて、その文章に呆れた。
誤字が多い。文章も下手くそ。
なるべく原文を変えないように、誤字を直し、文章の体裁を整えた。
彼の仕事量が多く、彼につくアルバイトが長続きしないところに、私が雇われたらしく、他の女性たちが帰っても、いや、彼も帰ってしまっても、私はその日の仕事を終わらせるために、残業もしていた。
他の男性社員に、「俺もあんなアルバイトについてほしい」と言わしめるほど、私はよく働いたらしい。
そして、ほどなく、全貌が見える。
正社員でありながら、学力も大したことない男たちと、
彼らをはるかに上回る高学歴女性のアルバイトたちが、
広いフロアで二分されていた。
さらにフロアの端の方には、
学習塾の「講師」と呼ばれる40歳前後の女性たちがいて、主婦のかたわら、パートに来ている人たちだった。
「講師」ということで、これまた優越感を隠しもしない態度でいるのだが、
アルバイト女性たちは、「あの人たち、短大卒らしいわよ」と、関わりを持とうとしなかった。
40年前と言えばまだまだ女性の進学率は低い。
その頃、すでに40歳代になっている女性たちは、
短大卒であっても、エリート意識を持っている人が多かった。
大したことないオトコの正社員と、
とびきり高学歴の若いアルバイト女性と、
短大卒の中年女性パートが、
同居している職場空間だった。
時代を感じる。
今、思えば、冒頭に挙げた年配女性は、
「中卒」だったかもしれない。
まだそういう人がたくさんいた時代だ。
教育産業の大手の会社では、その学歴序列が顕著だったのかもしれない。
その女性が、人生の初期に絶望したかどうかはわからない。
が、「中卒」が大多数ではなくなっていた時代だったから、
いじけていたのは確かだろう。
なんか、やるせないね・・・
子ども時代の虐待のトラウマは生涯消えない ― 2025/01/15 09:13
タイトルに書いたことは、私の実感に過ぎない。
が、被害経験からの回復とか、
トラウマの克服とか、
そういう字面を見ると、反発する私がいる。
回復なんかしないだろうと思う。
なぜなら、子ども時代の被虐待経験は、
その子どもが人として人格形成をされるプロセスに
織り込まれているからだ。
折に触れて悲しみがよみがえり、
辛い気持ちが再現される。
10歳だった私が経験したことは、
74歳の今になっても、時折、疼痛として私を苛む。
このまま、ちょっと悲しいまま、死んでいくのだろうと思う。
もちろん、適切なケアを受けなかったからだ、という見方もあるだろう。
子ども時代の被虐待経験は、
時を置かずに、ケアを受ければ、深い傷となって残ることはなかったかもしれない。
応急処置が適切に行われれば、傷の回復は望める気もする。
そういう意味では、子ども時代にひどい扱いを受けたとしても、
すかさずその子どもをケアし、温かく見守る体制があれば、
その子どもは助かったかもしれない。
大人への信頼を速やかに回復したかもしれない。
世の中への信頼感も育てることができたかもしれない。
が、私の世代の多くは、
そのような環境にはいなかった。
ひどい扱いを受けたとしても、
外から見える甚だしい虐待でもなければ、
誰もが無関心だった時代だ。
親子や家族、というもの以外に子どもを支えるシステムがなかった。
家庭という地獄から助け出されても、
またもや家庭に帰されるのが当たり前だった時代だ。
だから、そのことの認識が発達してきた現在の状況は、
多少は改善されているのかもしれない。
まぁ、悲劇はまだまだ起こっているだろうと思うけれど。
私のような世代は、トラウマをかかえて年老いている。
悲しみや怒りをかかえて、老いても呻吟している。
自分を虐待した親たちは、その自覚もなく、
安らかに自己満足の最期を迎えたりしているだろうし、
外面からは、結構、恵まれた人であるかのように見られているかもしれない。私などもそうだ。
声を上げなければ、誰も知らない。
が、声を上げても、ただの愚痴だろう。
なにしろ、外見では、それなりに成長して老いてきたのだから。
声を上げることもしない、あるいはできない、
ただただ恨みをかかえて老いてきた人たちは、
扱いにくい老人になっているのかもしれない。
自分をいやな目に遭わせた者が何者かもわからず、
湧き上がる不快な感情をコントロールできず、
自分を虐待した親に似た人になって、
不機嫌に生きているのかもしれない。
親たちは、子どもに鬱屈をぶつけて自分の気分を解消しようとしたが、
それが問題行動だとは思いもしなかっただろう。
「子どものため」というのは、自分の不善な行動のエクスキューズだ。
理不尽な行為だということは薄々わかっていても、
目の前の手のかかる者に感情をぶつけないと自分の鬱憤が晴らせないとき、
あるいは、手がかかる、というそのこと自体に、自分の鬱屈した感情を増幅させて、
虐待を始めるのだ。
私の父の場合、最初、
私に対して、因縁をつけるところから始まる。
私が何かをした、というようなタイミングではなく、
黙って本を読んでいても、一人遊びをしている時であっても、
父は、暇つぶしに私を扱うのだ。
からかったり、説教を始めたり、小言を言ったりして、私を自分の方に向かせることから始まる。
私には不当としか思えないような言いがかりで、
私の欠点を指摘したり、言動の些末な不完全な部分を盛んに言い立てるなどして、
私が怒りを表明するまでやめない。
私は父のその言動の身勝手さに怒りを覚える。
(通りすがりの酔っ払いがからんできたのなら、相手をせずに逃げるところだが、一つ屋根の下にいる素面の父親だ。子どもの私に逃げる才覚はなかった。)
私は難癖をつけてきた父に、怒りをもって反論する。
「口答えするのか」と父は激高し、やがて激しい言い合いになり、最後は父は私を叩く。
言ってわからないやつは叩いてわからせる、という言い分だ。
そこで、初めて、母が言う。
「親に何を言われてもええやんか、もっと大人になりなさい」と。
そして、私と父の性格が似ているから、と、
すべてを私の責任だとなじり、黙って耐えない私を責め立てる。
私が悔しさで泣いて泣いて、それでも、父の理不尽、母の理不尽な意見(親なのだから何を言ってもいいのだ、子どもの私に大人になりなさい、と叱りつける理不尽)に抗弁する。
結局、父からの暴力の痛みと恐怖、
母からの精神的な攻撃への絶望と無力感によって、
私が抗弁をやめ、そして、父の攻撃がやむ。
私は憤死しそうなほど、悔しい思いをかかえて、泣きながら眠るのが常だった。
10歳ほどの子どもだ。
どこにも、私の味方がいない、この世で最も弱い生き物だった頃だ。
大人二人から、力づくで黙らされていた。
世間で報道される虐待事件は、他人事とは思えない。
殺されていった子どもたちは、あの頃の私だと思う。
父との諍いを最初からすべて見ていた母は、ただの一度も間に入らなかった。
父の身体的暴力が激化すると、
私を言葉で叱りつけて黙らせる役割を担った。
多くの夫たちがDVのターゲットに妻を選ぶ。
が、私の父親は私を選んだ。
私が中学3年生まで、母の父親が同居していたので、とても母には手が出せなかっただろう。
彼が鬱屈を晴らす相手は私しかいなかったのだ。
しかも、母は、父が私を褒めたりかわいがったりするのを喜ばない。
母の顔色をうかがう父にとって、
私への攻撃は母の機嫌を取るのにも都合のよい手段だった。
同じ頃のことで覚えている出来事がある。
母が、仕事から帰った父に、
私がいかに言うことをきかない子どもであるかを愚痴った。
すると、父はいきなり私を叩いた。
母は、
「たたかんと、言うてきかせてほしいのに」と父に言った。
母の理想の夫の姿は、
たぶん、妻の言うことを受けて、娘に理路整然とことわりを教える、そのような、
つまり、
戦後のアメリカのホームドラマ、『パパは何でも知っている』の父親のような姿だったのだろう。
勘違いもいいところだ。
武骨な田舎育ちで、太平洋戦争で死んだものとされていたのに、
南方から復員してきた、承認欲求の強い大正生まれの男が、ソフィスティケートされたアメリカの白人中産階級のエリート男と同じふるまいができるわけがない。
私が慰撫されなかったのは、
彼らのやりたい放題の下で、自分の気持ちを封殺されてしまったことだ。
そのくやしさだ。
ただの一度も慰撫されず、悲しみやくやしさを抱えたまま、私は人格形成され、社会化されてきた。
だから、もう、ここからは脱出できない。
あの連中をよみがえらせて、手をついて謝らせることができれば、
涙ながらに詫びを言わせれば、私も少しは心和むかもしれない。
が、連中はもうこの世にいない。
私の親だけではなく、多くのあの時代の親たちは、子どもの心をズタズタにしながら、
自分はいい親だった、と思いながら死んでいった者が多いのかもしれない。
私の世代の人たちが、鬱屈しているのはわかるね。
性格が悪い。
多くが似たような目に遭っているから。
しかし、何でもそうだが、同じ目に遭っていない人も結構いるから、
同世代でも理解されない、というのもいつものことだ。
特に、日頃から付き合いのある、比較的良い教育を受けた人たちは、
自分の現状に満足していたりするから、
ますます、そうではない者の屈折が理解できない人が多い。
理解しようとしても共感ができない。
そうすると、こちらは、慰撫されるどころか、
さらに孤立感を深め、心の傷は疼き続ける。
それも、いつものことだ。
が、被害経験からの回復とか、
トラウマの克服とか、
そういう字面を見ると、反発する私がいる。
回復なんかしないだろうと思う。
なぜなら、子ども時代の被虐待経験は、
その子どもが人として人格形成をされるプロセスに
織り込まれているからだ。
折に触れて悲しみがよみがえり、
辛い気持ちが再現される。
10歳だった私が経験したことは、
74歳の今になっても、時折、疼痛として私を苛む。
このまま、ちょっと悲しいまま、死んでいくのだろうと思う。
もちろん、適切なケアを受けなかったからだ、という見方もあるだろう。
子ども時代の被虐待経験は、
時を置かずに、ケアを受ければ、深い傷となって残ることはなかったかもしれない。
応急処置が適切に行われれば、傷の回復は望める気もする。
そういう意味では、子ども時代にひどい扱いを受けたとしても、
すかさずその子どもをケアし、温かく見守る体制があれば、
その子どもは助かったかもしれない。
大人への信頼を速やかに回復したかもしれない。
世の中への信頼感も育てることができたかもしれない。
が、私の世代の多くは、
そのような環境にはいなかった。
ひどい扱いを受けたとしても、
外から見える甚だしい虐待でもなければ、
誰もが無関心だった時代だ。
親子や家族、というもの以外に子どもを支えるシステムがなかった。
家庭という地獄から助け出されても、
またもや家庭に帰されるのが当たり前だった時代だ。
だから、そのことの認識が発達してきた現在の状況は、
多少は改善されているのかもしれない。
まぁ、悲劇はまだまだ起こっているだろうと思うけれど。
私のような世代は、トラウマをかかえて年老いている。
悲しみや怒りをかかえて、老いても呻吟している。
自分を虐待した親たちは、その自覚もなく、
安らかに自己満足の最期を迎えたりしているだろうし、
外面からは、結構、恵まれた人であるかのように見られているかもしれない。私などもそうだ。
声を上げなければ、誰も知らない。
が、声を上げても、ただの愚痴だろう。
なにしろ、外見では、それなりに成長して老いてきたのだから。
声を上げることもしない、あるいはできない、
ただただ恨みをかかえて老いてきた人たちは、
扱いにくい老人になっているのかもしれない。
自分をいやな目に遭わせた者が何者かもわからず、
湧き上がる不快な感情をコントロールできず、
自分を虐待した親に似た人になって、
不機嫌に生きているのかもしれない。
親たちは、子どもに鬱屈をぶつけて自分の気分を解消しようとしたが、
それが問題行動だとは思いもしなかっただろう。
「子どものため」というのは、自分の不善な行動のエクスキューズだ。
理不尽な行為だということは薄々わかっていても、
目の前の手のかかる者に感情をぶつけないと自分の鬱憤が晴らせないとき、
あるいは、手がかかる、というそのこと自体に、自分の鬱屈した感情を増幅させて、
虐待を始めるのだ。
私の父の場合、最初、
私に対して、因縁をつけるところから始まる。
私が何かをした、というようなタイミングではなく、
黙って本を読んでいても、一人遊びをしている時であっても、
父は、暇つぶしに私を扱うのだ。
からかったり、説教を始めたり、小言を言ったりして、私を自分の方に向かせることから始まる。
私には不当としか思えないような言いがかりで、
私の欠点を指摘したり、言動の些末な不完全な部分を盛んに言い立てるなどして、
私が怒りを表明するまでやめない。
私は父のその言動の身勝手さに怒りを覚える。
(通りすがりの酔っ払いがからんできたのなら、相手をせずに逃げるところだが、一つ屋根の下にいる素面の父親だ。子どもの私に逃げる才覚はなかった。)
私は難癖をつけてきた父に、怒りをもって反論する。
「口答えするのか」と父は激高し、やがて激しい言い合いになり、最後は父は私を叩く。
言ってわからないやつは叩いてわからせる、という言い分だ。
そこで、初めて、母が言う。
「親に何を言われてもええやんか、もっと大人になりなさい」と。
そして、私と父の性格が似ているから、と、
すべてを私の責任だとなじり、黙って耐えない私を責め立てる。
私が悔しさで泣いて泣いて、それでも、父の理不尽、母の理不尽な意見(親なのだから何を言ってもいいのだ、子どもの私に大人になりなさい、と叱りつける理不尽)に抗弁する。
結局、父からの暴力の痛みと恐怖、
母からの精神的な攻撃への絶望と無力感によって、
私が抗弁をやめ、そして、父の攻撃がやむ。
私は憤死しそうなほど、悔しい思いをかかえて、泣きながら眠るのが常だった。
10歳ほどの子どもだ。
どこにも、私の味方がいない、この世で最も弱い生き物だった頃だ。
大人二人から、力づくで黙らされていた。
世間で報道される虐待事件は、他人事とは思えない。
殺されていった子どもたちは、あの頃の私だと思う。
父との諍いを最初からすべて見ていた母は、ただの一度も間に入らなかった。
父の身体的暴力が激化すると、
私を言葉で叱りつけて黙らせる役割を担った。
多くの夫たちがDVのターゲットに妻を選ぶ。
が、私の父親は私を選んだ。
私が中学3年生まで、母の父親が同居していたので、とても母には手が出せなかっただろう。
彼が鬱屈を晴らす相手は私しかいなかったのだ。
しかも、母は、父が私を褒めたりかわいがったりするのを喜ばない。
母の顔色をうかがう父にとって、
私への攻撃は母の機嫌を取るのにも都合のよい手段だった。
同じ頃のことで覚えている出来事がある。
母が、仕事から帰った父に、
私がいかに言うことをきかない子どもであるかを愚痴った。
すると、父はいきなり私を叩いた。
母は、
「たたかんと、言うてきかせてほしいのに」と父に言った。
母の理想の夫の姿は、
たぶん、妻の言うことを受けて、娘に理路整然とことわりを教える、そのような、
つまり、
戦後のアメリカのホームドラマ、『パパは何でも知っている』の父親のような姿だったのだろう。
勘違いもいいところだ。
武骨な田舎育ちで、太平洋戦争で死んだものとされていたのに、
南方から復員してきた、承認欲求の強い大正生まれの男が、ソフィスティケートされたアメリカの白人中産階級のエリート男と同じふるまいができるわけがない。
私が慰撫されなかったのは、
彼らのやりたい放題の下で、自分の気持ちを封殺されてしまったことだ。
そのくやしさだ。
ただの一度も慰撫されず、悲しみやくやしさを抱えたまま、私は人格形成され、社会化されてきた。
だから、もう、ここからは脱出できない。
あの連中をよみがえらせて、手をついて謝らせることができれば、
涙ながらに詫びを言わせれば、私も少しは心和むかもしれない。
が、連中はもうこの世にいない。
私の親だけではなく、多くのあの時代の親たちは、子どもの心をズタズタにしながら、
自分はいい親だった、と思いながら死んでいった者が多いのかもしれない。
私の世代の人たちが、鬱屈しているのはわかるね。
性格が悪い。
多くが似たような目に遭っているから。
しかし、何でもそうだが、同じ目に遭っていない人も結構いるから、
同世代でも理解されない、というのもいつものことだ。
特に、日頃から付き合いのある、比較的良い教育を受けた人たちは、
自分の現状に満足していたりするから、
ますます、そうではない者の屈折が理解できない人が多い。
理解しようとしても共感ができない。
そうすると、こちらは、慰撫されるどころか、
さらに孤立感を深め、心の傷は疼き続ける。
それも、いつものことだ。
独立独歩ということ ― 2025/01/12 08:31
この、「連帯」を重視する時代環境にあって、
独立独歩という生き方は、あまり楽ではない。
孤立する気はないし、
連携を拒否するつもりもない。
ただ、自分には自分の考え方があり、
行動の仕方がある、というだけのことだ。
しかし、同調圧力を感じたり、
「連帯」や「絆」を強調されると(強要にみえてくると)、
距離を置こうとする自分がいる。
寄り添い合って、
もたれかかり合って、
「ねぇ~」と同調し合っている人たちを見ると、
羨ましくなったり、
入れないことに寂しさを感じたりはするが、
それでも、そこに入り込もうとはしない。
誰もが誰かを恃みに生きているのだろう。
心のよりどころがあるのだろう。
いや、なければ、心細くて仕方がない。
多くのフェミ友は配偶者持ちだ。
長年、別れずに共に生きてきたのなら、気が合うのだろう。
少なくとも、憎くは思っていないのだろう。
そして、唯一、心を許す相手になっている可能性がある。
ある人は、現職を退いたあと、友人ではなく、妹を選んだようだ。
長年の友人よりきょうだいか、、、と、血縁に恵まれない私は思う。
子供を頼る人もいるだろうが、
私は、子供を自分の孤独に巻き込みたくはない。
子供は子供の人生をできる限り楽しんでほしいと思っている。
私の母は、私を頼りにしていたようだが、
それは、母が意識しないまま、私を搾取することだった。
私が母に食い物にされなかったのは、母とは全く別の交友関係があって、そちらを優先できたからだ。
仕事をしていて、つくづくよかったと思っている。
母は、私が愚痴の相手をすることを望んだようだが、(それも、私が自ら喜んで、母の愚痴を聞きたがる状況?)、そうはいかないことを思い知ったようで、
亡くなる数年前には、弘田三枝子の「人形の家」がやたら思い出される、と言っていた。
ダイレクトには言わない。
そうして、私に自分の孤独を知らしめようとしたのだろうけれど、
もはや、母のそういう策略には乗らなかった。
こうして、子供の頃から支配されてきて、自分の不幸の根源に気づいたので、母の策略のいちいちに気づくことはないが、
基本的に距離を置いたので、もう母の罠にはひっかからなくなっていた。
これも、独立独歩の生き方と言えるのだろうか。
頼り合い、もたれ合いを生きる恃みにしている人には、寂しい生き方に見えるだろうが、
いや、私自身も寂しくてたまらないのだが、
それしかできないし、そうして、すくっと立つ以外にないのだ。
独立独歩という生き方は、あまり楽ではない。
孤立する気はないし、
連携を拒否するつもりもない。
ただ、自分には自分の考え方があり、
行動の仕方がある、というだけのことだ。
しかし、同調圧力を感じたり、
「連帯」や「絆」を強調されると(強要にみえてくると)、
距離を置こうとする自分がいる。
寄り添い合って、
もたれかかり合って、
「ねぇ~」と同調し合っている人たちを見ると、
羨ましくなったり、
入れないことに寂しさを感じたりはするが、
それでも、そこに入り込もうとはしない。
誰もが誰かを恃みに生きているのだろう。
心のよりどころがあるのだろう。
いや、なければ、心細くて仕方がない。
多くのフェミ友は配偶者持ちだ。
長年、別れずに共に生きてきたのなら、気が合うのだろう。
少なくとも、憎くは思っていないのだろう。
そして、唯一、心を許す相手になっている可能性がある。
ある人は、現職を退いたあと、友人ではなく、妹を選んだようだ。
長年の友人よりきょうだいか、、、と、血縁に恵まれない私は思う。
子供を頼る人もいるだろうが、
私は、子供を自分の孤独に巻き込みたくはない。
子供は子供の人生をできる限り楽しんでほしいと思っている。
私の母は、私を頼りにしていたようだが、
それは、母が意識しないまま、私を搾取することだった。
私が母に食い物にされなかったのは、母とは全く別の交友関係があって、そちらを優先できたからだ。
仕事をしていて、つくづくよかったと思っている。
母は、私が愚痴の相手をすることを望んだようだが、(それも、私が自ら喜んで、母の愚痴を聞きたがる状況?)、そうはいかないことを思い知ったようで、
亡くなる数年前には、弘田三枝子の「人形の家」がやたら思い出される、と言っていた。
ダイレクトには言わない。
そうして、私に自分の孤独を知らしめようとしたのだろうけれど、
もはや、母のそういう策略には乗らなかった。
こうして、子供の頃から支配されてきて、自分の不幸の根源に気づいたので、母の策略のいちいちに気づくことはないが、
基本的に距離を置いたので、もう母の罠にはひっかからなくなっていた。
これも、独立独歩の生き方と言えるのだろうか。
頼り合い、もたれ合いを生きる恃みにしている人には、寂しい生き方に見えるだろうが、
いや、私自身も寂しくてたまらないのだが、
それしかできないし、そうして、すくっと立つ以外にないのだ。
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