生きる力 ― 2020/08/21 20:54
昔、若い頃に読んだ福永武彦の小説に、
「希望することは、ほとんど生きること」という言葉があった。
子どもの頃から、「希望」とは無縁の感じを持っていたので、
それは何を意味するのか、としばし考えた。
実感としてわからないことは、
いくつになってもわからない。
年をとっても、わからないことの方が多い。
が、私は、年を取るにつれ、希望を持つ、という経験もしてきた。
親と離れ、私を否定する人との同居を止めることができた頃から、
少しずつ、変化してきたのだ。
自分を否定する人が自分の親である、という経験は、厳しい。
父は、ことばを尽くして私を否定し、面罵し続けた。
自分の思い通りにならない子どもを正しい方向へ導いているつもりだったのだろうが、
ひたすら否定し続けた。
私には魂などないかのように、私を完膚なきまでに叩きのめした。
一旦、私を潰して、別の子どもに作り変えたかったのか。
日々、あらゆる手段を使って、私を矯正しようとし続けたのだが、
今の時代なら、紛れもなく虐待だ。
自分の正しさを疑わず、自分の手元にいる間に、私を何とかしないといけないと、
私を「出来損ない」と呼び続け、
品物なら返品できるのに、お前は仕方なく家に置いてやっている、と言い続け、
幼い私を暴力で屈服させ続けた。
だから、世間の虐待親とその子どもについて、報道などに接すると、自分の場合と重なる。
親がどういう意地悪な気持ちで子どもを扱い、
どれほど子どもが逃げ場のない絶望感で日々を生きているのかは、とてもよくわかるような気がする。
世間で騒がれる虐待事件と異なるのは、
親が世間体を最も重視する人たちだったから。
そして、そういう親の元に育った人は、いわゆる「虐待」よりもはるかに多く潜在しているだろう。
表に出ない虐待は(DVもそうだろうが)、考えられているより多いような気がする。
そして、生命に関わらない程度の(軽微な?)虐待下で生き延びたとしても、子ども時代の日々の鬱屈は長く禍根を残す。
おそらく、生涯背負い続ける負荷となる。
生きる活力が少ないかもしれない。
もう、終わるかも、、、と思うのは活力が枯れるのを感じるとき。
このコロナの閉塞状況で、
そうした子ども時代の鬱屈した日々がよみがえる。
悲しみや絶望が立ち上がる。
まずいとは思う。
せめて、自分の子どもが、
私の死によって、後悔したり、辛い思いをしないように、
とは望んでいる。
そういう意味では、
私の父は、私を楽にしてくれた。
私の中に良い思い出を残さなかったから、
父の位牌も遺影も、あっさり普通ごみに捨てた。
毎朝、夫と母の写真には、コーヒーや紅茶を供え、お菓子を置く。
父は初めからいなかったように、痕跡はない。
唯一、それが、父が私にしてくれた良きことだ。
そして、今も弱気になると、
あいつにくじかれたままの自分では嫌だ、
あいつのせいで生きる力を失ってなるものか、と、活力を奮い立たせる。
希望とはちょっと違うが、これも生きる力になっているのかなぁ、、、。
「希望することは、ほとんど生きること」という言葉があった。
子どもの頃から、「希望」とは無縁の感じを持っていたので、
それは何を意味するのか、としばし考えた。
実感としてわからないことは、
いくつになってもわからない。
年をとっても、わからないことの方が多い。
が、私は、年を取るにつれ、希望を持つ、という経験もしてきた。
親と離れ、私を否定する人との同居を止めることができた頃から、
少しずつ、変化してきたのだ。
自分を否定する人が自分の親である、という経験は、厳しい。
父は、ことばを尽くして私を否定し、面罵し続けた。
自分の思い通りにならない子どもを正しい方向へ導いているつもりだったのだろうが、
ひたすら否定し続けた。
私には魂などないかのように、私を完膚なきまでに叩きのめした。
一旦、私を潰して、別の子どもに作り変えたかったのか。
日々、あらゆる手段を使って、私を矯正しようとし続けたのだが、
今の時代なら、紛れもなく虐待だ。
自分の正しさを疑わず、自分の手元にいる間に、私を何とかしないといけないと、
私を「出来損ない」と呼び続け、
品物なら返品できるのに、お前は仕方なく家に置いてやっている、と言い続け、
幼い私を暴力で屈服させ続けた。
だから、世間の虐待親とその子どもについて、報道などに接すると、自分の場合と重なる。
親がどういう意地悪な気持ちで子どもを扱い、
どれほど子どもが逃げ場のない絶望感で日々を生きているのかは、とてもよくわかるような気がする。
世間で騒がれる虐待事件と異なるのは、
親が世間体を最も重視する人たちだったから。
そして、そういう親の元に育った人は、いわゆる「虐待」よりもはるかに多く潜在しているだろう。
表に出ない虐待は(DVもそうだろうが)、考えられているより多いような気がする。
そして、生命に関わらない程度の(軽微な?)虐待下で生き延びたとしても、子ども時代の日々の鬱屈は長く禍根を残す。
おそらく、生涯背負い続ける負荷となる。
生きる活力が少ないかもしれない。
もう、終わるかも、、、と思うのは活力が枯れるのを感じるとき。
このコロナの閉塞状況で、
そうした子ども時代の鬱屈した日々がよみがえる。
悲しみや絶望が立ち上がる。
まずいとは思う。
せめて、自分の子どもが、
私の死によって、後悔したり、辛い思いをしないように、
とは望んでいる。
そういう意味では、
私の父は、私を楽にしてくれた。
私の中に良い思い出を残さなかったから、
父の位牌も遺影も、あっさり普通ごみに捨てた。
毎朝、夫と母の写真には、コーヒーや紅茶を供え、お菓子を置く。
父は初めからいなかったように、痕跡はない。
唯一、それが、父が私にしてくれた良きことだ。
そして、今も弱気になると、
あいつにくじかれたままの自分では嫌だ、
あいつのせいで生きる力を失ってなるものか、と、活力を奮い立たせる。
希望とはちょっと違うが、これも生きる力になっているのかなぁ、、、。
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