授業評価というやつ ― 2020/07/03 21:35
何年くらい前になるのだろう?
大学での授業を、学生が評価する、ということが始まった。
嫌いなものの一つだ。
始まった当初は、
昔ながらの講義ノートをずっと使い続けて、
教える情熱に欠けている、でも高給取りの古い教員が多いから、
そういう教員を何とかするためだろうと、思っていた。
こちらは、研究室もなく、研究費も出ないけど、
自前で書籍を購入し、苦労して他大学の論文などを入手し、
教材を揃え、毎回学生のための配布資料を一生懸命作り、
ネットがない時代なので、気の遠くなるような重い資料を山の上の校舎まで毎回運んでいた。
本当に真面目にやって来た。
だから、古いタイプの横着な先生は、そろそろ態度を改めてもらうのは当然だと思っていた。
が、それからどれくらいの年月が経ったのか。
いまは、そんな先生はもういないだろう。
熱心で、自分のための時間など持てない状況にあるような人が多い。
それでも、授業評価アンケートは続いている。
もはや、業者が作った、適当な設問のアンケートを毎年使い回ししている。
ある大学は、一度か二度、業者が作成したようなアンケートを配布していたが、やがて、それを学内でコピーしているっぽい用紙に変わった。
ある大学は、スマホでアンケートに答えさせる方式に変わった。
授業中にスマホは禁止、ということをうるさく言ってくるのに、
アンケートの時だけ、
できるだけ授業中にアンケートをさせてください、と教務が言ってくる。
こっちも困るのだ。
今だけスマホを見てもいいからね、と言うのも、なんだかご都合主義だし。
まあ、授業中にスマホを見ている中には、留学生で単語を調べている学生もいるし、
私が授業中に説明したことをさらにネットで調べている学生もいる。
そういうのは認めたいので、
基本的にスマホを見ていても見過ごしている。
(大半は、ラインやゲームをやってる連中が多いけど、大人数の講義で、いちいち、授業を中断して文句ばっかり言ってられない。私語よりまし。おとなしく自分の世界にいろよ、という感じ。
「ここ、テストに出します」と言うと、俄然集中するし(笑))
設問についても、教員の間では不評だ。
「あなたはシラバスを見て、この授業を取っていますか?」という設問と、
「先生は、シラバスの通りに授業をしていますか?」と、
いう設問のどちらにも「いいえ」と回答するような学生もいる。
そんなアンケートを実施する意味がわからない。
それを廃止する気概のある人がいなくて、
大学側も惰性でやってるみたいだ。
それとも、教員をますます締め付けるため。
学生は、めんどくさそうだし(全教科で同じことをやらされるもんね)、
教員の方は学生に嫌われると、ひどいことを書かれるから、萎縮気味だ。
アンケートは無記名だから、中にはひどいことを書く学生もいる。
セクハラまがいのもある。
大人数が相手だと、一人一人の学生を識別できない。
しかし、少人数を教えていれば、実施した日の出席状況などで誰が回答しているかわかるだろう。
そうなれば、少人数の先生の評価は甘く出るはずだ。
なんだか、ものすごくもやもやしたシステム。
もう何年も前だが、私の科目がなくなるという最後の授業のとき、
むかついて、アンケートの実施をやめた。
ただでさえ、私の授業はコンテンツがたくさんで、そんなことをやってる時間は取れない。
でも、大学側は、授業の改善のためという目的を言ってくるから、やむなくやっていたが、
最後の授業になって、次がないのに改善もへちまもあるかい! ということで実施しなかったら、結局文句も言われなかった。
今回も同じだ。
私にとって、今教えている大学はこの春学期で終わりだ。
専任を退職した先生が、大学内に私のポジションを作りたかったみたいだが(後を引き継いでほしかったらしい)、
でも、とても弱めに私のことを提案してくれた感じで、(事情を聴いていると、そら、無理やろうと私でも思うほどの押しの弱さ(笑))、
いよいよ私はこの大学と縁が切れる。
だから、今回もアンケートはやらないつもりだけど、
次がないのに、まだやらせるのかと思ったら、
猛烈にむかついてきた。
大学の態度にむかつくのだ。
学生はまあ、とにかくかわいい。
海外の高校生ドラマをよく観る。、
高校生は、教員に対して実に対等にものを言う。
からだは大きい、理屈も一人前、弁も立つ、そういう若い人が、
ただただ未熟なだけにトラブルを起こしていくドラマの展開が多い。
からだの大きい頭でっかちのクソガキが、でもまだ問題解決能力がなくて、
いろいろトラブルを起こすのを、
教員や保護者がどう対応するのか、それが私には興味深い。
切れている高校生に、大人は実に冷静に対応する。
時には子どもたちの怒りの理由が尤もだと思っても、
大人はマネジメントの制約などで子どもたちを納得させなければならない。
その、苦悩しながらも切れずに対処していく大人な態度に、毎回感心しながら、見ている。
未熟でひたむきなメンタリティを描くのに、
高校生というシチュエーションがちょうどいいのだろう。
大学生になると、少しものわかりがよくなる。
しかし、それでも、その自己中ぶりに呆れる学生はいる。
狡猾にもなっているし、相手にしたくないタイプもいる。
それでも、とにもかくにも教員は切れたら終わり、という感じがする。
(いっぺんだけ、切れたけど、あれ、どうやったらよかったんだろう。スキルが要るなぁ。)
まだ若い男の先生だと、時としてトラブることもあるらしい。
無理もないかな、本当にかわいげのない奴だし、
私でさえむかつくことはあるから。
まあ、年の功で、なんとかなってきたんだろう。
年を取って良くなった部分だ。
ある、息子くらいの年齢の先生が、
「M吉先生は、もう、肩の力が抜けておられるけど、僕はまだ力んでしまってダメです」と言っていたことがある。
ある日、お互いに扱いの大変な学生の話をしていて、彼は本当に腹に据えかねる感じで、
私の方は、面白がって笑っていたので、
「僕はまだそうはなれません」と言っていた。
まぁ、そのうち、なるだろうけど。
年を取ると、相手がどんどん幼く見えて来て、
「困ったねぇ」と駄々をこねる幼子を見るような目になる(はず)。
だから、授業アンケートでも、結局、むかつく相手は大学。
たぶん、そういうの決めてるのは、私の天敵のおっさん連中。
やれやれ、これともお別れか、、、、
ちょっと寂しいかな。
大学での授業を、学生が評価する、ということが始まった。
嫌いなものの一つだ。
始まった当初は、
昔ながらの講義ノートをずっと使い続けて、
教える情熱に欠けている、でも高給取りの古い教員が多いから、
そういう教員を何とかするためだろうと、思っていた。
こちらは、研究室もなく、研究費も出ないけど、
自前で書籍を購入し、苦労して他大学の論文などを入手し、
教材を揃え、毎回学生のための配布資料を一生懸命作り、
ネットがない時代なので、気の遠くなるような重い資料を山の上の校舎まで毎回運んでいた。
本当に真面目にやって来た。
だから、古いタイプの横着な先生は、そろそろ態度を改めてもらうのは当然だと思っていた。
が、それからどれくらいの年月が経ったのか。
いまは、そんな先生はもういないだろう。
熱心で、自分のための時間など持てない状況にあるような人が多い。
それでも、授業評価アンケートは続いている。
もはや、業者が作った、適当な設問のアンケートを毎年使い回ししている。
ある大学は、一度か二度、業者が作成したようなアンケートを配布していたが、やがて、それを学内でコピーしているっぽい用紙に変わった。
ある大学は、スマホでアンケートに答えさせる方式に変わった。
授業中にスマホは禁止、ということをうるさく言ってくるのに、
アンケートの時だけ、
できるだけ授業中にアンケートをさせてください、と教務が言ってくる。
こっちも困るのだ。
今だけスマホを見てもいいからね、と言うのも、なんだかご都合主義だし。
まあ、授業中にスマホを見ている中には、留学生で単語を調べている学生もいるし、
私が授業中に説明したことをさらにネットで調べている学生もいる。
そういうのは認めたいので、
基本的にスマホを見ていても見過ごしている。
(大半は、ラインやゲームをやってる連中が多いけど、大人数の講義で、いちいち、授業を中断して文句ばっかり言ってられない。私語よりまし。おとなしく自分の世界にいろよ、という感じ。
「ここ、テストに出します」と言うと、俄然集中するし(笑))
設問についても、教員の間では不評だ。
「あなたはシラバスを見て、この授業を取っていますか?」という設問と、
「先生は、シラバスの通りに授業をしていますか?」と、
いう設問のどちらにも「いいえ」と回答するような学生もいる。
そんなアンケートを実施する意味がわからない。
それを廃止する気概のある人がいなくて、
大学側も惰性でやってるみたいだ。
それとも、教員をますます締め付けるため。
学生は、めんどくさそうだし(全教科で同じことをやらされるもんね)、
教員の方は学生に嫌われると、ひどいことを書かれるから、萎縮気味だ。
アンケートは無記名だから、中にはひどいことを書く学生もいる。
セクハラまがいのもある。
大人数が相手だと、一人一人の学生を識別できない。
しかし、少人数を教えていれば、実施した日の出席状況などで誰が回答しているかわかるだろう。
そうなれば、少人数の先生の評価は甘く出るはずだ。
なんだか、ものすごくもやもやしたシステム。
もう何年も前だが、私の科目がなくなるという最後の授業のとき、
むかついて、アンケートの実施をやめた。
ただでさえ、私の授業はコンテンツがたくさんで、そんなことをやってる時間は取れない。
でも、大学側は、授業の改善のためという目的を言ってくるから、やむなくやっていたが、
最後の授業になって、次がないのに改善もへちまもあるかい! ということで実施しなかったら、結局文句も言われなかった。
今回も同じだ。
私にとって、今教えている大学はこの春学期で終わりだ。
専任を退職した先生が、大学内に私のポジションを作りたかったみたいだが(後を引き継いでほしかったらしい)、
でも、とても弱めに私のことを提案してくれた感じで、(事情を聴いていると、そら、無理やろうと私でも思うほどの押しの弱さ(笑))、
いよいよ私はこの大学と縁が切れる。
だから、今回もアンケートはやらないつもりだけど、
次がないのに、まだやらせるのかと思ったら、
猛烈にむかついてきた。
大学の態度にむかつくのだ。
学生はまあ、とにかくかわいい。
海外の高校生ドラマをよく観る。、
高校生は、教員に対して実に対等にものを言う。
からだは大きい、理屈も一人前、弁も立つ、そういう若い人が、
ただただ未熟なだけにトラブルを起こしていくドラマの展開が多い。
からだの大きい頭でっかちのクソガキが、でもまだ問題解決能力がなくて、
いろいろトラブルを起こすのを、
教員や保護者がどう対応するのか、それが私には興味深い。
切れている高校生に、大人は実に冷静に対応する。
時には子どもたちの怒りの理由が尤もだと思っても、
大人はマネジメントの制約などで子どもたちを納得させなければならない。
その、苦悩しながらも切れずに対処していく大人な態度に、毎回感心しながら、見ている。
未熟でひたむきなメンタリティを描くのに、
高校生というシチュエーションがちょうどいいのだろう。
大学生になると、少しものわかりがよくなる。
しかし、それでも、その自己中ぶりに呆れる学生はいる。
狡猾にもなっているし、相手にしたくないタイプもいる。
それでも、とにもかくにも教員は切れたら終わり、という感じがする。
(いっぺんだけ、切れたけど、あれ、どうやったらよかったんだろう。スキルが要るなぁ。)
まだ若い男の先生だと、時としてトラブることもあるらしい。
無理もないかな、本当にかわいげのない奴だし、
私でさえむかつくことはあるから。
まあ、年の功で、なんとかなってきたんだろう。
年を取って良くなった部分だ。
ある、息子くらいの年齢の先生が、
「M吉先生は、もう、肩の力が抜けておられるけど、僕はまだ力んでしまってダメです」と言っていたことがある。
ある日、お互いに扱いの大変な学生の話をしていて、彼は本当に腹に据えかねる感じで、
私の方は、面白がって笑っていたので、
「僕はまだそうはなれません」と言っていた。
まぁ、そのうち、なるだろうけど。
年を取ると、相手がどんどん幼く見えて来て、
「困ったねぇ」と駄々をこねる幼子を見るような目になる(はず)。
だから、授業アンケートでも、結局、むかつく相手は大学。
たぶん、そういうの決めてるのは、私の天敵のおっさん連中。
やれやれ、これともお別れか、、、、
ちょっと寂しいかな。
このごろ、、、 ― 2020/07/16 09:52
誰でも同様なのだろうと思うが、
家に逼塞しているのは、あんまりメンタルヘルスの上ではよろしくない。
もちろん、仲の良い人と同居しているような人は、
それなりに幸せなのかもしれないが、
病気持ちの独居老人は、気晴らしに出掛けることもしにくく、
鬱々としてしまう。
私などは、曲がりなりにも仕事をしているから、
とにかく、この日までに、これだけは、、、というような仕事をかかえて、
窮屈なような、やることがあってよかった、、、ような、
そんな感じ。
この、夏の季節になると、
去年の緊急搬送、緊急手術の恐ろしい記憶がまざまざとよみがえって、
さらには、緊急搬送されて緊急入院した4年前の記憶も同時に戻ってきて、
今年はあかんかも、、、と心細くなる。
毎夜、寝る前は、夜中に具合が悪くなったときのために、救急隊の人の手前、みっともなくない程度の寝間着を着る。
上下ばらばらのパジャマはなるべく避ける程度だけど。
昨年のホテルに宿泊したときは、あまりの苦痛に、
ホテルの浴衣の細帯を取って放り出したのを覚えている。
それで楽になるわけではないのだけど、あまりの苦痛に、いろんなことをやったうちの一つだ。
運ばれるときか、病院に着いたときか、誰かが、「帯は?」と言っているのが聞こえた。女性の声だったと思う。
その人かどうか、浴衣の前を合わせてくれていて、
ああ、はだけていたんだなとわかる。
「はじめから帯はしていなかった」と誰かが答えている。
私は説明する力がない。
麻酔で眠るまでの間、私が答えたのは、病状に関することだけ。
とにかく、必要事項には答えたのだ。
声を振り絞って、大腸がんの手術をしたことや水腎症のことや、
その後、猛烈な腹痛で緊急搬送されて入院したことも伝えた。
判断力は働いたわけだ。
外部の声は確実に聞こえていた。
しかし、反応する力が少なく、必要最小限の反応をしたのだと思う。
一度、あまりにも痛がる私に、
(ああいうとき、患者の反応がないと、聞こえていないと、医療関係者ですら思うものなのだろうか?)
真横の看護師の女性が、
大声を出して、私に言い聞かせようとしてきた。
「ちゃんとしないと、治らないのよ」とかなんとか、大声で何度か言った。
私の側では声は十分に聞こえていて、
しかも、痛くてたまらず、痛い痛いと叫んでいるので、
駄々をこねているわけではない。
だから、まるで説教するかのようなその看護師に
「うるさい!」と叫んだ。
痛みがごくたまに一瞬、緩和されるので、その瞬間に、
「あなたはうるさい」ともう一度言った。
それで、ぴたっとその人は黙った。
反応できない患者は聞こえていないと思い込む人が多いようだ。
昔、夫が鼻の手術をしたあと、
まだ眠っているように目を閉じていて、酸素マスクをしている状態だった。
看護師長が、盛んに耳元で大声を出す。
私には、聞こえているのではないかと思えて、あんな耳元で大声を出されたらいやなのではないかと思った。
が、こちらは素人、専門家に任せるしかない。
すると案の定、夫が顔をしかめ、
「大きな声を出さないでください」と言った。
反応を表現するという作業にはエネルギーが要る。
まだエネルギーが足りないので、何にでも応えるのは無理なのだ。
緊急でないことには、反応しないことになる。
緊急か、緊急でないかは、聞こえた段階で仕分けしている。
まあ、そんなこんなを連鎖的に思い出す日々だ。
毎朝、今日も生き延びたな、と思う。
祖父が亡くなったのは9月のはじめ。
69歳だった。
私は、よく祖父に似ていると言われていた。
結構二枚目で、すらっとしていた祖父に似ていると言われるのは、子ども心にうれしかった。
父は死ぬほどいやで、似ていたくない。
母のような美人には金輪際なれないし、母はとても小柄だ。
(母は、私のことを「大きい」「大きい」と言い続けたので、私はつい最近まで自分に大柄な体格のイメージが張り付いていた(笑)、
いや、今でも、一人でいると、自分の「大きな体」を持て余している(笑)。)
萩尾望都の『イグアナの娘』が秀逸だと思うのは、そういう母娘のイメージ葛藤を見事に描いているからだ。
また、脱線しまくりのブログ(笑)。
そのお気に入りの祖父が9月に、
70歳にならずに亡くなったことから、
ますます、この季節、なんだか心細いのだ。
しかも、団体の活動が始まって、
またもや私が段取りのキーパーソンになっちまった。
去年も、それで苦労しまくって、一段落して倒れたので、
条件がそろっていそうで、こわいのだ。
7月中に700人を超える学生の成績をつけてしまったあと、
次に団体の活動へ。
もつかなぁ、私。
終活の時間を残しておいてくれよ、と、祈るような気持ち。
先日、ふと、本を読んでいて、「面白い」と感じた。
何十年と忘れていた本を読む喜びが、一瞬、よみがえった。
人との交流にエネルギーを多大に必要とする私のような者は、
忙しい仕事(それもコミュニケーション能力を問われるような)に従事すると、気持ちがずっと落ち着かない。
「落ち着きのない」人間になってしまっていた。
五感はひどく敏感だが、その敏感ささえ恥じて、怪しまれないように、
他の人と同じようにふるまう。
でも、仕事を終えてきて、
やっと自分の生きるペースを取り戻すのかもしれない。
じゃあ、もう少し、時間をくれよ、と、やっぱり思う。
家に逼塞しているのは、あんまりメンタルヘルスの上ではよろしくない。
もちろん、仲の良い人と同居しているような人は、
それなりに幸せなのかもしれないが、
病気持ちの独居老人は、気晴らしに出掛けることもしにくく、
鬱々としてしまう。
私などは、曲がりなりにも仕事をしているから、
とにかく、この日までに、これだけは、、、というような仕事をかかえて、
窮屈なような、やることがあってよかった、、、ような、
そんな感じ。
この、夏の季節になると、
去年の緊急搬送、緊急手術の恐ろしい記憶がまざまざとよみがえって、
さらには、緊急搬送されて緊急入院した4年前の記憶も同時に戻ってきて、
今年はあかんかも、、、と心細くなる。
毎夜、寝る前は、夜中に具合が悪くなったときのために、救急隊の人の手前、みっともなくない程度の寝間着を着る。
上下ばらばらのパジャマはなるべく避ける程度だけど。
昨年のホテルに宿泊したときは、あまりの苦痛に、
ホテルの浴衣の細帯を取って放り出したのを覚えている。
それで楽になるわけではないのだけど、あまりの苦痛に、いろんなことをやったうちの一つだ。
運ばれるときか、病院に着いたときか、誰かが、「帯は?」と言っているのが聞こえた。女性の声だったと思う。
その人かどうか、浴衣の前を合わせてくれていて、
ああ、はだけていたんだなとわかる。
「はじめから帯はしていなかった」と誰かが答えている。
私は説明する力がない。
麻酔で眠るまでの間、私が答えたのは、病状に関することだけ。
とにかく、必要事項には答えたのだ。
声を振り絞って、大腸がんの手術をしたことや水腎症のことや、
その後、猛烈な腹痛で緊急搬送されて入院したことも伝えた。
判断力は働いたわけだ。
外部の声は確実に聞こえていた。
しかし、反応する力が少なく、必要最小限の反応をしたのだと思う。
一度、あまりにも痛がる私に、
(ああいうとき、患者の反応がないと、聞こえていないと、医療関係者ですら思うものなのだろうか?)
真横の看護師の女性が、
大声を出して、私に言い聞かせようとしてきた。
「ちゃんとしないと、治らないのよ」とかなんとか、大声で何度か言った。
私の側では声は十分に聞こえていて、
しかも、痛くてたまらず、痛い痛いと叫んでいるので、
駄々をこねているわけではない。
だから、まるで説教するかのようなその看護師に
「うるさい!」と叫んだ。
痛みがごくたまに一瞬、緩和されるので、その瞬間に、
「あなたはうるさい」ともう一度言った。
それで、ぴたっとその人は黙った。
反応できない患者は聞こえていないと思い込む人が多いようだ。
昔、夫が鼻の手術をしたあと、
まだ眠っているように目を閉じていて、酸素マスクをしている状態だった。
看護師長が、盛んに耳元で大声を出す。
私には、聞こえているのではないかと思えて、あんな耳元で大声を出されたらいやなのではないかと思った。
が、こちらは素人、専門家に任せるしかない。
すると案の定、夫が顔をしかめ、
「大きな声を出さないでください」と言った。
反応を表現するという作業にはエネルギーが要る。
まだエネルギーが足りないので、何にでも応えるのは無理なのだ。
緊急でないことには、反応しないことになる。
緊急か、緊急でないかは、聞こえた段階で仕分けしている。
まあ、そんなこんなを連鎖的に思い出す日々だ。
毎朝、今日も生き延びたな、と思う。
祖父が亡くなったのは9月のはじめ。
69歳だった。
私は、よく祖父に似ていると言われていた。
結構二枚目で、すらっとしていた祖父に似ていると言われるのは、子ども心にうれしかった。
父は死ぬほどいやで、似ていたくない。
母のような美人には金輪際なれないし、母はとても小柄だ。
(母は、私のことを「大きい」「大きい」と言い続けたので、私はつい最近まで自分に大柄な体格のイメージが張り付いていた(笑)、
いや、今でも、一人でいると、自分の「大きな体」を持て余している(笑)。)
萩尾望都の『イグアナの娘』が秀逸だと思うのは、そういう母娘のイメージ葛藤を見事に描いているからだ。
また、脱線しまくりのブログ(笑)。
そのお気に入りの祖父が9月に、
70歳にならずに亡くなったことから、
ますます、この季節、なんだか心細いのだ。
しかも、団体の活動が始まって、
またもや私が段取りのキーパーソンになっちまった。
去年も、それで苦労しまくって、一段落して倒れたので、
条件がそろっていそうで、こわいのだ。
7月中に700人を超える学生の成績をつけてしまったあと、
次に団体の活動へ。
もつかなぁ、私。
終活の時間を残しておいてくれよ、と、祈るような気持ち。
先日、ふと、本を読んでいて、「面白い」と感じた。
何十年と忘れていた本を読む喜びが、一瞬、よみがえった。
人との交流にエネルギーを多大に必要とする私のような者は、
忙しい仕事(それもコミュニケーション能力を問われるような)に従事すると、気持ちがずっと落ち着かない。
「落ち着きのない」人間になってしまっていた。
五感はひどく敏感だが、その敏感ささえ恥じて、怪しまれないように、
他の人と同じようにふるまう。
でも、仕事を終えてきて、
やっと自分の生きるペースを取り戻すのかもしれない。
じゃあ、もう少し、時間をくれよ、と、やっぱり思う。
頭をかかえる ― 2020/07/25 23:28
学生のレポートを読んでいると、
ときどき、
日本語が「変」としか言いようのない文章に当たる。
文章が下手とか、そういうレベルではない。
下手くそなのは、だいぶん、見てきたが、
今年のニューフェース。
助詞、助動詞の使い方がおかしい。
読点がないので、どこで区切るのかわからない。
単語をとても適当につないだような、実に奇妙な文章。
何?
この文章。
意味わからん。
結局、否定しているのか、肯定しているのか、
妙にセンテンスが長くて、文末に行きつくころには、主旨がわからなくなってしまう。
あまりにも奇妙な日本語なので、
下手くそな翻訳ソフトを使ったような文章だと友人に話すと、
最近は、AIによる作文のソフトも開発されているようだ、とのこと。
もしそうなら、もうちょっと精度の高いソフトを使えよ、と思うような代物だ。
しかし、本当にそういうソフトがあるのなら、
試してみて、裏技を知りたい、という好奇心がわく。
参考図書を読んでレポートを書きなさい、という課題を出したとき、
ネット上の他人の文章のコピペが多いので、
見つけたら、「減点します」と警告した。
そうしたら、見事にそれはなくなった。
が、最近になって一つ、摘発(笑)。
簡単には見つけられない、検索エンジンの奥深くに潜っているような他人のブログの文章の言い回しを少し変えて、
レポートとして出してきていた。
その手間で、参考図書を読めばいいのに、と思うが。
しかし、もしAIで作文していたら、出所はわからない。
が、奇妙極まりない日本語が特徴だから、良い評価はできない。
その裏技の手法を突き止めてみたい。
今のところ、「未推敲のレポートを出すな」という警告はしているけれど。
ときどき、
日本語が「変」としか言いようのない文章に当たる。
文章が下手とか、そういうレベルではない。
下手くそなのは、だいぶん、見てきたが、
今年のニューフェース。
助詞、助動詞の使い方がおかしい。
読点がないので、どこで区切るのかわからない。
単語をとても適当につないだような、実に奇妙な文章。
何?
この文章。
意味わからん。
結局、否定しているのか、肯定しているのか、
妙にセンテンスが長くて、文末に行きつくころには、主旨がわからなくなってしまう。
あまりにも奇妙な日本語なので、
下手くそな翻訳ソフトを使ったような文章だと友人に話すと、
最近は、AIによる作文のソフトも開発されているようだ、とのこと。
もしそうなら、もうちょっと精度の高いソフトを使えよ、と思うような代物だ。
しかし、本当にそういうソフトがあるのなら、
試してみて、裏技を知りたい、という好奇心がわく。
参考図書を読んでレポートを書きなさい、という課題を出したとき、
ネット上の他人の文章のコピペが多いので、
見つけたら、「減点します」と警告した。
そうしたら、見事にそれはなくなった。
が、最近になって一つ、摘発(笑)。
簡単には見つけられない、検索エンジンの奥深くに潜っているような他人のブログの文章の言い回しを少し変えて、
レポートとして出してきていた。
その手間で、参考図書を読めばいいのに、と思うが。
しかし、もしAIで作文していたら、出所はわからない。
が、奇妙極まりない日本語が特徴だから、良い評価はできない。
その裏技の手法を突き止めてみたい。
今のところ、「未推敲のレポートを出すな」という警告はしているけれど。
正直、面白みのない日々である ― 2020/07/26 13:45
去年からチケットを買ってあったコンサートもすでに2回延期。
楽しみにしていたのに、つまんね。
でも、実際、「やります!」と言われたら、
ひるむかもしれないのも確か。
席は端っこで隣は通路、というのをとりあえず確認していた。
それでもコンサートホールは密だ。
最近の映画館は、結構、前後とのスペースを取ってあり、
隣の席を空けて座れば、あんまり窮屈ではないことが多い。
が、コンサートホールは、結構詰め込みタイプだ。
前後左右、余裕がない所が多い。
と言うか、ゆったり座れるコンサートホールを知らない。
まあ、あれだけのホールを維持するには、客を詰め込んで入れないと、
利益が上がらないのだろう。
海外からの有名なオーケストラなんか、私には手が出ない金額だ。
知人がやっているスナックも、月一回は行っていたが、
ただでさえ、エコノミー症候群になりそうなくらい、ぎゅう詰めだったので、足が遠のいていた。
この時期、絶対無理だ。
友人が卒業生を交えて焼肉に行く約束をしたとかで、
猛烈に後悔していた。
で、結局、やめにした。
高齢の母親と二人暮らしでは、結構ハイリスクかも。
この時期に、平気そうに見えるイベント主催者って、
どういう心理なのだろう。
自分だけは大丈夫と思っているのか(まぁ、比較的若くて丈夫な人は、あんまり危機感がないかもしれない)、
まめに集まっている。
私は、全部、不参加。
で、関わっている団体の会議も不参加表明をして、
メールで情報を提供して意見を書いて、
あとは、よしなに、と送っていたら、
会議報告で、
「次回はZOOMで開催します」と書いていた。
え、大丈夫? とびっくりして報告を読んでいたら、
「M吉さんと十分に相談検討して、実施します」とあった。
あ、私がやるのね(笑)
もう、どうなるやら。
こんな時代が来るとは、誰も予測していなかっただろう。
この時期、他の病気も危ない。
十分な医療を期待できないかもしれない。
ある人が、来月、骨だか筋肉だかの問題で、手術をする予定だと言っていたが、
いやな時期に手術となったものだと他人事ながら思う。
成績をつける、という力仕事があるが、
とにかく、これを乗り越えて、
心身に良いことをしなければ。
こんなにつまらない毎日だと、本当に、参りそうだ。
楽しみにしていたのに、つまんね。
でも、実際、「やります!」と言われたら、
ひるむかもしれないのも確か。
席は端っこで隣は通路、というのをとりあえず確認していた。
それでもコンサートホールは密だ。
最近の映画館は、結構、前後とのスペースを取ってあり、
隣の席を空けて座れば、あんまり窮屈ではないことが多い。
が、コンサートホールは、結構詰め込みタイプだ。
前後左右、余裕がない所が多い。
と言うか、ゆったり座れるコンサートホールを知らない。
まあ、あれだけのホールを維持するには、客を詰め込んで入れないと、
利益が上がらないのだろう。
海外からの有名なオーケストラなんか、私には手が出ない金額だ。
知人がやっているスナックも、月一回は行っていたが、
ただでさえ、エコノミー症候群になりそうなくらい、ぎゅう詰めだったので、足が遠のいていた。
この時期、絶対無理だ。
友人が卒業生を交えて焼肉に行く約束をしたとかで、
猛烈に後悔していた。
で、結局、やめにした。
高齢の母親と二人暮らしでは、結構ハイリスクかも。
この時期に、平気そうに見えるイベント主催者って、
どういう心理なのだろう。
自分だけは大丈夫と思っているのか(まぁ、比較的若くて丈夫な人は、あんまり危機感がないかもしれない)、
まめに集まっている。
私は、全部、不参加。
で、関わっている団体の会議も不参加表明をして、
メールで情報を提供して意見を書いて、
あとは、よしなに、と送っていたら、
会議報告で、
「次回はZOOMで開催します」と書いていた。
え、大丈夫? とびっくりして報告を読んでいたら、
「M吉さんと十分に相談検討して、実施します」とあった。
あ、私がやるのね(笑)
もう、どうなるやら。
こんな時代が来るとは、誰も予測していなかっただろう。
この時期、他の病気も危ない。
十分な医療を期待できないかもしれない。
ある人が、来月、骨だか筋肉だかの問題で、手術をする予定だと言っていたが、
いやな時期に手術となったものだと他人事ながら思う。
成績をつける、という力仕事があるが、
とにかく、これを乗り越えて、
心身に良いことをしなければ。
こんなにつまらない毎日だと、本当に、参りそうだ。
最近、笑った? ― 2020/07/26 16:40
確かに、面白みのない毎日だ。
が、たまに一人で爆笑することもある。
ネットで、「最近の大学生の日本語力がひどい」と嘆いている先生の書いているのを読んだ。
同感。
アンケートで、
「骨の折れる仕事は嫌だと思いますか?」という質問に、
「骨折する仕事なんか、嫌だと思うのは当然」という回答があったそうで、
私、一人爆笑。
ある大学は、日本語力の試験みたいなのがあって、
てっきり留学生向けだと思っていたら、
日本人学生も含め、全員が受験する試験だそうだ。
まあ、確かに、レポートを読んでいて、
どないせぇっちゅうねん! と、すっかり口が悪くなった独り言を言うことがあるくらい、ひどい日本語が跋扈している。
先ほど読んでいたレポートは、
危うい日本語なので、どこで破綻するのかとハラハラしながら読んでいたが、
「物議をかました」という表現で、大笑い。
これなんか、ミスタッチレベルの誤字かもしれないのだが、
もう、危機感いっぱいため込んでいたので、
笑い炸裂!
が、たまに一人で爆笑することもある。
ネットで、「最近の大学生の日本語力がひどい」と嘆いている先生の書いているのを読んだ。
同感。
アンケートで、
「骨の折れる仕事は嫌だと思いますか?」という質問に、
「骨折する仕事なんか、嫌だと思うのは当然」という回答があったそうで、
私、一人爆笑。
ある大学は、日本語力の試験みたいなのがあって、
てっきり留学生向けだと思っていたら、
日本人学生も含め、全員が受験する試験だそうだ。
まあ、確かに、レポートを読んでいて、
どないせぇっちゅうねん! と、すっかり口が悪くなった独り言を言うことがあるくらい、ひどい日本語が跋扈している。
先ほど読んでいたレポートは、
危うい日本語なので、どこで破綻するのかとハラハラしながら読んでいたが、
「物議をかました」という表現で、大笑い。
これなんか、ミスタッチレベルの誤字かもしれないのだが、
もう、危機感いっぱいため込んでいたので、
笑い炸裂!
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