運動するということ ― 2025/04/22 11:35
思想闘争は、いつの時代も厳しい。
労働闘争も、今や、弾圧を受けて、衰退の一途だ。
今の若い人は、労働者が自分の権利を守るために法で保障されている労働組合に参加して活動することなど、とてもじゃないが出来ないそうだ。
そもそも、学校でもあまり教えないような気がする。
労働三権については、教科書には記載されているだろうが、(ほんとか? 調べなければ、、、)、教員に、それを教える熱意がなければオミットされる。
学校を卒業すれば、やがて労働者として生きていくことになる生徒たちに、しっかり教えなければ、生徒たちは自分を守るすべを知らずに世の中に出ていくことになる。
昨今は、労働組合を、まるで反社会的組織のように喧伝するSNSの情報などが拡散され、それを鵜呑みにする人も多いだろう。
そうした、労働組合を貶めるSNSの書き込みは、労働組合を潰したい経営側に雇われた連中で、潰すのが目的だから、あの手この手の誹謗中傷を繰り広げる。
経営側は表に出ないで裏工作をしているので、表に出るのは争い好きの雇われている連中だ。
経営側に雇われているのは元暴力団だったりするような社会的対面など気にしない者たちなので、しかもそれで稼いでいる人たちだから、なりふりかまわない活動を展開する。
ただただ法的に認められた労働権を行使しようとするだけの組合はやられっぱなしになる。
少し前に、ようやく、
『労組と弾圧 ~関西生コン事件を考える~』というTBSのドキュメンタリー映画を見ることができた。
制作者も、制作に着手するのに時間がかかったことを吐露している。
ややこしい事件だからだ。
が、真相を暴けば、労働組合を疎んじた経営者たちの組合潰し、弱い者いじめだとよくわかる。
警察がなぜそこに加担したのか、そのからくりまで暴いてほしいが、そこはまだわかりにくい。が、今、不当拘束され、起訴されていた組合員の無罪判決が相次いでいるので、
日本にもまだ良心があるのだとホッとする。
組合が大きくなり力を持つようになったために、潰しにかかられたのは、フェミニズムが少数の尖った女性たちの運動に見えていた時は目こぼしされていたのに、法律ができて、主張できる女性が増えてくると、途端にバックラッシュが起こって、潰しにかかられたのと同じだ。
非力だった者が力を持ち始めると、支配権力は潰しにかかる。
非力だった者は、対等な位置を獲得して対話を求め、不当な不利益の改善を求めるだけの意図を持っているのだが、支配権力はそもそも「対等」なんか嫌いなのだ。
支配して従わせたいのだ。
だから、弱かった者が力を持ち始めると、何とか押さえ込もうとする構図は、ずっと繰り返されてきた。
労働問題もそうだし、
ジェンダー問題もそうだし、
抑圧されていた側が元気になると、その元気を奪い取ろうとする許しがたい連中がずっと権力を保持し続けるのをどうすればよいのか。
私の周りにも、
様々な抑圧があり、怒りがあり、
果ては、同じ側に居たはずの者だちの対立が、支配側の奸計によって作られて、弱い者同士で争いが起こる。
今は暴力的な一方的な弾圧だけでなく、思想の違いだけでなく、奸佞邪智が横行して、運動体内部が対立して弱体化してしまう時代だ。
厳しいね。生きるって、ほんとうに厳しいね。
労働闘争も、今や、弾圧を受けて、衰退の一途だ。
今の若い人は、労働者が自分の権利を守るために法で保障されている労働組合に参加して活動することなど、とてもじゃないが出来ないそうだ。
そもそも、学校でもあまり教えないような気がする。
労働三権については、教科書には記載されているだろうが、(ほんとか? 調べなければ、、、)、教員に、それを教える熱意がなければオミットされる。
学校を卒業すれば、やがて労働者として生きていくことになる生徒たちに、しっかり教えなければ、生徒たちは自分を守るすべを知らずに世の中に出ていくことになる。
昨今は、労働組合を、まるで反社会的組織のように喧伝するSNSの情報などが拡散され、それを鵜呑みにする人も多いだろう。
そうした、労働組合を貶めるSNSの書き込みは、労働組合を潰したい経営側に雇われた連中で、潰すのが目的だから、あの手この手の誹謗中傷を繰り広げる。
経営側は表に出ないで裏工作をしているので、表に出るのは争い好きの雇われている連中だ。
経営側に雇われているのは元暴力団だったりするような社会的対面など気にしない者たちなので、しかもそれで稼いでいる人たちだから、なりふりかまわない活動を展開する。
ただただ法的に認められた労働権を行使しようとするだけの組合はやられっぱなしになる。
少し前に、ようやく、
『労組と弾圧 ~関西生コン事件を考える~』というTBSのドキュメンタリー映画を見ることができた。
制作者も、制作に着手するのに時間がかかったことを吐露している。
ややこしい事件だからだ。
が、真相を暴けば、労働組合を疎んじた経営者たちの組合潰し、弱い者いじめだとよくわかる。
警察がなぜそこに加担したのか、そのからくりまで暴いてほしいが、そこはまだわかりにくい。が、今、不当拘束され、起訴されていた組合員の無罪判決が相次いでいるので、
日本にもまだ良心があるのだとホッとする。
組合が大きくなり力を持つようになったために、潰しにかかられたのは、フェミニズムが少数の尖った女性たちの運動に見えていた時は目こぼしされていたのに、法律ができて、主張できる女性が増えてくると、途端にバックラッシュが起こって、潰しにかかられたのと同じだ。
非力だった者が力を持ち始めると、支配権力は潰しにかかる。
非力だった者は、対等な位置を獲得して対話を求め、不当な不利益の改善を求めるだけの意図を持っているのだが、支配権力はそもそも「対等」なんか嫌いなのだ。
支配して従わせたいのだ。
だから、弱かった者が力を持ち始めると、何とか押さえ込もうとする構図は、ずっと繰り返されてきた。
労働問題もそうだし、
ジェンダー問題もそうだし、
抑圧されていた側が元気になると、その元気を奪い取ろうとする許しがたい連中がずっと権力を保持し続けるのをどうすればよいのか。
私の周りにも、
様々な抑圧があり、怒りがあり、
果ては、同じ側に居たはずの者だちの対立が、支配側の奸計によって作られて、弱い者同士で争いが起こる。
今は暴力的な一方的な弾圧だけでなく、思想の違いだけでなく、奸佞邪智が横行して、運動体内部が対立して弱体化してしまう時代だ。
厳しいね。生きるって、ほんとうに厳しいね。
時代は変わった・・・ ― 2025/02/13 11:03
仕事に求めるものを問われた若い人が、
「自分らしくいられない仕事はやりたくない」
「生きがいとならなければ仕事ではない」
などなど、、、。
最初、聞いたときは目眩がしそうだった。
仕事に生きがいを求める、とは?
自分らしくいられる仕事とは?
もちろん、そのような仕事に就けるのは幸せだ、と思う感覚はある。
大正生まれの私の父ですら、テレビで歌手の後ろで楽器を演奏する楽団の人々の楽しそうな顔が映ると、
「自分の好きなことを仕事にできるのはええなぁ」というようなことを言っていた。
私も「主婦」からスタートしたので、
夫が生活費を稼ぐ役割を担当していたから、
少しは選択の自由があったとは思う。
でも、仕事をしたかったので、何でもいいから働きたい、と思っていた時期があった。
が、子どもが小さくて田舎暮らしで、何の資格もない私がやれそうな仕事はなく、
面接に行っても、ことごとく採用されなかった。
何でもいいから働きたい、と切に思っていた。
それは、主婦という、最も自分に合わない役割(=仕事)をあてがわれて、もがいていたからなのだが。
やがて、仕事に就くようになった。
私がそれまで携わってきた様々な「活動」の延長上に仕事があった。
気がついたら、専門職として雇用されるようになっていた。
ある行政の施設で、専門職として働いていたとき、
主に子どもの手が離れた主婦の人たちが数人、アルバイトとして受付や事務作業のためにシフト雇用されていた。
そのうちの一人が、
「〇〇さんは、電話が苦手で、出られないんです」と私に訴えた。
私は、上司ではなく、専門職としてその人たちにアドバイスをする立場だったが、その人たちは、いろいろな困りごとを私に訴えてくるようになっていた。
が、事務や受付などを担当する働き手の、電話が苦手で出たくない、という訴えには、賛同できなかった。
人手が余っているわけではないその職場では、電話に出てもらわなくては困るのだ。
私は、ただ、
「仕事ですからねぇ」と答えた。
苦手だろうが何だろうが、それは給料に見合って期待される業務なのだ。
電話を受けて、判断したり決定したりはしない。
ただ、電話を受けて、決定権のある立場の人につなぐだけの仕事だ。
私にそれを訴えた人は、察しが良く、私の答えを聞いて、
なるほど、と言うように返してきた。
「私たち、甘えてましたね。仕事ですものね、、、」と。
長年、家族の世話だけをしてきて、社会関係は近所づきあいだけ、というような人たちは、お互いに許し合う関係に慣れていたりする。
そのモードを、職場に持ち込んでいたのだ。
私も、できるだけ、その職場を働きやすい職場にするように努力はしていた。
その人たちが、意欲的に仕事に取り組めるように工夫をしていた。
それは、ある程度、成功した面もあると自負している。
当時のその人たちは、私がいた時期のその職場は、仕事にやりがいを感じられて、とても楽しかったと、後々まで言ってくれていた。
それでも、私は、時間給で雇用されている彼女たちは、
雇用主に時間労働を提供して対価を得ているのだから、
想定内の業務であるかぎり得意でなくてもこなさなければならないとは思っていた。
仕事とはそういうものだと。
だからこそ、その人たちのモチベーションを上げるための工夫が要るのだと思っていた。
長年、「主婦」をしていた人たちの、潜在能力を引き出したい、それを見える形にしたい、という強い思いがあった。
当時、女性たちは、あまりにもその能力や適性を顧みられないで、安く買いたたかれていたので、そこを打破したいというのは、私の信念だった。
女性たちも、社会の評価を内面化しているところがあり、自分の能力を信じていなかった。
その彼女たちの能力の再評価、モチベーションの上昇を目指して、私もその自分の役割にやりがいを感じていた。
が、今は違うのだ。
女性たちは、今や、年寄りの手助けなどなくても、
自分の能力、適性をしっかり信じていて、(時には過信していて)、
自分らしくいられない仕事はやらない、と言う。
自分に合った仕事しかしない、と言う。
もちろん、私も仕事を選ぶとき、その思いはあった。
仕事に費やす時間は一日の大半であるので、
自分の適性とかけ離れた仕事では自分が疲弊するだけだろうと思い、
自分の性分、適性、思想に適合した仕事を選びたいと思ってはいた。
が、一方で、見込みとは違う仕事もあるもので、
仕事は身過ぎ世過ぎだと、割り切って続けようとしていたこともある。
辛抱とやりがいのバランスを取っているような感じだった。
だから、辛抱が続く人には、それが緩和されるように、
やりがいを感じている人はさらに力が発揮できるように、
できる手助けをしたかった。
が、
「仕事は、自分らしくいられるもの」と定義する人が増えた。
まあ、その発言の内容には、様々な意味合いが含まれているだろうから、
軽々に評価できないけれども、
そもそもの定義に、呆然とする私がいるのだ。
「なるべく、自分に合った仕事がしたい」というのと、
「自分らしくいられない仕事はやらない」というのとは、
違う気がする。
「自分らしくいられる」ことが当たり前になった現代、
もはや、私の感覚は古すぎるのだろう。
「自分らしさ」なんてワードが存在しなかった時代、
辛くなければめっけもの、
生き延びられれば幸運
だった時代の者の感覚は、もはやあまりにも前時代過ぎて、
通用しないのだろう。
しかし、こういう私の感覚が普通だった時代の考え方をすぐに放擲してはならないような気がする。
足下をすくわれる気がするのだ。
見せかけのパラダイスにだまされてはならない、と思ってしまうのだ。
「自分らしくいられない仕事はやりたくない」
「生きがいとならなければ仕事ではない」
などなど、、、。
最初、聞いたときは目眩がしそうだった。
仕事に生きがいを求める、とは?
自分らしくいられる仕事とは?
もちろん、そのような仕事に就けるのは幸せだ、と思う感覚はある。
大正生まれの私の父ですら、テレビで歌手の後ろで楽器を演奏する楽団の人々の楽しそうな顔が映ると、
「自分の好きなことを仕事にできるのはええなぁ」というようなことを言っていた。
私も「主婦」からスタートしたので、
夫が生活費を稼ぐ役割を担当していたから、
少しは選択の自由があったとは思う。
でも、仕事をしたかったので、何でもいいから働きたい、と思っていた時期があった。
が、子どもが小さくて田舎暮らしで、何の資格もない私がやれそうな仕事はなく、
面接に行っても、ことごとく採用されなかった。
何でもいいから働きたい、と切に思っていた。
それは、主婦という、最も自分に合わない役割(=仕事)をあてがわれて、もがいていたからなのだが。
やがて、仕事に就くようになった。
私がそれまで携わってきた様々な「活動」の延長上に仕事があった。
気がついたら、専門職として雇用されるようになっていた。
ある行政の施設で、専門職として働いていたとき、
主に子どもの手が離れた主婦の人たちが数人、アルバイトとして受付や事務作業のためにシフト雇用されていた。
そのうちの一人が、
「〇〇さんは、電話が苦手で、出られないんです」と私に訴えた。
私は、上司ではなく、専門職としてその人たちにアドバイスをする立場だったが、その人たちは、いろいろな困りごとを私に訴えてくるようになっていた。
が、事務や受付などを担当する働き手の、電話が苦手で出たくない、という訴えには、賛同できなかった。
人手が余っているわけではないその職場では、電話に出てもらわなくては困るのだ。
私は、ただ、
「仕事ですからねぇ」と答えた。
苦手だろうが何だろうが、それは給料に見合って期待される業務なのだ。
電話を受けて、判断したり決定したりはしない。
ただ、電話を受けて、決定権のある立場の人につなぐだけの仕事だ。
私にそれを訴えた人は、察しが良く、私の答えを聞いて、
なるほど、と言うように返してきた。
「私たち、甘えてましたね。仕事ですものね、、、」と。
長年、家族の世話だけをしてきて、社会関係は近所づきあいだけ、というような人たちは、お互いに許し合う関係に慣れていたりする。
そのモードを、職場に持ち込んでいたのだ。
私も、できるだけ、その職場を働きやすい職場にするように努力はしていた。
その人たちが、意欲的に仕事に取り組めるように工夫をしていた。
それは、ある程度、成功した面もあると自負している。
当時のその人たちは、私がいた時期のその職場は、仕事にやりがいを感じられて、とても楽しかったと、後々まで言ってくれていた。
それでも、私は、時間給で雇用されている彼女たちは、
雇用主に時間労働を提供して対価を得ているのだから、
想定内の業務であるかぎり得意でなくてもこなさなければならないとは思っていた。
仕事とはそういうものだと。
だからこそ、その人たちのモチベーションを上げるための工夫が要るのだと思っていた。
長年、「主婦」をしていた人たちの、潜在能力を引き出したい、それを見える形にしたい、という強い思いがあった。
当時、女性たちは、あまりにもその能力や適性を顧みられないで、安く買いたたかれていたので、そこを打破したいというのは、私の信念だった。
女性たちも、社会の評価を内面化しているところがあり、自分の能力を信じていなかった。
その彼女たちの能力の再評価、モチベーションの上昇を目指して、私もその自分の役割にやりがいを感じていた。
が、今は違うのだ。
女性たちは、今や、年寄りの手助けなどなくても、
自分の能力、適性をしっかり信じていて、(時には過信していて)、
自分らしくいられない仕事はやらない、と言う。
自分に合った仕事しかしない、と言う。
もちろん、私も仕事を選ぶとき、その思いはあった。
仕事に費やす時間は一日の大半であるので、
自分の適性とかけ離れた仕事では自分が疲弊するだけだろうと思い、
自分の性分、適性、思想に適合した仕事を選びたいと思ってはいた。
が、一方で、見込みとは違う仕事もあるもので、
仕事は身過ぎ世過ぎだと、割り切って続けようとしていたこともある。
辛抱とやりがいのバランスを取っているような感じだった。
だから、辛抱が続く人には、それが緩和されるように、
やりがいを感じている人はさらに力が発揮できるように、
できる手助けをしたかった。
が、
「仕事は、自分らしくいられるもの」と定義する人が増えた。
まあ、その発言の内容には、様々な意味合いが含まれているだろうから、
軽々に評価できないけれども、
そもそもの定義に、呆然とする私がいるのだ。
「なるべく、自分に合った仕事がしたい」というのと、
「自分らしくいられない仕事はやらない」というのとは、
違う気がする。
「自分らしくいられる」ことが当たり前になった現代、
もはや、私の感覚は古すぎるのだろう。
「自分らしさ」なんてワードが存在しなかった時代、
辛くなければめっけもの、
生き延びられれば幸運
だった時代の者の感覚は、もはやあまりにも前時代過ぎて、
通用しないのだろう。
しかし、こういう私の感覚が普通だった時代の考え方をすぐに放擲してはならないような気がする。
足下をすくわれる気がするのだ。
見せかけのパラダイスにだまされてはならない、と思ってしまうのだ。
年は年なり、、、か ― 2025/02/02 18:22
若い人にまじって、ボランティアを引き受けた。
が、説明の段階では、特に劣っているとは思わなかったが、
今日、やろうと思ったら、
手も足も出ない。
字幕修正のボランティアなのだが、
それ自体は問題なくできたと思うのだが、
そもそも、オンラインへの入り方がわからない。
昨日までの別のボランティアで疲れ果てているのもあるけれども、
(こっちはシニアが多いから、みんなボケボケなので、私の出番も多い。)
それだけでもないのだろう。
今日、当番に当たっていたのはわかっていたが、
直前に準備すればやれると思って、高をくくっていた。
が、そもそも、シフト表が読めないし、オンラインへの入り方がわからないし、何をどうすればいいのだ?
説明会では丁寧に、こちらのペースで教えてもらったが、
何だか、今となっては入り口から挫折。
若い人は、あんな説明だけで了解できて、
大丈夫なんだろうか?
とすれば、こちらは、全く置いてけぼりだったわけだ。
なんだか、イラついている。
が、説明の段階では、特に劣っているとは思わなかったが、
今日、やろうと思ったら、
手も足も出ない。
字幕修正のボランティアなのだが、
それ自体は問題なくできたと思うのだが、
そもそも、オンラインへの入り方がわからない。
昨日までの別のボランティアで疲れ果てているのもあるけれども、
(こっちはシニアが多いから、みんなボケボケなので、私の出番も多い。)
それだけでもないのだろう。
今日、当番に当たっていたのはわかっていたが、
直前に準備すればやれると思って、高をくくっていた。
が、そもそも、シフト表が読めないし、オンラインへの入り方がわからないし、何をどうすればいいのだ?
説明会では丁寧に、こちらのペースで教えてもらったが、
何だか、今となっては入り口から挫折。
若い人は、あんな説明だけで了解できて、
大丈夫なんだろうか?
とすれば、こちらは、全く置いてけぼりだったわけだ。
なんだか、イラついている。
寄ってたかって、、、 ― 2020/09/03 14:11
私は見たことがないのだが、
『半沢直樹』というドラマ(これがタイトルだっけ?)が人気があるそうだ。
組織の悪い奴らと闘うらしい、と想像している。
見る気がしないのは、
ドラマって、悪役がはっきりしていて、わかりやすい物が多いので、
「いいよねぇ~、そんなに悪い奴がはっきりわかるのなら、闘うべき相手がよく見えていいじゃないか」という、
私の拗ねた悲哀が増すような感じがするから。
よけい、気分が暗くなるような気がするから。
私の心をずたずたにした過去の出来事は、
(いや、心だけでなく、からだもズタボロになった)
そんなわかりやすい悪人はいない。
寄ってたかって嬲り殺された気分だ。
しかし、この「寄ってたかって」というのは、一人ずつは大罪を犯しているわけではないし、本人にも罪悪感はない。
私は、経験上、これほどたちの悪いものはないのではないかと思っている。
扇動した人はいるだろうが、それだって、「扇動」した意識はないだろう。
ひそかに誰かが、ある人についてネガティブなことをささやく、そして、それが現状に何か不足を感じている集団にじわりと広がる。
それが既定事実となり、ターゲットになった人が容赦なく攻撃を受ける。
集団の力動のこわさだ。
敵を定めるのは難しい。
以前、友人のFが、組織の中で、「小突き回された」と表現した。
私は、何が起こったかを見ている。
「小突き回した」一人は代表責任者で、Fの処遇について役員たちに相談したのだ。
Fは事務上の統括責任者だったが、小さい組織で、一人で回しているような状況だった。
Fは、お盆休みを取りたいということを言い、それについて就業規則にないのでどうしようかという相談をして来た。
すべて、メールでのやりとりだ。
役員たちは、
「有休を取る権利があるのは、当然でしょ」
「そんなことも、今まで放置してたのですか」
と、なかなか手厳しいメールを返してきた。
まるで、F自身に責任があるというように読めてしまう口調だ。
組織の代表責任者も、批判めいたメールをFに送っていた。
この組織は、NPOの経験のなかった人たちが立ち上げたものだ。
立ち上げから書類仕事一切合切を引き受けて、日々の事務も一人で回していたFは、たった一人有給の被雇用者だった。
滅私奉公というような働き方で、心身の疲労が目立っていた。
が、現場にいない役員たちは、無責任で口だけは偉そうだ。
それで、就業規則の不備を、あたかもFの責任のような口ぶりで偉そうなメールを書いてくる。
役員は、私も同様、設立の概要が決まってから請われて就任した者ばかりだから、設立当初の経緯は知らない。
代表責任者も、自分の責任とされるのは不本意だったせいか、Fを批判するようなメールを出したのだ。
Fの困惑に同情し、就業規則を読み直した。
すると、就業規則には、その責任者は、規則に定めていない事項について、代表者に判断を仰ぎ、実行すること、とあった。
なんだ、それだけの手続きだ。
Fはよほど、疲労困憊して、このことにも気づかなかったのか、
あるいは代表責任者に、お盆休みについてメールを出したとき、そのメール文を代表責任者が誤読したのか、、、。
もしくは、代表責任者が、一人で判断するのが負担で、他の役員に打診したのか。
とにかく、役員たちは、口々に批判めいたメールを送ってきたのだ。
まずい雰囲気になっていると思って、
「代表者に具申し、許可を得ればそれでよいと思います」と、
一言、私の方からメールを送ったら、それで止まった。
Fはあらためて、お盆休みを取りたいと代表責任者に申し出、代表責任者は許可を出した。
ただ、それだけのことだった。
役員たちもどうかとは思う。
プライベートタイムのおしゃべりとは違うのだから、ビジネスライクにやればいいのに、なぜか、ワイワイとうるさい。
その出来事を、Fは私と直に話をしたとき、「みなに小突き回された」と表現した。
わからなくはない。
Fにすれば、そうとしか言えない状況だったのだろう。
が、誰もFを小突いた意識はない。
書類上の不備を指摘しただけなのだ、、、。
私も一度、この組織で、全体の雰囲気がやばい方向に行きそうだったので、異なる意見を役員メールで投げたら、
やはり役員たちから、説教くさいメールが次から次に送られて来た。
もううんざりして、「わかりました」と、一言だけ、返事をしたことがある。
たった一言、「わかりました」だったので、
後で直接会った役員の一人が、
「あのメールで怒ってる?」と聞いてきた。
「まぁ、いやだったけど」と答えたら、
「深夜のメールはよくないね。つい、自分の意見に酔って演説口調になってしまう」と言った。
こういう会話が後でついてくると、一時の不快さはとりあえず解消される。
しかし、Fは、説教好きな役員たちからどんどん距離を置き、離れて行った。
こうなると、修復は難しい。
一人ずつのメールは、そんなにひどくないかもしれない。
まぁ、いささか手厳しい感じではあったが、
受け取った方が丈夫な時なら、立ち直れたかも。
が、心身ともに弱っているときにメールで諫められ、
しかも、複数の役員たちから矢継ぎ早に諫めるメールが送られてきたら、
小突き回された、としか思えなかったのだろう。
寄ってたかって、というのは罪悪感が薄いから、
やられた方のダメージは大きいが、
やった方は、無傷だったりする。
私にとって、痛手がまだ尾を引いているので、
まだこだわっていることだ。
どこかで、きちんと課題として出さなければと思っている。
なぜなら、明らかな「悪」はわかりやすいが、
加害者のいない被害は、ほんとうにわかりにくく、
リベンジするにも、どこで誰に向かえばいいのか。
回復の機会さえ得にくいのだ。
『半沢直樹』というドラマ(これがタイトルだっけ?)が人気があるそうだ。
組織の悪い奴らと闘うらしい、と想像している。
見る気がしないのは、
ドラマって、悪役がはっきりしていて、わかりやすい物が多いので、
「いいよねぇ~、そんなに悪い奴がはっきりわかるのなら、闘うべき相手がよく見えていいじゃないか」という、
私の拗ねた悲哀が増すような感じがするから。
よけい、気分が暗くなるような気がするから。
私の心をずたずたにした過去の出来事は、
(いや、心だけでなく、からだもズタボロになった)
そんなわかりやすい悪人はいない。
寄ってたかって嬲り殺された気分だ。
しかし、この「寄ってたかって」というのは、一人ずつは大罪を犯しているわけではないし、本人にも罪悪感はない。
私は、経験上、これほどたちの悪いものはないのではないかと思っている。
扇動した人はいるだろうが、それだって、「扇動」した意識はないだろう。
ひそかに誰かが、ある人についてネガティブなことをささやく、そして、それが現状に何か不足を感じている集団にじわりと広がる。
それが既定事実となり、ターゲットになった人が容赦なく攻撃を受ける。
集団の力動のこわさだ。
敵を定めるのは難しい。
以前、友人のFが、組織の中で、「小突き回された」と表現した。
私は、何が起こったかを見ている。
「小突き回した」一人は代表責任者で、Fの処遇について役員たちに相談したのだ。
Fは事務上の統括責任者だったが、小さい組織で、一人で回しているような状況だった。
Fは、お盆休みを取りたいということを言い、それについて就業規則にないのでどうしようかという相談をして来た。
すべて、メールでのやりとりだ。
役員たちは、
「有休を取る権利があるのは、当然でしょ」
「そんなことも、今まで放置してたのですか」
と、なかなか手厳しいメールを返してきた。
まるで、F自身に責任があるというように読めてしまう口調だ。
組織の代表責任者も、批判めいたメールをFに送っていた。
この組織は、NPOの経験のなかった人たちが立ち上げたものだ。
立ち上げから書類仕事一切合切を引き受けて、日々の事務も一人で回していたFは、たった一人有給の被雇用者だった。
滅私奉公というような働き方で、心身の疲労が目立っていた。
が、現場にいない役員たちは、無責任で口だけは偉そうだ。
それで、就業規則の不備を、あたかもFの責任のような口ぶりで偉そうなメールを書いてくる。
役員は、私も同様、設立の概要が決まってから請われて就任した者ばかりだから、設立当初の経緯は知らない。
代表責任者も、自分の責任とされるのは不本意だったせいか、Fを批判するようなメールを出したのだ。
Fの困惑に同情し、就業規則を読み直した。
すると、就業規則には、その責任者は、規則に定めていない事項について、代表者に判断を仰ぎ、実行すること、とあった。
なんだ、それだけの手続きだ。
Fはよほど、疲労困憊して、このことにも気づかなかったのか、
あるいは代表責任者に、お盆休みについてメールを出したとき、そのメール文を代表責任者が誤読したのか、、、。
もしくは、代表責任者が、一人で判断するのが負担で、他の役員に打診したのか。
とにかく、役員たちは、口々に批判めいたメールを送ってきたのだ。
まずい雰囲気になっていると思って、
「代表者に具申し、許可を得ればそれでよいと思います」と、
一言、私の方からメールを送ったら、それで止まった。
Fはあらためて、お盆休みを取りたいと代表責任者に申し出、代表責任者は許可を出した。
ただ、それだけのことだった。
役員たちもどうかとは思う。
プライベートタイムのおしゃべりとは違うのだから、ビジネスライクにやればいいのに、なぜか、ワイワイとうるさい。
その出来事を、Fは私と直に話をしたとき、「みなに小突き回された」と表現した。
わからなくはない。
Fにすれば、そうとしか言えない状況だったのだろう。
が、誰もFを小突いた意識はない。
書類上の不備を指摘しただけなのだ、、、。
私も一度、この組織で、全体の雰囲気がやばい方向に行きそうだったので、異なる意見を役員メールで投げたら、
やはり役員たちから、説教くさいメールが次から次に送られて来た。
もううんざりして、「わかりました」と、一言だけ、返事をしたことがある。
たった一言、「わかりました」だったので、
後で直接会った役員の一人が、
「あのメールで怒ってる?」と聞いてきた。
「まぁ、いやだったけど」と答えたら、
「深夜のメールはよくないね。つい、自分の意見に酔って演説口調になってしまう」と言った。
こういう会話が後でついてくると、一時の不快さはとりあえず解消される。
しかし、Fは、説教好きな役員たちからどんどん距離を置き、離れて行った。
こうなると、修復は難しい。
一人ずつのメールは、そんなにひどくないかもしれない。
まぁ、いささか手厳しい感じではあったが、
受け取った方が丈夫な時なら、立ち直れたかも。
が、心身ともに弱っているときにメールで諫められ、
しかも、複数の役員たちから矢継ぎ早に諫めるメールが送られてきたら、
小突き回された、としか思えなかったのだろう。
寄ってたかって、というのは罪悪感が薄いから、
やられた方のダメージは大きいが、
やった方は、無傷だったりする。
私にとって、痛手がまだ尾を引いているので、
まだこだわっていることだ。
どこかで、きちんと課題として出さなければと思っている。
なぜなら、明らかな「悪」はわかりやすいが、
加害者のいない被害は、ほんとうにわかりにくく、
リベンジするにも、どこで誰に向かえばいいのか。
回復の機会さえ得にくいのだ。
成績つけ ― 2020/07/28 22:53
毎年、この時期になると、愚痴っている。
賽の河原の石積みか、シーシュポスの神話か、
採点してもしても終わらないレポート。
疲れ果ててしまう。
この人数、無理でっせ。
レポートの締め切りを設定しようと、
成績登録の期限はいつですか? と事務局に質問をかけたのは、
ずいぶん前だ。
事務局は、「すみません、まだ決まっておりません」と言ってきた。
で、だいたいこの見当か、、、と締め切りを決めて、
学生に告知したら、
ずっと後になって大学から言ってきた成績登録の日限は、私のレポート締め切りよりはるかに前だった。
今更、変えられるかい!
ただでさえ、オンラインで、何度も何度も、学生に資料や連絡事項や注意事項を配信している。
読み落とす学生も、当然出てくる。
もう、やだ!
上手なレポートは読んでてうれしいけど、そういうのは少数。
溜息つきながら、疲れ果ててやってる。
生き延びられるかなぁ。
この仕事、賃金に見合ってるんだろうか。
私の友人が昔、私が管理職となってえらい目にあった職場に、
非常勤の管理職として行っているらしい。
私と同い年。
いいなあ、まだ仕事があるんだなぁ。
仕事はしたいが、私が今やってるのは、落命しかねないくらい大変だ。
自分が設定した課題だけど、
まさかこんなに大人数とは思わないからね。
丁寧にやりたかったのだ。
賽の河原の石積みか、シーシュポスの神話か、
採点してもしても終わらないレポート。
疲れ果ててしまう。
この人数、無理でっせ。
レポートの締め切りを設定しようと、
成績登録の期限はいつですか? と事務局に質問をかけたのは、
ずいぶん前だ。
事務局は、「すみません、まだ決まっておりません」と言ってきた。
で、だいたいこの見当か、、、と締め切りを決めて、
学生に告知したら、
ずっと後になって大学から言ってきた成績登録の日限は、私のレポート締め切りよりはるかに前だった。
今更、変えられるかい!
ただでさえ、オンラインで、何度も何度も、学生に資料や連絡事項や注意事項を配信している。
読み落とす学生も、当然出てくる。
もう、やだ!
上手なレポートは読んでてうれしいけど、そういうのは少数。
溜息つきながら、疲れ果ててやってる。
生き延びられるかなぁ。
この仕事、賃金に見合ってるんだろうか。
私の友人が昔、私が管理職となってえらい目にあった職場に、
非常勤の管理職として行っているらしい。
私と同い年。
いいなあ、まだ仕事があるんだなぁ。
仕事はしたいが、私が今やってるのは、落命しかねないくらい大変だ。
自分が設定した課題だけど、
まさかこんなに大人数とは思わないからね。
丁寧にやりたかったのだ。
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