お正月とか連休とか、、、2025/05/03 11:10

世間が休みをうれしそうに語る頃、
私はいつも深い深い絶望と孤独にはまる。

まだ、ものすごく若い頃、
アメリカから来ている英語教師から、
日本に来ている外国人が、お正月に自殺する人が多い、という話を聞いて、ショックを受けたことがずっと尾を引いている。
旅行者は別として、一人で日本に住んでいる外国人は、
正月など、仕事が一斉に休みになり、
友人知己は家族で過ごす期間になり、
ひとりぼっちになる。
そのとき、絶望的な孤独感に苛まれるのだと言っていた。

海外ドラマで見るような、友人も招いてファミリーパーティを開く習慣がない日本では、
家族、あるいは親族で集まる時期である。
「赤の他人」は混じらない。

「家族水入らず」という言葉は、日本独特の表現かもしれない。
英語だと、family-only time のような、普通のワードを組み合わせた表現しかないような気がする。
独特の意味内容を持つ言葉は存在しないように思う。
独特のワードを持つのは、それが特別な意味内容を持つ概念だからだ。

そして、この「家族水入らず」の習慣が、日本で一人で暮らす外国人を絶望的な孤独に突き落とすのだ。

そして、実は、今、私がそういう状態だ。
日本人で、家族が日本国内にいても、
遠方に住んでいたり、あまり会わない関係であれば、
ひとりぼっちになってしまう。

かねてから、「団欒ネットワーク」などと称して、そうした孤独な一人暮らしの人同士がつながるイベントをやりたいと考えてきたが、場所がうまく見つからない、という具体的な事情で、実現できずにいた。
自分の住まいを提供すればいいのだろうけど、
それだと、あまり親しくない人や、誰でもどうぞ、と言うのは、ばーさんの一人暮らしにはリスキーかなと思う。

この、ファミリー中心主義の社会の中で、
一人暮らしの寂しさをかかえる人とつながり、助け合えるにはどうしたらよいのだろうか。

長年の悩み。
今日もこのゴールデンウィークの真ん中で、一人ぽつんと途方に暮れている。

教会のミサ2025/01/03 11:52


昨年、そろそろダウンコートを着る季節になった頃、
わけあって、佐世保にいた。

宿泊しているホテルの近くに荘厳な目立つ外観の教会があって、
有名な観光スポットになっているらしい。
で、行ってみたら、受付の人に、
「ミサをやっているので終わりまで待ってください」と言われた。
ガラス越しに見ることはできるというので、見せてもらうことにした。
入り口の前で寒いのでコートを着たまま、靴だけを脱いで、
受付の人の後ろで中を見ていた。
司祭の声は、スピーカーで、外まで聞こえるようになっている。
で、聞いていた。
イエス・キリストの受難の話など、知らないわけではない話題が織り込まれて、話をされている。
司祭さんというのは、イケボであるのも適性の一つかなと思いながら、
話に聞き入っていた。
で、そのうち動けなくなってしまった。
わけがわからないが、涙がこみ上げてきた。
涙ボロボロになってしまった。

キリストの受難に遭遇した、救われたかった多くの人たちが、
無力なまま、祈る以外に道はなかったろうと思った。
今もそうなのだ。
多くの困難は自分で打開できない。
打開する力が自分にはない。
祈る以外に、念じる以外に、
力を持たない者は何をできるのか。

生きながらえるなら、祈るだけだ。

そんなことをぼんやり考えていて、涙ボロボロになってしまった。
いや、もっと様々なことが心に去来したはずだが、
そのときは、浮世を離れた心地になってしまった。
非日常の気分が訪れることがたまにあるが、そういう経験だ。

観光客だから早々に立ち去るだろうと思われていたのかもしれない。
受付の女性が、
「長くいてくださってありがとうございます」と言って、中に誘ってくれた。
何という儀式かわからないが、
司祭さんの前に行くと、何かを振りかけてくれて、祈りの言葉をかけてくれた。

私を揺さぶったのは、たぶん、キリストに助けを求めた人々と、今も変わらぬ苦悩の絆だ。
私たちは苦悩でつながっている。
そこに絆がある。
それに心を揺さぶられていたのかもしれない。
信じられるものは、悲しみや苦しみの感情だけ、だと。

非日常の経験をして、
ミサの後、事務連絡が始まったので、
それは、私の見知っている団体の集会の後と同じなので、
受付の人にお礼を言って、教会を後にした。

辛抱する力が弱ってきた2024/10/20 08:56

関わっている団体の機関誌の印刷当日。
6~7人が参加して、公共施設の印刷機を使う。

私は今回、機関誌作成には特に役割がない。
が、みなさん、いろいろご多忙そうで、
当日の朝まで、版下の修正などのやり取り。

ある記事のノンブルが間違っていた。
指摘された編集担当の人が、PDFになった原稿を修正できない。
で、その記事を書いた当人がノンブルを修正して送ってきた。
が、その送られてきたPDF原稿のレイアウトがずれていた。
その当人も超忙しい人。
たぶん、ノンブルを変えて送信した後、すぐに他の仕事にかかったのだろう。

初め、何かと自分に自信のない私は、自分のパソコンに入っているPDFのソフトがおかしいのか、とか思っていた。
しばらくすると、他の人が、レイアウトがずれている、とメールを送ってきた。
あ、やっぱり、ずれているよな、とようやくわかって、
原稿のノンブルを修正して、メールで印刷に携わる人たちに添付で送った。
が、誰も反応しない。
実は、印刷の時間が迫っている。
遠方の人は、早めの時間に家を出る。
ここは、印刷場所に一番近い私がプリントアウトして持って行くよりほかはないな、と、今回役割はなかったが、何とか一つくらい仕事をやれそうだと、プリントアウトにかかった。

ところが、プリントアウトができない。
何度も試してみて、プリンターが給紙しなくなったとわかった。
で、給紙ローラーを清掃するように、とプリンターの液晶画面にメッセージが出た。
そこで、取説を出してきて、やり方を調べようとしたが、
その方法は、オンラインのユーザーズガイドを参照するように、とのこと。
最近の製品は、薄っぺらい紙の取説しかなく、オンラインで少し詳しく書いている、という感じだ。
その時点で、私自身もそろそろ家を出た方が良い時間になってきた。

そこで辛抱が切れた。
もともと、使いにくい製品。
ええかげんにせえよー、と切れた。
もう、このプリンターは捨てる!
と決めて、アマゾンで、以前使っていた、使い勝手の良かったメーカーのプリンターを注文。
年金が上がらないのに物価高で参っている昨今、こんな物まで購入しないといけないなんて、と思いながら、
もう、プリンターなんか使わない生活に変えようか、とか、
もう、パソコンライフがそもそも無理なんだ、とか、
ああだこうだと思いながら、
結局、エイっと注文。

で、注文してから、と言うか、注文して新しいプリンターが後日届くとわかって、心が落ち着いて、
オンラインのガイドを確認することにした。
で、調べたら、至極かんたんな作業。
ん? こんなことで直るのか?
とりあえず、書かれている通り、用紙トレイをはずし、
奥の方にあるローラーを水で固く絞ったダスターで拭き拭き。
それで、再度用紙トレイを挿し込んで、
印刷操作をしたら、
あら! 給紙されてるわ!

で、無事にプリントアウトされて、件の原稿が出てきた。

なんだ、復活したんだ!
で、今度は急いで、新しいプリンターの注文をキャンセル。
とりあえず、助かった。

で、そのプリントアウトした版下原稿は、ちゃんと印刷に使われたので、ようやく貢献できたわけだ。

それにしても、辛抱が足りないな。
いや、そもそも今のプリンターの購入の仕方が、辛抱が切れた結果だった。、
まだ以前のプリンターを使っていた3年前の年末、年賀状を作っていて、突然、プリンターのカラーが出なくなり、
パニくって、通販で新しいプリンターを購入した。
プリンターは、大みそかに届いた。
でも、初めて使うメーカーのプリンターなので、使い勝手がわからない。
でも、もうすぐ年が明けるし、急いでいる。
結局、その前から使っているプリンターでモノクロ印刷をして、赤で花押に見立てたスタンプを押して、結構いいのができた。(と自分では思っている。)
で、そのプリンターは家のリフォームの時、捨てたのだが、ひょっとしたら、あれも落ち着いて、取説を見て不具合を調整したらカラー印刷ができたかも、と思う。
とても使い勝手がよかったし、印刷もきれいだったし、まだ捨てるべきものではなかったかもしれない。

たまに、こういう短気なことをやるんだよなぁ。

年金暮らしの工夫という描写2024/09/27 09:31

高齢者が、低年金の中を工夫して暮らしている様子が、よく報道される。
youtubeなどでもなかなか人気のある動画があったりする。

確かに、私も参考にさせてもらおうと、そういうのをちょくちょく見る。
が、いくつも見ている間に、だんだん飽きてきた。
低年金でも、工夫してやりくりしている高齢女性は、多くが、手作業、手仕事を厭わない。
手の込んだ料理を作る様子を撮影していたり、
裁縫仕事をして、古い服をリフォームしたり、きめ細かに暮らしを楽しんでいる様子が映し出される。

いや、参考にしたいよ、私も。
持っている物で上手に楽しんで生きていきたい。
が、料理はなるべく楽に済ませたい。最近、外食をしないので、キッチンに立つことは増えたが、それでもできる限り、手間を省きたい。
手間をかける趣味がない。
裁縫は、出来上がりや色合いの工夫には心惹かれるけど、作る作業に興味がわかない。

年金生活者は、手作りが趣味の人ばかりではない。そういう器用さもなければ趣味もない。
高齢者になったからと言って、急に手作り派にはなれない。

この手の描出、印象付けがあほらしくなってきた。
そんなことで、低年金に甘んじるより、
若い時から非正規の低賃金で苦労してきた女性に、
さらに信じられないような低年金(人によっては無年金)の境遇を押し付けて、いったい何のペナルティだよ、と怒りがわく。
せめて老後は、平等な年金をバランスよく分配してよ。

最終、そういう平等年金に帰結するなら、がんばって働かない、という現職世代の人は、質の悪い労働者だ。
労働への意欲、労働の意味を理解しない、不良労働者だ。

ま、こんなことを言っても、既存の秩序を守りたい保守が多いからな。
自民党支持者の大半が高齢の男性だそうだ。
自分たちにとって都合の良い社会を維持したいという、
了見の狭いおっさんらが、この不平等社会を支えている。

そして、そのおっさんらに気に入られる女もいる。
不平等や、辛酸をなめている人たちを平気で見捨てる女。
そのエゴイスト集団をどうしたら、駆逐できるのだろう。

朝から、自民党総裁選の報道を見て、
イライラしている。

賑やかな不幸と秘められた不幸2024/06/29 11:00

単なるイメージ、感想だけど。

女性たちが、いろいろ鬱屈していたのは事実と思う。
それをどれほど、意識化していたかはわからない。
人によって、それを違う方面で発散していた人もいるだろうし、
なけなしの財布の中身のように自分の不幸感にしがみついていた人もいるだろう。

家族のいた人は、不満たらたら、周りに垂れ流していた人も多いのではないかと思う。
だから、不機嫌をあたりにまき散らし、
そのとばっちりを受けていた子どもたちは災難だった。

一方、家族を持たない人もいた。
私の同世代で、早くに亡くなった人たちは、
多くは、家族を持たず、自分で口に糊する生活を送っていた。
朝、起きてひとり、夜、寝るときも一人、
八つ当たりしようにも誰もいない。
不機嫌は内向して、鬱屈していたのかもしれない。

「孤独」というものは、良いものではない。
人の気配は、生活に必要なものだ。
私などは、マンションの管理人室が休みで、清掃の人もいない日曜日や祝日は、世界に自分は一人ぼっちになってしまった感じがする。
苦しくて、生きているのもつらくなる。
が、今は、月曜になると、管理人さんの業務が再開され、清掃の人も動いているのがわかる。
ベランダで洗濯物を干していると、清掃の人がマンションの裏庭を掃いていたりする。
そして、ようやく、生き延びた自分を実感する。

生きるためには、何かしらの他人が必要なのは、
人間が、ネットワークする生き物だからだろう。
共通の言語を持って、個体間の情報を送り合うことが可能なのは、
それが生存のメカニズムの一環だからだろう。
単独で生きる生物は、おそらく、送り合うシグナルを持たない。
それなしで、生き延びられる生体システムなのだろう。

だから、ネットワークは、人間の生体システムの一つで、
あった方が好ましい、とかそのようなレベルの問題ではないような気がする。
生き延びるには必要不可欠なのだろうと思う。

それが、今、人為的に失われつつあるのだ。
私が窒息しそうなのはそのせいだろう。
何とかしよう、と思いながら、
ネットワークゆえの副産物であるしがらみのしんどさも味わって来ているから、何も次の手立てができない。

話を戻す。
一人ぼっちの人は、己の不幸を自分の中にため込む。
吐き出す相手がいない。
もちろん、何らかの解消法は探している。
で、実践している。
しかし、その不幸感は、発散されずに、じわじわと自分自身を侵食している気がする。
そして、限界にきたとき、生命力も失う。
「孤独死」というものはそういうものではないかと思う。