負け癖、こらえ癖2021/04/16 10:48

子どもの頃、よく親から、「我が強い」と言われていた。
そういう親こそ、我が強いのだけど。

父は、「わしは頑固や」と威張っていた。
でも、女の子どもは、「我が強い」と、許されない。

そんなこんなで、悔しいけれど、
泣き寝入りをする子ども時代だった。

で、今、
やっぱり、泣き寝入りは多い。
自分の言い分を通す人は、たいてい、社会的身分の高い人だ。
地位も身分もない者は、言われっぱなしでその場をやり過ごす。

ある団体のある長、
社会的に有名人だ。
超有名な女性だ、
その人が、あるポータルサイトの使い方を少々間違っていた。
間違っているから、うまくいかなかったのだが、
それをポータルサイトの作りのせいにしている。
で、「こうすれば?」と、お伝えする。
それまでは、自分が間違っている、とはつゆほども思っていなかったのだけど、
ようやく、わかってくれた。
それでも、あなただけが独特で、それ以外の人は、すべて同じだから
揃えたらどうか? と言ってきた。

オイオイ、どうしたら、「すべて」なんて言えるのだ。
ちょっと、確認すれば、私と同じやり方の人は結構いるじゃないか。

しかし、もはや、
「すべてではありません」と言う気は起きない。
へえこらして、事を済ます方が、何かと平和に終われる。
あんなすごい権力のある人にたてつく度胸はない。
女性で、あそこまで登って行った、というだけで、すごいことだし、
小さな間違いは帳消しだ。

でも、私の心に刺さったトゲは抜けないけどね。

別のある有名人が、講演の中で、「負け癖」から抜け出そうと言っていた。
その人は、いつもいいことを言う。
そうだよね、
私たち、地べたを這う者は、負け癖がついてしまっている。
こらえ癖が習い性になっている。
いや、この私が、地べたを這う、なんて、言うべきではないだろう。
もっと、この社会の辛酸を舐めている人たちから、呆れられるだろう。
なけなしのお金をカンパして、生活を維持する算段をするのが私にできる精一杯のこと。

しかし、それでも、
この負け癖、こらえ癖のメンタリティが、
人間の活力の総量を、権力のある人の1割ほどにも低減させ、
がんばる意欲を削ぎ落している事実を、
言わねばならない。

つい最近、パワハラに遭って転職した友達が、
ものすごく、元気をなくしていた。
いつも通りにふるまっていても、
その人のバイタリティが吸い取られてしまったのは、よくわかる。
メンタルな活力は、なかなか測れない。
血圧を測るようには測れない。
それは、言わねばならない重大事なのだ。

虐待を受けて成人した人が、
一定以上は頑張れないように、
歯を食いしばっても生き続けるのに精いっぱいであるように、
メンタルがやられると、
生活の質全般が落ちる。
権力のあるやつは、そうした精神力も含めての能力、適応力であることを知るべきだが、
奴らは決して知ることはない。
知る必要がないから。

生きている間に、
このことを告発しないといけないのだが。
いつまでにやれるか。
この、バイタリティの減ってしまっている身で。

自分だったら、もっとうまくやれると思う症候群2021/04/19 13:26

なんか、不愉快な気分が残っているとき、
つらつら思い出してみると、
相手にそういう気分が垣間見えたときだったりする。

他人の失敗は、
自分ならもっとうまくできる、と思わせる何かがあるらしい。
つまり、他人の失敗は、
その人の能力、適性、ふるまい方等に原因があると思うらしい。

実は、これは、めちゃくちゃ不遜な思い上がりだ。

昔、ある会社(中規模の志の高い起業)の内部が、
不具合だらけだった。
従業員は文句ばっかりで、
でも、その志の良さに、働き甲斐も感じていて、
次から次へと辞める人がいれば、代わりに入ってくる人もいる。
私は、そこで、自分ならもっとうまくやれる、なんて、思ったことは、
つゆほどもない。
しかし、それは経営が見えていない自分にできるようなことではないと、思っていたからだ。
そして、経営側にいた人たちは、経営者のまずいところがよく見えていたりする。
で、思ったらしい。
「自分ならもっとうまくやれる」と。

これは、ほとんど錯覚だ。

うまくいくケースがあるとすれば、それはたまたまだ。
何かでラッキーだっただけだ。

案の定、その会社を退社して、
似たような起業をした人は、
全員といっていいほど、ことごとく失敗している。

それでも、この症候群は後を絶たない。
蔓延している。
だから、批判できるのだろう。
よくそこまでやったね、ではなく、
自分なら、もっとうまくやれる、と思うから、
批判し続けるのだろう。

やれやれ~。
不愉快なことを思い出しちまった!

ちょっといい話2021/04/21 19:40

3月の末に、疲れ果てたイベントの後、
手伝ってくれた友人と晩御飯を食べに入った居酒屋さん。
もともとメインはお寿司屋さんだったのかもしれないが、
とにかく、比較的おいしくて、まあ、常道を守っている店だ。
結構、昔からある近所の店。

たまにしか行かないが、
以前、知っていた大将みたいな人ではなく、
若手が接客をしていた。

で、なかなか今どきの接客上手の若者と見えていた。

その日、私は疲労困憊していたので、
久しぶりにビールを飲んで、ホッとしていた。
で、メニューを見るために出した老眼鏡を置き忘れたらしい。
数日してから、気づいた。
あれ? いつからないんだろう、あの眼鏡。
いくつか、予備があるので、あんまり真剣に探さなかったが、
いよいよ本当に失くしたみたいだと思うと、結構、悲しい。
気に入っていたから。

一緒にその店に行った友人に、
眼鏡を失くした話をしたら、
「店に聞いてみれば?」と言う。
しかし、もう、何日も経っているし、
あの店に忘れたとしても、
「とっくに紙でつかんでゴミ箱にポイと思うよ」と私は言っていた。
そして、新しい眼鏡をあつらえた。
友人は、店に聞いてみた? と何度も言うのだけど、
「ないに決まっている」と私は聞いてみる気も起きなかった。

眼鏡を失くした上に、迷惑そうにけんもほろろの対応をされたら、
落ち込んでしまう。
絶対、そんな経験は、増やしたくない。
私はただでさえ、傷ついて生きてきたのだ。

すると、友人が電話をしてくれたそうなのだ。
そして、私の眼鏡(実は、ユニークな特徴のある眼鏡)らしきものが、
届いている、との返事があったそうだ。
「え? 置いているの?」と、そこで私はびっくり。
コロナのこの時期、客が忘れた眼鏡なんか、誰が置いといてくれるだろう。
紙でつかんで、ゴキブリみたいにポイされると思い込んでいた。

で、友人が電話で聞いてくれた後、さらに二日後の今日、
店を訪ねたら、
丁度、昼休みの書き入れ時を終えたらしい感じで、
例の若者が店の前で何か用事をしていた。
私が声をかけると、
「お一人様ですか?」と聞くので、
「いえ、お忙しいのに、ごめんなさい」と、電話をしたものだと名乗ったら、
即座に私の名前を言い、すぐにナイロン袋(食べ物屋さんらしい食品保存用の真新しい袋)に入れた眼鏡を渡してくれた。
紛れもなく、私の眼鏡。

おー!
こんなに親切に対応?
知らなかった。人がこんなに親切だなんて。
(どんなにひどい目に遭ってきたのだ!という感じだけど。)

世の中も捨てたもんじゃない、と感激。
洋菓子屋さんで、とりあえず、クッキーの手土産を買って行って、よかった!

なんか、わからないけど、
まだ、ひどい目に遭ったいろいろなトラウマが消えたわけではないけど、優しい人もいるのだと思って、うれしかった話だ。

道を歩いても、おっさんはひどいのが多い。
ぶつかりそうになっても、1ミリも道を譲る気配もない。
こちらのからだのよけ方が甘いと、すごい勢いでなぎ倒される感じ。

こちらが年よりの女だと見ると、
優しく丁寧になる人と、容赦ない人に分かれるような気がする。
総じて、年配の男がひどい。

ひどい扱いばかり受けて来て、
優しくされ慣れないので、今更のように、世の中を見直した感じ。
そして、世の中をまだちゃんと信じている友人にも感謝、かな。