母のイメージ ― 2018/07/15 10:48
幼い頃から、母から、
「我が強い」と言われてきた。
これは、「頑固」について書いたことがあるように、
母は、私を自分の思う方向に方向づけたくても、うまくいかないから、
「この子は我が強い」という実感を持ち、
そういうネガティブな言葉で、私を罵ったのだと思う。
母自身が、母親役割に興味がなく、これといった熱意もスキルも持たないから、
自分が自然にふるまっていれば、
自然に自分の思うようになる子どもしかイメージできなかったのだろう。
母は、人形遊びが大好きな少女時代を送ったそうで、
しみじみ、つぶやくように言っていたことがある。
「私は子どもの頃、端切れで人形の服を作ったりして遊んでたけど、
あんはそういうことをせえへんねんなぁ」と。
これは怒るでもなく喜ぶでもなくつぶやくように言っていたから、
ただただ自分とは違うなぁと、思ったのだろう。
母自身が一人っ子なので、人間の多様性などを知らず知らず学んでいく、という機会を持たなかったようだ。
複数の子どもを持つと、
同じ親から生まれても、子どもはそれぞれ違うのだということを学ぶのだろうが、
自分も子どもも一人っ子、という環境では、母はそういうことは学べなかったのだろう。
まぁ、学ぶ気もなかったかもしれないけれど。
興味はなかったと思う。
一人で人形遊びをしている少女のイメージのまま、年を取り、
生涯を終えたような感じだ。
その分、かわいらしかった。
そのかわいらしさが、私はものすごく好きだったので、
晩年、幼女のようにかわいらしくなっていく母が、
愛しくて切なかった。
母宅を片づけた時、日記を見つけたので、
ちょっとだけ読んでみた。
70歳代半ばの頃の一時期だ。
あらためて、母のことを思い返す。
少女のようだった、というのは確かだが、
それでも生活者としてがんばっていた。
賢い少女、、、そういう感じだな、やっぱり。
自己チューで、他人のことにまで想像力を働かせるキャパはない。
しかし、賢い少女だから、如才なくふるまうことはできる。
夫の病気と仕事で精いっぱいの私を頼れないから、
自分でがんばろうと、自分に言い聞かせている。
こじんまりとした思考で、身の回りのことを処理しながら、
きちんと頑張って生きようとする、健気な姿が見える。
たぶん、私のキャパも似たようなもの。
ただ、人形遊びではなく、鉄腕アトムやスーパーマンになりたかった子ども時代を送っていただけ。
風呂敷をマントにして、お膳の上から飛び降りていただけ(^^)
母は、自分とあまりにも違う私に呆れていたのだろう。
そして、私を「お父さんそっくり」と、ネガティブな声音で言っていた。
確かに、あらためて、母とは似ていないと、つくづく思う。
二十歳前後のモテ期の頃、
母は、私にこう言った。
「M吉は、私といっしょで、女らしいから男の人に好まれる」と。
へぇ、私は「女らしい」のか、、、と意外だった。
見た目、立ち居振る舞いは、母に学んだので、
確かに、そう見えていたのかもしれない。
内面では、異なる苦悩をかかえていたけれども、
母に
「私といっしょ」と言われたことだけは、うれしい言葉だった。
胸に刻み付けておきたいくらい、喜ばしいと思った。
が、ほんとうは、母とはまるで異質だったのだろう。
日記をチラ見しただけでも、それは明らかだ。
その日あったことの叙述が連なった母の日記と、
心象風景を書き綴る私の日記では、あまりにも違う。
私の日記は、備忘録にならない。
常に、この世の解釈と確認と、またしても生まれる疑問との格闘に終始する私の方がマイノリティなのかもしれないけれど。
「我が強い」と言われてきた。
これは、「頑固」について書いたことがあるように、
母は、私を自分の思う方向に方向づけたくても、うまくいかないから、
「この子は我が強い」という実感を持ち、
そういうネガティブな言葉で、私を罵ったのだと思う。
母自身が、母親役割に興味がなく、これといった熱意もスキルも持たないから、
自分が自然にふるまっていれば、
自然に自分の思うようになる子どもしかイメージできなかったのだろう。
母は、人形遊びが大好きな少女時代を送ったそうで、
しみじみ、つぶやくように言っていたことがある。
「私は子どもの頃、端切れで人形の服を作ったりして遊んでたけど、
あんはそういうことをせえへんねんなぁ」と。
これは怒るでもなく喜ぶでもなくつぶやくように言っていたから、
ただただ自分とは違うなぁと、思ったのだろう。
母自身が一人っ子なので、人間の多様性などを知らず知らず学んでいく、という機会を持たなかったようだ。
複数の子どもを持つと、
同じ親から生まれても、子どもはそれぞれ違うのだということを学ぶのだろうが、
自分も子どもも一人っ子、という環境では、母はそういうことは学べなかったのだろう。
まぁ、学ぶ気もなかったかもしれないけれど。
興味はなかったと思う。
一人で人形遊びをしている少女のイメージのまま、年を取り、
生涯を終えたような感じだ。
その分、かわいらしかった。
そのかわいらしさが、私はものすごく好きだったので、
晩年、幼女のようにかわいらしくなっていく母が、
愛しくて切なかった。
母宅を片づけた時、日記を見つけたので、
ちょっとだけ読んでみた。
70歳代半ばの頃の一時期だ。
あらためて、母のことを思い返す。
少女のようだった、というのは確かだが、
それでも生活者としてがんばっていた。
賢い少女、、、そういう感じだな、やっぱり。
自己チューで、他人のことにまで想像力を働かせるキャパはない。
しかし、賢い少女だから、如才なくふるまうことはできる。
夫の病気と仕事で精いっぱいの私を頼れないから、
自分でがんばろうと、自分に言い聞かせている。
こじんまりとした思考で、身の回りのことを処理しながら、
きちんと頑張って生きようとする、健気な姿が見える。
たぶん、私のキャパも似たようなもの。
ただ、人形遊びではなく、鉄腕アトムやスーパーマンになりたかった子ども時代を送っていただけ。
風呂敷をマントにして、お膳の上から飛び降りていただけ(^^)
母は、自分とあまりにも違う私に呆れていたのだろう。
そして、私を「お父さんそっくり」と、ネガティブな声音で言っていた。
確かに、あらためて、母とは似ていないと、つくづく思う。
二十歳前後のモテ期の頃、
母は、私にこう言った。
「M吉は、私といっしょで、女らしいから男の人に好まれる」と。
へぇ、私は「女らしい」のか、、、と意外だった。
見た目、立ち居振る舞いは、母に学んだので、
確かに、そう見えていたのかもしれない。
内面では、異なる苦悩をかかえていたけれども、
母に
「私といっしょ」と言われたことだけは、うれしい言葉だった。
胸に刻み付けておきたいくらい、喜ばしいと思った。
が、ほんとうは、母とはまるで異質だったのだろう。
日記をチラ見しただけでも、それは明らかだ。
その日あったことの叙述が連なった母の日記と、
心象風景を書き綴る私の日記では、あまりにも違う。
私の日記は、備忘録にならない。
常に、この世の解釈と確認と、またしても生まれる疑問との格闘に終始する私の方がマイノリティなのかもしれないけれど。
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