大した話題ではないのだが、、、2018/04/19 22:24

味覚について、ちょっと。ほんっとに、どうってことない話だけど、、、。

写真は、私のお気に入りのパン。
COPENHARVESTのこし薄皮あんぱん。
(言葉としては、薄皮こしあんぱんの方が正確なような気がするが、、、^^)
ある日、母にも買って行ったら、母のお気に入りにもなった。
その名の通り皮が薄く、こしあんがたっぷり。
いつも通りかかれば買って帰る。
実は、私は粒あんパンが食べられない。
これまでの生涯で、二回jくらい食べる機会があったのだが、とにかく味がわからない。
甘いとも、もちろんおいしいとも思わない。
味覚が脳に送られないというか、味というものがなくて、私には食べ物ではない。
だから、あんぱんと言えば私にはこしあんしか存在しない。
誰かが、「あんぱんを買って来た。食べてね」とでも言おうものなら、すぐに点検する。
たいていは粒あんのことが多いので、がっかりする。
ただし、おかしなことだが、きんつばは食べる。ぜんざいも食べる。
小麦粉で作った皮と粒あんの相性が、私にはとても悪いとしか思えない。

パンは好きだが、たまにだめな組み合わせというものがある。
先日は、焼きたてのパン屋さんで5個入りのレーズンバンズを買った(つもりだった)。
家で食べたら、そのたくさん入れ込んであると見えたレーズンはチョコレートだった。
ゲーーーーーーーーッ である。
いかん、パンにチョコレートなど入れてはいかん!
結局、捨てた。

昔、若い友人の中学生の娘さんがチョコクロワッサンが大好きだそうで、
「ぜひ、M吉さんにも食べてもらいたい」と熱々のを自分のお小遣いで買ってくれた。
で、その気持ちがうれしくて、初めてチョコクロワッサンなるものを食べた。
私が感激して、
「おいしい!」と叫ぶのを待っているわくわくした感じのお嬢ちゃん。
言ったよ、とにかく、「おいしい」と、、、。(泣)
ほんとのところ、どうだったかと言うと、粒あんパンと同じで、よくわからないのだ。
味が脳に送られないので、脳が反応しないのだ。
たぶん、私の「おいしい」は、あまり実感がこもっていなかっただろう(^^;)

同様に小麦粉で作った皮にチーズもいけません。
でも、最近はピザは好きになった。
大学生の頃、夫に連れられて、生まれて初めてピザというものを食べた時は、
この世で最もまずい食べ物だと、いや食べ物ですらないと、彼に文句を言ったが、
今ではイタリアンの店に行けば注文するようになった。
が、まだピザトーストは私の暮らしには入ってこない。まだ、食べ物ではない。

パン自体は好きで、そのうち、パン焼き器を買って自分で焼きたてを食べたいと思うくらいだが、
一回作ったら、ほとんど冷凍パンになってしまうからなぁ、、、。

ま、他愛のないお話でした!

気持ちの処理2018/04/27 10:09

私の友人たちは、まだ母親が存命の人も多い。

そして、ほとんど、90歳を超えている。
中には100歳をこえて、施設で「番長」の人も(^^)

多くは、もう浮世のしがらみからちょっと離れたような、
まだ浮世を生きている娘たちを困惑させているような、
そんな人が多いようだ。

自分はとてもそんな年まで生きられない、と多くの友人たちは言う。
私も同感。
団塊の世代は、親の世代よりもっと短命なのではないかと思う。

それにしても、もはやそんなに生きられないと思うとき、
心の隅に消せずにある遺恨の感情をどう処理しようかと、思う。
まだ心ざわつくことも多々ある。

たとえば、自分に対して、過去にひどいことをした人がいて、
その人がとても世渡り上手で、
その人の出世や良い評判が自分の耳に入ってくる、というようなとき、
過去のそのひどいことに今でも自分が傷ついているとなると、
そのことをどう処理したらよいのだろう。

自分の無力を潔く認め、
やられたことを事故のように考え、
不運だったと思うのが、一番、楽な方法だ。
その人個人を恨むことが何の生産性もないことはわかっている。
怒りは新たなストレスを呼び、私自身を蝕む。

しかし、そう思い定めて、悔しさを処理するのって、
まだまだ修行の足りない私には難しい話だ。

夫が亡くなった時、
まだ今のような認知症でない義姉が、
夫の遺体を見つめながら、
「この世の修行を終えたような感じやね」と言った。
義姉がどういう思いでそう言ったのかはわからない。
時折、忘れられないようなことを言うのだ。

そうか、生きているということは修行が終わらない、ということなのか、、、と思った。
その後、いろいろな辛い出来事に見舞われ、
修行が終わらない、と文字通り実感した。

この心の葛藤が処理される頃、
やっと人生のけりがつくのかな。
葛藤が処理されるということは、浮世のあれこれから縁遠くなるということだな。

母のルーツ2018/04/30 16:37

母が住んでいたマンションの部屋を売りに出すことにした。
今年もまた固定資産税の請求が来て、
もはや、限界! とあわてて決めたのだ。

ネット上でずっと出て来る、
「あなたの家の査定を、、、」というサイトに導かれて行ってみた。
で、簡易査定、というのがあったので、
情報を登録して、
(やたら、具体的な情報なので、結局、全部わかってしまう)
ネット上で、大まかな査定ができるのだと思っていたら、
6つの不動産業者から電話。
結局、こういうサイトを使って、
不動産業者が不動産を売りたい人の情報を得て、
そこから営業に入るためのサイトだった。

まぁ、本気で売る気だからそれはかまわない。
大手、有名な企業も、6つの中に入っている。
で、業者を選定する基準がわからないから、
6社とも面談。

面談してますますわからなくなっている私。
基本的にみんな感じの良い、上品な営業マン。
まぁ、今どきはそういう人が多いのだろう。
説明もうまいし、礼儀正しい。
がんばってほしい人が多い。

で、今まで怠っていた相続登記をしないといけない。
それをやろうとして、途中で放置していたので、再開せねば。
どの不動産業者も、司法書士に依頼するのを前提。
え? なぜ?
自分でやればいいじゃん!

「あ、難しいので、皆さん、司法書士に頼まれます」と、多くの業者が異口同音に言う。
何が? 何が難しい?
相続登記に必要な書類は、サイトを見れば載っている。
私の場合、他に相続人がいないから、
一番厄介なのは、母の出生からの戸籍謄本。

で、銀行の口座名義書き換えの時、
夏休み中に、京都市内の区役所をまわって集めた。
本籍地に行って謄本を取るが、
その前の本籍に行かねばならず、
そこから、また別の区役所へ、、、。

その時は、まだオンラインができていないとのことで、
地下鉄に乗って、京都市内の区役所をいくつか回った。

母の出生は、旧民法下での曽曽祖父(と言うのかな?)の戸主時代の謄本にさかのぼる。
読んでるだけで面白い。
曽祖父は確か存命中に、戸主権を息子に譲った(と言うか、押し付けた)と祖父から聞いていたが、
ちゃんとそれが謄本から読み取れる。
実に面白い。
で、時系列に確認して、
以前、区役所を回ってそろえた謄本で、欠けはないとわかったので、
後は、自分の謄本等を現在地の区役所で請求する。

司法書士が何をするのかわからない。
が、いくつかの不動産業者は、とにかく司法書士を勧める。
最低でも15万円はかかると言われる。
やだよ! そんなの。
自分でできるじゃん!

以前、他のことでも、司法書士を勧められたことがあったような気がする。
が、自分でやった。
何で、できないと言われるのか?
やっぱり、高齢女性はなめられている?
ちょっとムッとする。

こういうことでもないと、母のルーツを丹念に見ることはない。
父が祖父と養子縁組をしたあと、母と結婚している。
「私とお父さんは、きょうだいで結婚したことになるねん」と母が言っていたことがある。
養子と実子の婚姻は、民法上、問題はない。
そして、その聞いた話通りに記載された謄本を読みながら、
なんだか、そこに登場する人たちが妙に愛しいような気持ちになる。

今、遺品の整理中。
そこには、かわいい母がいる。