生きる理由 ― 2018/03/28 15:12
ふと思ったので、雑駁な人生観を。
最近はもうなくなったと思うのだが、
よく買い物などに行くスーパーの近くにショットバーがあった。
名前は、レゾンデートル。
昔、一回だけ友人と行ったことがあるが、
混んでいて、結局店を出たように思う。
なんとなく、二人で、
「存在理由かぁ・・・」とつぶやきながら、だった。
英語で書けば、reason for existence ( or being ?)
なんだろうけど、
フランス語の方が日本に根付いている。
なんでこんなことを思い出したかと言うと、
私自身が、人生の途上であまり積極的な選択をしていなくて、
求められる役割を受け入れ、オファーされる仕事を受け、依頼されるヘルプに応えてきたことが多く、
私の生きる理由は、
ずっと、他人が設定した「予定」が入っているから、だったので、
高齢者になって、仕事が減って来ると、
何を理由に生きていけばよいのかわからなくなってきたからだ。
そろそろ、自分の人生の目標を自前で設定しなくてはならなくなってきた。
嘗て、自分がまだ若い頃、
「誰にも必要とされなくなったお年寄りは、生きがいをなくしてしまう」ということを聞いていた。
あー、そうなんだ、と思っていた。
が、自分自身がそうなって来ると、
誰にも必要とされない自分は、この世に居場所がない自分、
というように落ち込んでしまいそうだ。
そうして余分な存在となった頃には、
それをかみしめる暇もなく、
からだが朽ち果てて終わりを迎えるならそれでもいいけど、
気分は落ち込んでこの世の余計者の自分を見つめなければならないのに、
当分はまだ死なないとなれば、
なんとか、気分を引き上げるしかない。
存在理由を、自前で設定する。
そもそも人間の存在理由など始めからありはしないのだけど、
あるかのように生きてきた。
生きられた。
それが、もう、通用しなくなってきた、ということだ。
だから、自前で設定。
私には不慣れな作業だが、
気分が腐ったまま身が朽ち果てるのでもなさそうなので、
あんまり腐っているわけにはいかない。
他のシニアを見ていると、
みんな努力しているなぁ、偉いなぁとつくづく思う。
今、ネットで見たら、
このバー、場所は移ったけど、まだあるみたい。
最近はもうなくなったと思うのだが、
よく買い物などに行くスーパーの近くにショットバーがあった。
名前は、レゾンデートル。
昔、一回だけ友人と行ったことがあるが、
混んでいて、結局店を出たように思う。
なんとなく、二人で、
「存在理由かぁ・・・」とつぶやきながら、だった。
英語で書けば、reason for existence ( or being ?)
なんだろうけど、
フランス語の方が日本に根付いている。
なんでこんなことを思い出したかと言うと、
私自身が、人生の途上であまり積極的な選択をしていなくて、
求められる役割を受け入れ、オファーされる仕事を受け、依頼されるヘルプに応えてきたことが多く、
私の生きる理由は、
ずっと、他人が設定した「予定」が入っているから、だったので、
高齢者になって、仕事が減って来ると、
何を理由に生きていけばよいのかわからなくなってきたからだ。
そろそろ、自分の人生の目標を自前で設定しなくてはならなくなってきた。
嘗て、自分がまだ若い頃、
「誰にも必要とされなくなったお年寄りは、生きがいをなくしてしまう」ということを聞いていた。
あー、そうなんだ、と思っていた。
が、自分自身がそうなって来ると、
誰にも必要とされない自分は、この世に居場所がない自分、
というように落ち込んでしまいそうだ。
そうして余分な存在となった頃には、
それをかみしめる暇もなく、
からだが朽ち果てて終わりを迎えるならそれでもいいけど、
気分は落ち込んでこの世の余計者の自分を見つめなければならないのに、
当分はまだ死なないとなれば、
なんとか、気分を引き上げるしかない。
存在理由を、自前で設定する。
そもそも人間の存在理由など始めからありはしないのだけど、
あるかのように生きてきた。
生きられた。
それが、もう、通用しなくなってきた、ということだ。
だから、自前で設定。
私には不慣れな作業だが、
気分が腐ったまま身が朽ち果てるのでもなさそうなので、
あんまり腐っているわけにはいかない。
他のシニアを見ていると、
みんな努力しているなぁ、偉いなぁとつくづく思う。
今、ネットで見たら、
このバー、場所は移ったけど、まだあるみたい。
コメント
_ つゆ ― 2018/03/29 16:11
_ M吉 ― 2018/03/29 18:46
つゆさん
私が癌の手術をした季節が秋で、なんとか職場に復帰したものの、
来年の桜を自分は見ることができるのだろうか、と思いました。
生きている証のように、このブログを始めたのですが、
その時の気分とは、もはやだいぶん変わって来て、今では生きる理由を探す境涯になりました。
その時その時に身をゆだねて、生きてきた自分をあらためて振り返る感じです。
自分の時間を生きるしかないと、無力な思いですが、、、。
私が癌の手術をした季節が秋で、なんとか職場に復帰したものの、
来年の桜を自分は見ることができるのだろうか、と思いました。
生きている証のように、このブログを始めたのですが、
その時の気分とは、もはやだいぶん変わって来て、今では生きる理由を探す境涯になりました。
その時その時に身をゆだねて、生きてきた自分をあらためて振り返る感じです。
自分の時間を生きるしかないと、無力な思いですが、、、。
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晩年にして、やっと
自他ともに認められる存在理由を見つけたのに、
体ぼろぼろ、家事さえこなせなくなりました。
要は、役立たずなのです。
そして見つけたのが、カーペ・ディエム「今を生きる」という映画から。
と言い聞かせてみても、
今を生きるのさえ、大変な日々です。