自己肯定感 ― 2025/05/21 09:53
この手のテーマは、しょっちゅう書いているので、また同じ事の繰り返しかもしれないけれど、
人の生涯に大きい影響を与えるのは、
標題のこのことだと思う。
しみじみ思う。
人は、みな、少しずつ他の人とは違うものだ。
癖も、生活習慣も、体調も、あらゆる面が人それぞれだ。
共通点もあるが、違いもある。
それは、赤ちゃんの時から顕著だ。
それが、個性というものだろう。
が、その個性の違いを受け止められない養育者に育てられると、
子どもは災難だ。
自分そのものである部分を否定され、除去しようとされ、
自分であろうとすることが攻撃を受ける。
その子どもは、「その人自身」でいることを受け容れてもらえないのだから、
いつもびくびくといじけている子どもになる。
が、養育者によっては、
子どもの個性を当たり前のこととして理解しているので、
その子どもが、その子らしい部分を発揮することを妨げない。
「そういう子だ」と受容している。
矯正しようとはしない。
もちろん、社会のルールやマナーは教えるが、
その子がその子自身であることを否定したりはしない。
人はそれぞれ、みな異なるので、
それぞれその人らしいだけなのだが、
この、養育者の態度によって、人生の明暗が分かれる。
その子らしさを損なわれずに受容されてきた子は、
臆することなく、その子自身の個性を発揮して、
のびのびした自己認識を持つことになる。
が、その子らしさを否定され、叱られ、嫌われて育った子は、
自分が自分であることに引け目ばかり感じている。
自分は良くない存在だと思い込んで育つ。
いつもおどおどし、暗い人格を形成して大人になる。
以下のことも、嘗てここに書いたことかもしれないが、
また、書く。
忘れられないことだからだ。
以前、大教室で大人数の学生を教えていた。
ある時、同じ系列の科目を教えている専任の先生から、
「学生アンケートをとりたいので、M吉先生のところは学生数が多いから、アンケートに協力してほしい」と、頼まれた。
もちろん、二つ返事でOKである。
授業の最後の方で時間を取って、アンケートに回答するように学生に伝えた。
人数が多いので、教室を出るときに、教卓にアンケート回答を置いて出るように指示をした。
学生はそういうのは嫌がらない。
2~300人の学生が教卓に回答用紙を置いて、次から次へと出て行く。
そのアンケートは匿名だが、フェイスシートに「自分のことを好きかどうか」という設問があって、5段階のうちのどこかに回答するようになっていた。
学生が回答用紙を置くのを見守りながら、ある時から、用紙を置く学生の表情とフェイスシートの回答との関係に気づいた。
学生の表情が暗めの子は、必ず、「自分が嫌い」を選んでいた。
いきいきした、あるいは脳天気な顔つきの学生は、「自分が好き」のところをチェックしていた。
学生の表情を見てから回答を見ると、100パーセント、予想が当たった。
もちろん、学生たちは無表情なつもりだろう。
泣き顔でもなければ、一人で笑っているはずもない。
比較的豊かな家庭の、常識の通じる学生たちなので、普段の、一人でいるときの表情をしているだけだったろう。
が、憂いを帯びた顔と、前向きのいきいきした表情の違いは、見事に回答に反映されていた。
許されるなら、悲しげな学生一人ひとりを傍に呼んで、
「あなたはとても素敵な子よ、あなたのままで素晴らしいのよ」と伝えたくなった。
養育者は、子どもの間違った行為は正してやらないといけない。
が、その子どものその子らしさを正そうなどとしてはならない。
それは、その子自身であって、そこを否定すると、その子の魂は死ぬ。
魂は殺してはいけない。
あらためてこんなことを考えたのは、
私の友人たちをいろいろ思い浮かべて、
皆それぞれ、どこか変で、独特だ、と思ったからだ。
が、そのことを恥じるわけでも、悔いるわけでもなく、
堂々とその人自身である、という人が多い。
たまたま、私の交流関係は、高学歴で仕事に成功している人が多い。
高学歴で仕事に成功する、ということは、
満足度、幸福感が高い、ということと相関関係があるだろう。
だから、比較的、元気で明るめの高齢者が多いことになる。
もちろん、それも一概には言えない。
私の周りにはそういう人が多いようだ、というだけのことだ。
一方、昔、出会ったカウンセリングに訪れていた人たちは、
自己否定の権化のようだった。
一時的な「相談」ではなく、カウンセリングを必要とする人たちは、
「あなたはそのままで素敵なのよ」という言葉を聞きたかったのかもしれない。
が、カウンセラーからいくらその言葉を聞いても、
あまり効果はない。
カウンセリングの理屈を知り尽くしているその人たちは、
カウンセラーの決まり文句で慰められたりはしない。
必要だったのは、もっと幼い頃、
自己認識と共に成長するプロセスで、
その言葉を聞くことだった。
じゃあ、成長しきったら、もう回復できないのか。
いや、大人になっても好転することはあるだろう。
ただ、子ども時代に否定的に育てられた悲しみは残る。
心に傷は残るだろう。
それでもいいのだ。
完治はしないが、寛解まで持って行ければ、上上出来だ。
そんなことを考える今日この頃。
、
人の生涯に大きい影響を与えるのは、
標題のこのことだと思う。
しみじみ思う。
人は、みな、少しずつ他の人とは違うものだ。
癖も、生活習慣も、体調も、あらゆる面が人それぞれだ。
共通点もあるが、違いもある。
それは、赤ちゃんの時から顕著だ。
それが、個性というものだろう。
が、その個性の違いを受け止められない養育者に育てられると、
子どもは災難だ。
自分そのものである部分を否定され、除去しようとされ、
自分であろうとすることが攻撃を受ける。
その子どもは、「その人自身」でいることを受け容れてもらえないのだから、
いつもびくびくといじけている子どもになる。
が、養育者によっては、
子どもの個性を当たり前のこととして理解しているので、
その子どもが、その子らしい部分を発揮することを妨げない。
「そういう子だ」と受容している。
矯正しようとはしない。
もちろん、社会のルールやマナーは教えるが、
その子がその子自身であることを否定したりはしない。
人はそれぞれ、みな異なるので、
それぞれその人らしいだけなのだが、
この、養育者の態度によって、人生の明暗が分かれる。
その子らしさを損なわれずに受容されてきた子は、
臆することなく、その子自身の個性を発揮して、
のびのびした自己認識を持つことになる。
が、その子らしさを否定され、叱られ、嫌われて育った子は、
自分が自分であることに引け目ばかり感じている。
自分は良くない存在だと思い込んで育つ。
いつもおどおどし、暗い人格を形成して大人になる。
以下のことも、嘗てここに書いたことかもしれないが、
また、書く。
忘れられないことだからだ。
以前、大教室で大人数の学生を教えていた。
ある時、同じ系列の科目を教えている専任の先生から、
「学生アンケートをとりたいので、M吉先生のところは学生数が多いから、アンケートに協力してほしい」と、頼まれた。
もちろん、二つ返事でOKである。
授業の最後の方で時間を取って、アンケートに回答するように学生に伝えた。
人数が多いので、教室を出るときに、教卓にアンケート回答を置いて出るように指示をした。
学生はそういうのは嫌がらない。
2~300人の学生が教卓に回答用紙を置いて、次から次へと出て行く。
そのアンケートは匿名だが、フェイスシートに「自分のことを好きかどうか」という設問があって、5段階のうちのどこかに回答するようになっていた。
学生が回答用紙を置くのを見守りながら、ある時から、用紙を置く学生の表情とフェイスシートの回答との関係に気づいた。
学生の表情が暗めの子は、必ず、「自分が嫌い」を選んでいた。
いきいきした、あるいは脳天気な顔つきの学生は、「自分が好き」のところをチェックしていた。
学生の表情を見てから回答を見ると、100パーセント、予想が当たった。
もちろん、学生たちは無表情なつもりだろう。
泣き顔でもなければ、一人で笑っているはずもない。
比較的豊かな家庭の、常識の通じる学生たちなので、普段の、一人でいるときの表情をしているだけだったろう。
が、憂いを帯びた顔と、前向きのいきいきした表情の違いは、見事に回答に反映されていた。
許されるなら、悲しげな学生一人ひとりを傍に呼んで、
「あなたはとても素敵な子よ、あなたのままで素晴らしいのよ」と伝えたくなった。
養育者は、子どもの間違った行為は正してやらないといけない。
が、その子どものその子らしさを正そうなどとしてはならない。
それは、その子自身であって、そこを否定すると、その子の魂は死ぬ。
魂は殺してはいけない。
あらためてこんなことを考えたのは、
私の友人たちをいろいろ思い浮かべて、
皆それぞれ、どこか変で、独特だ、と思ったからだ。
が、そのことを恥じるわけでも、悔いるわけでもなく、
堂々とその人自身である、という人が多い。
たまたま、私の交流関係は、高学歴で仕事に成功している人が多い。
高学歴で仕事に成功する、ということは、
満足度、幸福感が高い、ということと相関関係があるだろう。
だから、比較的、元気で明るめの高齢者が多いことになる。
もちろん、それも一概には言えない。
私の周りにはそういう人が多いようだ、というだけのことだ。
一方、昔、出会ったカウンセリングに訪れていた人たちは、
自己否定の権化のようだった。
一時的な「相談」ではなく、カウンセリングを必要とする人たちは、
「あなたはそのままで素敵なのよ」という言葉を聞きたかったのかもしれない。
が、カウンセラーからいくらその言葉を聞いても、
あまり効果はない。
カウンセリングの理屈を知り尽くしているその人たちは、
カウンセラーの決まり文句で慰められたりはしない。
必要だったのは、もっと幼い頃、
自己認識と共に成長するプロセスで、
その言葉を聞くことだった。
じゃあ、成長しきったら、もう回復できないのか。
いや、大人になっても好転することはあるだろう。
ただ、子ども時代に否定的に育てられた悲しみは残る。
心に傷は残るだろう。
それでもいいのだ。
完治はしないが、寛解まで持って行ければ、上上出来だ。
そんなことを考える今日この頃。
、
子ども時代の虐待のトラウマは生涯消えない ― 2025/01/15 09:13
タイトルに書いたことは、私の実感に過ぎない。
が、被害経験からの回復とか、
トラウマの克服とか、
そういう字面を見ると、反発する私がいる。
回復なんかしないだろうと思う。
なぜなら、子ども時代の被虐待経験は、
その子どもが人として人格形成をされるプロセスに
織り込まれているからだ。
折に触れて悲しみがよみがえり、
辛い気持ちが再現される。
10歳だった私が経験したことは、
74歳の今になっても、時折、疼痛として私を苛む。
このまま、ちょっと悲しいまま、死んでいくのだろうと思う。
もちろん、適切なケアを受けなかったからだ、という見方もあるだろう。
子ども時代の被虐待経験は、
時を置かずに、ケアを受ければ、深い傷となって残ることはなかったかもしれない。
応急処置が適切に行われれば、傷の回復は望める気もする。
そういう意味では、子ども時代にひどい扱いを受けたとしても、
すかさずその子どもをケアし、温かく見守る体制があれば、
その子どもは助かったかもしれない。
大人への信頼を速やかに回復したかもしれない。
世の中への信頼感も育てることができたかもしれない。
が、私の世代の多くは、
そのような環境にはいなかった。
ひどい扱いを受けたとしても、
外から見える甚だしい虐待でもなければ、
誰もが無関心だった時代だ。
親子や家族、というもの以外に子どもを支えるシステムがなかった。
家庭という地獄から助け出されても、
またもや家庭に帰されるのが当たり前だった時代だ。
だから、そのことの認識が発達してきた現在の状況は、
多少は改善されているのかもしれない。
まぁ、悲劇はまだまだ起こっているだろうと思うけれど。
私のような世代は、トラウマをかかえて年老いている。
悲しみや怒りをかかえて、老いても呻吟している。
自分を虐待した親たちは、その自覚もなく、
安らかに自己満足の最期を迎えたりしているだろうし、
外面からは、結構、恵まれた人であるかのように見られているかもしれない。私などもそうだ。
声を上げなければ、誰も知らない。
が、声を上げても、ただの愚痴だろう。
なにしろ、外見では、それなりに成長して老いてきたのだから。
声を上げることもしない、あるいはできない、
ただただ恨みをかかえて老いてきた人たちは、
扱いにくい老人になっているのかもしれない。
自分をいやな目に遭わせた者が何者かもわからず、
湧き上がる不快な感情をコントロールできず、
自分を虐待した親に似た人になって、
不機嫌に生きているのかもしれない。
親たちは、子どもに鬱屈をぶつけて自分の気分を解消しようとしたが、
それが問題行動だとは思いもしなかっただろう。
「子どものため」というのは、自分の不善な行動のエクスキューズだ。
理不尽な行為だということは薄々わかっていても、
目の前の手のかかる者に感情をぶつけないと自分の鬱憤が晴らせないとき、
あるいは、手がかかる、というそのこと自体に、自分の鬱屈した感情を増幅させて、
虐待を始めるのだ。
私の父の場合、最初、
私に対して、因縁をつけるところから始まる。
私が何かをした、というようなタイミングではなく、
黙って本を読んでいても、一人遊びをしている時であっても、
父は、暇つぶしに私を扱うのだ。
からかったり、説教を始めたり、小言を言ったりして、私を自分の方に向かせることから始まる。
私には不当としか思えないような言いがかりで、
私の欠点を指摘したり、言動の些末な不完全な部分を盛んに言い立てるなどして、
私が怒りを表明するまでやめない。
私は父のその言動の身勝手さに怒りを覚える。
(通りすがりの酔っ払いがからんできたのなら、相手をせずに逃げるところだが、一つ屋根の下にいる素面の父親だ。子どもの私に逃げる才覚はなかった。)
私は難癖をつけてきた父に、怒りをもって反論する。
「口答えするのか」と父は激高し、やがて激しい言い合いになり、最後は父は私を叩く。
言ってわからないやつは叩いてわからせる、という言い分だ。
そこで、初めて、母が言う。
「親に何を言われてもええやんか、もっと大人になりなさい」と。
そして、私と父の性格が似ているから、と、
すべてを私の責任だとなじり、黙って耐えない私を責め立てる。
私が悔しさで泣いて泣いて、それでも、父の理不尽、母の理不尽な意見(親なのだから何を言ってもいいのだ、子どもの私に大人になりなさい、と叱りつける理不尽)に抗弁する。
結局、父からの暴力の痛みと恐怖、
母からの精神的な攻撃への絶望と無力感によって、
私が抗弁をやめ、そして、父の攻撃がやむ。
私は憤死しそうなほど、悔しい思いをかかえて、泣きながら眠るのが常だった。
10歳ほどの子どもだ。
どこにも、私の味方がいない、この世で最も弱い生き物だった頃だ。
大人二人から、力づくで黙らされていた。
世間で報道される虐待事件は、他人事とは思えない。
殺されていった子どもたちは、あの頃の私だと思う。
父との諍いを最初からすべて見ていた母は、ただの一度も間に入らなかった。
父の身体的暴力が激化すると、
私を言葉で叱りつけて黙らせる役割を担った。
多くの夫たちがDVのターゲットに妻を選ぶ。
が、私の父親は私を選んだ。
私が中学3年生まで、母の父親が同居していたので、とても母には手が出せなかっただろう。
彼が鬱屈を晴らす相手は私しかいなかったのだ。
しかも、母は、父が私を褒めたりかわいがったりするのを喜ばない。
母の顔色をうかがう父にとって、
私への攻撃は母の機嫌を取るのにも都合のよい手段だった。
同じ頃のことで覚えている出来事がある。
母が、仕事から帰った父に、
私がいかに言うことをきかない子どもであるかを愚痴った。
すると、父はいきなり私を叩いた。
母は、
「たたかんと、言うてきかせてほしいのに」と父に言った。
母の理想の夫の姿は、
たぶん、妻の言うことを受けて、娘に理路整然とことわりを教える、そのような、
つまり、
戦後のアメリカのホームドラマ、『パパは何でも知っている』の父親のような姿だったのだろう。
勘違いもいいところだ。
武骨な田舎育ちで、太平洋戦争で死んだものとされていたのに、
南方から復員してきた、承認欲求の強い大正生まれの男が、ソフィスティケートされたアメリカの白人中産階級のエリート男と同じふるまいができるわけがない。
私が慰撫されなかったのは、
彼らのやりたい放題の下で、自分の気持ちを封殺されてしまったことだ。
そのくやしさだ。
ただの一度も慰撫されず、悲しみやくやしさを抱えたまま、私は人格形成され、社会化されてきた。
だから、もう、ここからは脱出できない。
あの連中をよみがえらせて、手をついて謝らせることができれば、
涙ながらに詫びを言わせれば、私も少しは心和むかもしれない。
が、連中はもうこの世にいない。
私の親だけではなく、多くのあの時代の親たちは、子どもの心をズタズタにしながら、
自分はいい親だった、と思いながら死んでいった者が多いのかもしれない。
私の世代の人たちが、鬱屈しているのはわかるね。
性格が悪い。
多くが似たような目に遭っているから。
しかし、何でもそうだが、同じ目に遭っていない人も結構いるから、
同世代でも理解されない、というのもいつものことだ。
特に、日頃から付き合いのある、比較的良い教育を受けた人たちは、
自分の現状に満足していたりするから、
ますます、そうではない者の屈折が理解できない人が多い。
理解しようとしても共感ができない。
そうすると、こちらは、慰撫されるどころか、
さらに孤立感を深め、心の傷は疼き続ける。
それも、いつものことだ。
が、被害経験からの回復とか、
トラウマの克服とか、
そういう字面を見ると、反発する私がいる。
回復なんかしないだろうと思う。
なぜなら、子ども時代の被虐待経験は、
その子どもが人として人格形成をされるプロセスに
織り込まれているからだ。
折に触れて悲しみがよみがえり、
辛い気持ちが再現される。
10歳だった私が経験したことは、
74歳の今になっても、時折、疼痛として私を苛む。
このまま、ちょっと悲しいまま、死んでいくのだろうと思う。
もちろん、適切なケアを受けなかったからだ、という見方もあるだろう。
子ども時代の被虐待経験は、
時を置かずに、ケアを受ければ、深い傷となって残ることはなかったかもしれない。
応急処置が適切に行われれば、傷の回復は望める気もする。
そういう意味では、子ども時代にひどい扱いを受けたとしても、
すかさずその子どもをケアし、温かく見守る体制があれば、
その子どもは助かったかもしれない。
大人への信頼を速やかに回復したかもしれない。
世の中への信頼感も育てることができたかもしれない。
が、私の世代の多くは、
そのような環境にはいなかった。
ひどい扱いを受けたとしても、
外から見える甚だしい虐待でもなければ、
誰もが無関心だった時代だ。
親子や家族、というもの以外に子どもを支えるシステムがなかった。
家庭という地獄から助け出されても、
またもや家庭に帰されるのが当たり前だった時代だ。
だから、そのことの認識が発達してきた現在の状況は、
多少は改善されているのかもしれない。
まぁ、悲劇はまだまだ起こっているだろうと思うけれど。
私のような世代は、トラウマをかかえて年老いている。
悲しみや怒りをかかえて、老いても呻吟している。
自分を虐待した親たちは、その自覚もなく、
安らかに自己満足の最期を迎えたりしているだろうし、
外面からは、結構、恵まれた人であるかのように見られているかもしれない。私などもそうだ。
声を上げなければ、誰も知らない。
が、声を上げても、ただの愚痴だろう。
なにしろ、外見では、それなりに成長して老いてきたのだから。
声を上げることもしない、あるいはできない、
ただただ恨みをかかえて老いてきた人たちは、
扱いにくい老人になっているのかもしれない。
自分をいやな目に遭わせた者が何者かもわからず、
湧き上がる不快な感情をコントロールできず、
自分を虐待した親に似た人になって、
不機嫌に生きているのかもしれない。
親たちは、子どもに鬱屈をぶつけて自分の気分を解消しようとしたが、
それが問題行動だとは思いもしなかっただろう。
「子どものため」というのは、自分の不善な行動のエクスキューズだ。
理不尽な行為だということは薄々わかっていても、
目の前の手のかかる者に感情をぶつけないと自分の鬱憤が晴らせないとき、
あるいは、手がかかる、というそのこと自体に、自分の鬱屈した感情を増幅させて、
虐待を始めるのだ。
私の父の場合、最初、
私に対して、因縁をつけるところから始まる。
私が何かをした、というようなタイミングではなく、
黙って本を読んでいても、一人遊びをしている時であっても、
父は、暇つぶしに私を扱うのだ。
からかったり、説教を始めたり、小言を言ったりして、私を自分の方に向かせることから始まる。
私には不当としか思えないような言いがかりで、
私の欠点を指摘したり、言動の些末な不完全な部分を盛んに言い立てるなどして、
私が怒りを表明するまでやめない。
私は父のその言動の身勝手さに怒りを覚える。
(通りすがりの酔っ払いがからんできたのなら、相手をせずに逃げるところだが、一つ屋根の下にいる素面の父親だ。子どもの私に逃げる才覚はなかった。)
私は難癖をつけてきた父に、怒りをもって反論する。
「口答えするのか」と父は激高し、やがて激しい言い合いになり、最後は父は私を叩く。
言ってわからないやつは叩いてわからせる、という言い分だ。
そこで、初めて、母が言う。
「親に何を言われてもええやんか、もっと大人になりなさい」と。
そして、私と父の性格が似ているから、と、
すべてを私の責任だとなじり、黙って耐えない私を責め立てる。
私が悔しさで泣いて泣いて、それでも、父の理不尽、母の理不尽な意見(親なのだから何を言ってもいいのだ、子どもの私に大人になりなさい、と叱りつける理不尽)に抗弁する。
結局、父からの暴力の痛みと恐怖、
母からの精神的な攻撃への絶望と無力感によって、
私が抗弁をやめ、そして、父の攻撃がやむ。
私は憤死しそうなほど、悔しい思いをかかえて、泣きながら眠るのが常だった。
10歳ほどの子どもだ。
どこにも、私の味方がいない、この世で最も弱い生き物だった頃だ。
大人二人から、力づくで黙らされていた。
世間で報道される虐待事件は、他人事とは思えない。
殺されていった子どもたちは、あの頃の私だと思う。
父との諍いを最初からすべて見ていた母は、ただの一度も間に入らなかった。
父の身体的暴力が激化すると、
私を言葉で叱りつけて黙らせる役割を担った。
多くの夫たちがDVのターゲットに妻を選ぶ。
が、私の父親は私を選んだ。
私が中学3年生まで、母の父親が同居していたので、とても母には手が出せなかっただろう。
彼が鬱屈を晴らす相手は私しかいなかったのだ。
しかも、母は、父が私を褒めたりかわいがったりするのを喜ばない。
母の顔色をうかがう父にとって、
私への攻撃は母の機嫌を取るのにも都合のよい手段だった。
同じ頃のことで覚えている出来事がある。
母が、仕事から帰った父に、
私がいかに言うことをきかない子どもであるかを愚痴った。
すると、父はいきなり私を叩いた。
母は、
「たたかんと、言うてきかせてほしいのに」と父に言った。
母の理想の夫の姿は、
たぶん、妻の言うことを受けて、娘に理路整然とことわりを教える、そのような、
つまり、
戦後のアメリカのホームドラマ、『パパは何でも知っている』の父親のような姿だったのだろう。
勘違いもいいところだ。
武骨な田舎育ちで、太平洋戦争で死んだものとされていたのに、
南方から復員してきた、承認欲求の強い大正生まれの男が、ソフィスティケートされたアメリカの白人中産階級のエリート男と同じふるまいができるわけがない。
私が慰撫されなかったのは、
彼らのやりたい放題の下で、自分の気持ちを封殺されてしまったことだ。
そのくやしさだ。
ただの一度も慰撫されず、悲しみやくやしさを抱えたまま、私は人格形成され、社会化されてきた。
だから、もう、ここからは脱出できない。
あの連中をよみがえらせて、手をついて謝らせることができれば、
涙ながらに詫びを言わせれば、私も少しは心和むかもしれない。
が、連中はもうこの世にいない。
私の親だけではなく、多くのあの時代の親たちは、子どもの心をズタズタにしながら、
自分はいい親だった、と思いながら死んでいった者が多いのかもしれない。
私の世代の人たちが、鬱屈しているのはわかるね。
性格が悪い。
多くが似たような目に遭っているから。
しかし、何でもそうだが、同じ目に遭っていない人も結構いるから、
同世代でも理解されない、というのもいつものことだ。
特に、日頃から付き合いのある、比較的良い教育を受けた人たちは、
自分の現状に満足していたりするから、
ますます、そうではない者の屈折が理解できない人が多い。
理解しようとしても共感ができない。
そうすると、こちらは、慰撫されるどころか、
さらに孤立感を深め、心の傷は疼き続ける。
それも、いつものことだ。
「普通」ということ ― 2024/10/24 20:13
ずっと、「普通」になりたいと思ってきた。
それは、親がそう望んでいたからだ。
娘の私が、学校で優秀であるという評価を受けると、父親は怖かったのかもしれない。
普通のつつがない人生を送らせたいのに、「特に優秀だ」などと言われると、私は喜んだが、父はいやがった。
私の親は、とても不安の強い人たちだった気がする。
自分の見知った世界でないと、安心できない。
だから、私をあれほど制限したのだろうと思う。
自分の見知った世界など狭くてたかが知れている、と考えることができるのは、違う世界があると、それももっと良き世界があると、知っているからこそだ。
そうでない人は、視野の狭い考え方しかできない。
残念ながら、私の親たちは、そういう人たちだった。
狭い世界の価値観しか知らず、そこで精いっぱい生きていた。
だから、自分の見知らぬ世界へ私が行きそうで、
そしてそれは、世間から後ろ指をさされる「堕落」を意味するから、
必死で制止したのだろう。
成績がとびぬけて良い、などと教師に言われることは、父の目には、
「嫁にいけなくなる」という不吉な予兆でしかない。
私はその親の価値観の世界で成長するしかなく、
「普通」でいたいと切望していた。
学校で評価されることは大事ではなく、親が恐れる「落伍」を、私も恐れたのだ。
「普通」を目指していた。
が、今は思う。
私は父が理想とする「普通の娘」ではなかった。
いや、父が理想とする娘など、ほんとうはこの世にいないのだ。
「理想の普通」などないのだ。
何事もほどほどにわきまえて、母親の手伝いを自ら健気にやって、
親の言うことにはいつも「はい」「はい」と従順で、
親を敬い、物静かで、しかもいつも明るく素直な娘。
それが父の言う「普通の娘」。
すべてが満たされなくて、父は私に文句を言い続けた。
「出来損ない」だと私を罵った。
父の目からは、私は「普通」ではなかった。
今、思えば、天真爛漫な子どもらしい子どもだっただけだ。
父が想定するよりはるかに学校の成績はよかった。
美人の誉れ高い母よりも学級の中での目立ち度が高かった。
が、現実が苦しくて、いつも空想の世界に生きるより仕方がなかった。
私は、親の手に負えない子どもだったのだ。
狭い世界観しか持てない、硬直した価値観の親たちには、
私は理解できなかったのだ。
そして、抑圧し続けた。
だから、私は、うつうつとした子ども時代を送った。
明るくなく、やがて死ぬことばかり考えるようになった。
それもまた、父母から見ると、
「普通」からの逸脱で、許せなかったらしい。
原因が何か、などとは考えない。
今のような「子どもの人権」とか「児童虐待」の概念がない時代だ。
だから、また、私が暗い、元気がない、ということで責め続けた。
災難以外の何物でもない子ども時代だ。
いまになると、「普通」というばかばかしい圧力を相対化できるが、
なにしろ、子どもだったから。
それは、親がそう望んでいたからだ。
娘の私が、学校で優秀であるという評価を受けると、父親は怖かったのかもしれない。
普通のつつがない人生を送らせたいのに、「特に優秀だ」などと言われると、私は喜んだが、父はいやがった。
私の親は、とても不安の強い人たちだった気がする。
自分の見知った世界でないと、安心できない。
だから、私をあれほど制限したのだろうと思う。
自分の見知った世界など狭くてたかが知れている、と考えることができるのは、違う世界があると、それももっと良き世界があると、知っているからこそだ。
そうでない人は、視野の狭い考え方しかできない。
残念ながら、私の親たちは、そういう人たちだった。
狭い世界の価値観しか知らず、そこで精いっぱい生きていた。
だから、自分の見知らぬ世界へ私が行きそうで、
そしてそれは、世間から後ろ指をさされる「堕落」を意味するから、
必死で制止したのだろう。
成績がとびぬけて良い、などと教師に言われることは、父の目には、
「嫁にいけなくなる」という不吉な予兆でしかない。
私はその親の価値観の世界で成長するしかなく、
「普通」でいたいと切望していた。
学校で評価されることは大事ではなく、親が恐れる「落伍」を、私も恐れたのだ。
「普通」を目指していた。
が、今は思う。
私は父が理想とする「普通の娘」ではなかった。
いや、父が理想とする娘など、ほんとうはこの世にいないのだ。
「理想の普通」などないのだ。
何事もほどほどにわきまえて、母親の手伝いを自ら健気にやって、
親の言うことにはいつも「はい」「はい」と従順で、
親を敬い、物静かで、しかもいつも明るく素直な娘。
それが父の言う「普通の娘」。
すべてが満たされなくて、父は私に文句を言い続けた。
「出来損ない」だと私を罵った。
父の目からは、私は「普通」ではなかった。
今、思えば、天真爛漫な子どもらしい子どもだっただけだ。
父が想定するよりはるかに学校の成績はよかった。
美人の誉れ高い母よりも学級の中での目立ち度が高かった。
が、現実が苦しくて、いつも空想の世界に生きるより仕方がなかった。
私は、親の手に負えない子どもだったのだ。
狭い世界観しか持てない、硬直した価値観の親たちには、
私は理解できなかったのだ。
そして、抑圧し続けた。
だから、私は、うつうつとした子ども時代を送った。
明るくなく、やがて死ぬことばかり考えるようになった。
それもまた、父母から見ると、
「普通」からの逸脱で、許せなかったらしい。
原因が何か、などとは考えない。
今のような「子どもの人権」とか「児童虐待」の概念がない時代だ。
だから、また、私が暗い、元気がない、ということで責め続けた。
災難以外の何物でもない子ども時代だ。
いまになると、「普通」というばかばかしい圧力を相対化できるが、
なにしろ、子どもだったから。
鬱っぽい ― 2020/05/03 21:09
身近な人が亡くなると、
それも、長寿を全うしたわけではない人が亡くなると、
死神が隣に来たような気がする。
この事態の中で、生き延びるのだろうか。
あちらこちらが痛むような、不安なような、
鬱っぽい心地がする。
今、病気になって、助かる見込みは薄い。
もちろん、持ち前の免疫力で自己回復する場合もあるだろう。
これまでの経験で、
医療ができることはそんなに多くなく、
実際には、その人の自己回復力にかかっているのだろうと、思うことが多い。
もちろん、その自己回復をサポートするのが医療なのだが、
だから、医療が崩壊すると、そこをサポートすることができなくなるので、
助からない、ということが起きるのだろうと、思う。
だから、自己回復力と、それをサポートする医療の両方が要るのだろう。
大学の授業がオンラインになって、
出かけることもなくなった。
人数制限された科目からあぶれた学生をどんどん放り込まれて、
とんでもない数になった学生をかかえて、
(なにしろ、もともと大教室の講義型の授業なので)、
一人ずつ丁寧に見るなんて、不可能になっているので、
やる気も何も奮い立たせることができなくて、はじめから疲れている。
そういう鬱っぽい状況なので、
整理しようとして、母の残した日記を読むと、
ネガティブな受け止めをしてしまう。
私がまだ、ものすごく仕事に追われていた頃、
父がぼけ始めていた頃、
私の夫が亡くなった年。
母にとって、私は、母の世話をしたり、母に気を遣う立場なのはデフォルトなので、何をしても、一切、有難いとは書いていない。
当たり前だから。
しかし、孫については、とても有難がる。
そういう記述がある。
何かあれば私を頼り、それに私がこたえるのが、母の当たり前だった。
私の都合は関係がない。
私の気持ちも関係がない。
母にとって、私は、「使える」か、「使えない」か、だけなのだ。
父が亡くなって母が私の家の近くに転居してきて、
まだ、夫の姉(長女ではなく次女の方)が元気だった頃、
母と娘を誘って、義姉と一緒にランチをした。
いつものように、義姉は、ほとんど一人でしゃべり続けていた。
その日は、いかに自分が父親に褒められたか、
どういうところが褒められたか、母親からはなんと言って評価されていたかをしゃべり続け、
ふと、自分ばかり話しているのに気付いたのか、
「M吉さんは、どうなん? どんなとこを褒められた?」と私に話を向けた。
私は特に何の感情も込めずにこたえた。
「私、親に褒められたことないねん」と。
それが、私のデフォルトだったから、何の感情もなかった。
義姉は、特に興味がなかったのだろう、それに対して、反応はしなかった。
が、私の隣に座っていた母が、のけぞったように背をそらした。
そして、つぶやいた。
「褒めたこと、ないねぇ」と。
義姉は、それらに一切興味がなかったらしく、話は、また彼女の思い出話(それも、幸せな感じ)に戻ったと思う。
それだけの出来事だが、私の中に強く残っている。
母は、なぜびっくりしたのか?
考えたこともないことが言語化されて、驚いたのか、
義姉の前でそのようなことを話題にされるのがいやだったのか、
わからない。
それだけのことだ。
が、時々、大事にされなかった子ども時代の自分を思い出す。
父は、美しくて優しい自分の妻に子どもを任せておけばよいと思っている。
自分が叱り役、妻がなだめ役だと思っている。
ステレオタイプでしか女性を理解できない父に、複雑な母のメンタルなど推し量りようもない。
もちろん、子どもに、特に女の子どもに、「頭」や「心」があるなど考えたことすらない。
一人っ子なのに、あまりにも人格を無視された子ども時代だ。
しかし、物だけは豊かに与えられた。
学期が変わるごとに、文房具がすべて新品になる。
上靴は、汚れたら新しい物に買い替えられる。
(母は、ズック靴を洗う、ということを知らなかったらしいが。)
いつも新しいきれいな洋服を身につけ、
誰も持っていないような特別製の折り畳みの木琴や、
一斉購入ではないきれいな色の硯箱を持ち、
絵具セットも、写生の度に、新しい物を揃えてもらう。
チューブから思い切り絵具を出す私に、友達が「うわ、いっぺんにたくさん出してる」とびっくりしたので、こっちもびっくりした記憶がある。
そのような生活を送りながら、毎日のように、父親と紛争を繰り返していた。
父にすれば、楽な生活をさせてやっているのに、感謝どころが反抗する私を、全く理解できなかっただろう。、
父はしょっちゅう嫌がらせを言い、それに堪えない私を母が嫌う。
今思えば、父が私に嫌がらせを言う理由は、私を褒めたりかわいがると、母が不機嫌になるせいだったのかもしれない。
だから、無意識に私をこき下ろすことで、私への関心を表明していたのかもしれない。
極端に母を慕い、極端に父を嫌ったのは、母の無意識の罠にかかっていたのかもしれない。
母は、父に頼りながら、それほど父を評価していたわけではなかったと思う。
昔の女は、好きではないけれど、生活のために結婚して、添い遂げたのだと思う。
そんなこんなを鬱の中で思い出したり、
解釈し直したり。
先が見えない。
気持ちが沈まない手立てを考えつつ、一人でいると、ろくでもない状況に陥る。
いつまで持つかなぁ。
それも、長寿を全うしたわけではない人が亡くなると、
死神が隣に来たような気がする。
この事態の中で、生き延びるのだろうか。
あちらこちらが痛むような、不安なような、
鬱っぽい心地がする。
今、病気になって、助かる見込みは薄い。
もちろん、持ち前の免疫力で自己回復する場合もあるだろう。
これまでの経験で、
医療ができることはそんなに多くなく、
実際には、その人の自己回復力にかかっているのだろうと、思うことが多い。
もちろん、その自己回復をサポートするのが医療なのだが、
だから、医療が崩壊すると、そこをサポートすることができなくなるので、
助からない、ということが起きるのだろうと、思う。
だから、自己回復力と、それをサポートする医療の両方が要るのだろう。
大学の授業がオンラインになって、
出かけることもなくなった。
人数制限された科目からあぶれた学生をどんどん放り込まれて、
とんでもない数になった学生をかかえて、
(なにしろ、もともと大教室の講義型の授業なので)、
一人ずつ丁寧に見るなんて、不可能になっているので、
やる気も何も奮い立たせることができなくて、はじめから疲れている。
そういう鬱っぽい状況なので、
整理しようとして、母の残した日記を読むと、
ネガティブな受け止めをしてしまう。
私がまだ、ものすごく仕事に追われていた頃、
父がぼけ始めていた頃、
私の夫が亡くなった年。
母にとって、私は、母の世話をしたり、母に気を遣う立場なのはデフォルトなので、何をしても、一切、有難いとは書いていない。
当たり前だから。
しかし、孫については、とても有難がる。
そういう記述がある。
何かあれば私を頼り、それに私がこたえるのが、母の当たり前だった。
私の都合は関係がない。
私の気持ちも関係がない。
母にとって、私は、「使える」か、「使えない」か、だけなのだ。
父が亡くなって母が私の家の近くに転居してきて、
まだ、夫の姉(長女ではなく次女の方)が元気だった頃、
母と娘を誘って、義姉と一緒にランチをした。
いつものように、義姉は、ほとんど一人でしゃべり続けていた。
その日は、いかに自分が父親に褒められたか、
どういうところが褒められたか、母親からはなんと言って評価されていたかをしゃべり続け、
ふと、自分ばかり話しているのに気付いたのか、
「M吉さんは、どうなん? どんなとこを褒められた?」と私に話を向けた。
私は特に何の感情も込めずにこたえた。
「私、親に褒められたことないねん」と。
それが、私のデフォルトだったから、何の感情もなかった。
義姉は、特に興味がなかったのだろう、それに対して、反応はしなかった。
が、私の隣に座っていた母が、のけぞったように背をそらした。
そして、つぶやいた。
「褒めたこと、ないねぇ」と。
義姉は、それらに一切興味がなかったらしく、話は、また彼女の思い出話(それも、幸せな感じ)に戻ったと思う。
それだけの出来事だが、私の中に強く残っている。
母は、なぜびっくりしたのか?
考えたこともないことが言語化されて、驚いたのか、
義姉の前でそのようなことを話題にされるのがいやだったのか、
わからない。
それだけのことだ。
が、時々、大事にされなかった子ども時代の自分を思い出す。
父は、美しくて優しい自分の妻に子どもを任せておけばよいと思っている。
自分が叱り役、妻がなだめ役だと思っている。
ステレオタイプでしか女性を理解できない父に、複雑な母のメンタルなど推し量りようもない。
もちろん、子どもに、特に女の子どもに、「頭」や「心」があるなど考えたことすらない。
一人っ子なのに、あまりにも人格を無視された子ども時代だ。
しかし、物だけは豊かに与えられた。
学期が変わるごとに、文房具がすべて新品になる。
上靴は、汚れたら新しい物に買い替えられる。
(母は、ズック靴を洗う、ということを知らなかったらしいが。)
いつも新しいきれいな洋服を身につけ、
誰も持っていないような特別製の折り畳みの木琴や、
一斉購入ではないきれいな色の硯箱を持ち、
絵具セットも、写生の度に、新しい物を揃えてもらう。
チューブから思い切り絵具を出す私に、友達が「うわ、いっぺんにたくさん出してる」とびっくりしたので、こっちもびっくりした記憶がある。
そのような生活を送りながら、毎日のように、父親と紛争を繰り返していた。
父にすれば、楽な生活をさせてやっているのに、感謝どころが反抗する私を、全く理解できなかっただろう。、
父はしょっちゅう嫌がらせを言い、それに堪えない私を母が嫌う。
今思えば、父が私に嫌がらせを言う理由は、私を褒めたりかわいがると、母が不機嫌になるせいだったのかもしれない。
だから、無意識に私をこき下ろすことで、私への関心を表明していたのかもしれない。
極端に母を慕い、極端に父を嫌ったのは、母の無意識の罠にかかっていたのかもしれない。
母は、父に頼りながら、それほど父を評価していたわけではなかったと思う。
昔の女は、好きではないけれど、生活のために結婚して、添い遂げたのだと思う。
そんなこんなを鬱の中で思い出したり、
解釈し直したり。
先が見えない。
気持ちが沈まない手立てを考えつつ、一人でいると、ろくでもない状況に陥る。
いつまで持つかなぁ。
謹賀新年! ― 2020/01/05 12:25
ブログを閉じると言いながら、結局、閉じられないで年を越してしまった。
おめでとうございます、と言うには、
おめでたくないことが多すぎて、言えない。
来年度で、いよいよ仕事を終わるみたいだ。
細々と、獣道みたいな荒れた険しい道を歩いていた。
この先、道は開けるのだろうか、いや、どうもこの悪路は続きそうだ、
などと心細いまま、とにかく歩き続けるのに必死だった。
やがて、この道はなくなるだろう、と知っていた。
もう少し続いて、道は途絶えるのだろうと思っていた。
ら、いきなり、道の先に岩壁が立ちはだかった。
うそだろう? え? 細く細く続いてやがて道が消えると思っていた。
いつでも、予想外の展開だ。
いきなり、道がなくなった。
岩壁で、道は終わる。
そうだったのね。いきなりだったのね。
子どものころ、翌日、楽しみなことがあると、
それが、ダメになる可能性を、考えつく限り考えて、ショックに備えようとしていた。
親が翌日お出かけに連れてくれる日など、無邪気に喜び、
やがて、夜、寝床の中で、それが打ち砕かれるのではないか、
打ち砕かれるとしたら、理由は、あれか、これか、、、とあらゆる可能性を想像した。
が、翌朝、その想像以外のことで、やっぱり打ち砕かれた。
理由は、父の急な仕事、母の気まぐれのどちらかに分類されるが、
その中身は、子どもの私がそれまでの経験から予想した通りではなく、また新たな理由が付け加えられた。
よそ行きの服を着て、家の玄関を出たり入ったりして母を待っていた私の耳に、
母の不機嫌な声が響いたのを昨日のように覚えている。
「私は行かないから、お父さんと二人で行きなさい」と。
そのときの母の不機嫌の理由はわからない。
着て行きたい服が見つからない、
吹き出物ができてしまった、
そんな理由だった時の記憶がある。
子どもをがっかりさせることには、何の気遣いもない母だった。
父と二人で出掛けたってうれしくない。
父も母が行かないのに行きたくなかったのだろう。
結局、せっかく着ていたよそ行きの服を悲しい気持ちで脱いだ記憶が何度もある。
小さなころからそんな繰り返しで、いつも、キャンセルの心の準備はある。
が、予想外でぶちのめされるね。
もうちょっと続くはずの細い細い道。
でもその「ちょっと」が続かなかった。
あと一年、仕事は続くと思っていたら、
就業規則が書き換えられていて、あと半年なのだそうだ。
秋から、私、腑抜けになるかも。
生きていたら、ね。
半年後のことは、もう考えない。
来年度の前半をとにかく全力投球するしかない。
昨年夏、命拾いをしたので、もう大丈夫だと言う人が多いが、
私はそれほど楽観していない。
昨日、命拾いをしても、次の日、命を落とすことだってあるのだ。
期待が薄い分、失望に対する弾力は多少あるかも。
が、あの手この手で、よくもまぁ、こんなに失望の材料が繰り出されてくるなあ、という感じはする。
失意、無念。自分の人生を言葉で表せばこの二語かも。
あと、諦念かな。
母も、あきらめの達人だったところがある。
かなわない希望は抱かない、
未来は開けるはずがないから、夢も持たない。
母の人生も、うまくいかない連続だったのだろう。
で、結局、身の丈に合った見える範囲の生活設計だけを考える、リアリストになった。
身の程を知れ、という昔の人の言い方は、
多くの人がかなわない希望は最初から持たないという、自己防衛の機制の戒めだったのだろう。
私が育った文化は、根暗の文化だったが、
日本というこの国自体が、根暗文化なのだろうね。
非寛容で、内向きで、事なかれ主義の中で、
強い者だけが勝ち上がっていく社会がつくられている。
戦後、妙な「希望の花」が咲いたのは、
焼け跡から芽を吹いた生命を見た人たちの健気なイリュージョンだったのかも。
むやみな期待はしないけど、民主主義を理想に掲げる姿勢だけは堅持しようと、年頭に思うおばあさんの私。
焼け跡世代のチョイ後の世代の私は、大人たちの希望に満ちた顔を見たので、
(学校の先生たちが、民主主義への希望をうれしそうに語るのを見たので)、
それは大事だと信じているのだ。
民主主義や人権思想は、人類の最も美しい発明だと思っているのだ。
生きている限り、その夢だけは見ようと。
今年の9月は、満年齢で古希だ。
おめでとうございます、と言うには、
おめでたくないことが多すぎて、言えない。
来年度で、いよいよ仕事を終わるみたいだ。
細々と、獣道みたいな荒れた険しい道を歩いていた。
この先、道は開けるのだろうか、いや、どうもこの悪路は続きそうだ、
などと心細いまま、とにかく歩き続けるのに必死だった。
やがて、この道はなくなるだろう、と知っていた。
もう少し続いて、道は途絶えるのだろうと思っていた。
ら、いきなり、道の先に岩壁が立ちはだかった。
うそだろう? え? 細く細く続いてやがて道が消えると思っていた。
いつでも、予想外の展開だ。
いきなり、道がなくなった。
岩壁で、道は終わる。
そうだったのね。いきなりだったのね。
子どものころ、翌日、楽しみなことがあると、
それが、ダメになる可能性を、考えつく限り考えて、ショックに備えようとしていた。
親が翌日お出かけに連れてくれる日など、無邪気に喜び、
やがて、夜、寝床の中で、それが打ち砕かれるのではないか、
打ち砕かれるとしたら、理由は、あれか、これか、、、とあらゆる可能性を想像した。
が、翌朝、その想像以外のことで、やっぱり打ち砕かれた。
理由は、父の急な仕事、母の気まぐれのどちらかに分類されるが、
その中身は、子どもの私がそれまでの経験から予想した通りではなく、また新たな理由が付け加えられた。
よそ行きの服を着て、家の玄関を出たり入ったりして母を待っていた私の耳に、
母の不機嫌な声が響いたのを昨日のように覚えている。
「私は行かないから、お父さんと二人で行きなさい」と。
そのときの母の不機嫌の理由はわからない。
着て行きたい服が見つからない、
吹き出物ができてしまった、
そんな理由だった時の記憶がある。
子どもをがっかりさせることには、何の気遣いもない母だった。
父と二人で出掛けたってうれしくない。
父も母が行かないのに行きたくなかったのだろう。
結局、せっかく着ていたよそ行きの服を悲しい気持ちで脱いだ記憶が何度もある。
小さなころからそんな繰り返しで、いつも、キャンセルの心の準備はある。
が、予想外でぶちのめされるね。
もうちょっと続くはずの細い細い道。
でもその「ちょっと」が続かなかった。
あと一年、仕事は続くと思っていたら、
就業規則が書き換えられていて、あと半年なのだそうだ。
秋から、私、腑抜けになるかも。
生きていたら、ね。
半年後のことは、もう考えない。
来年度の前半をとにかく全力投球するしかない。
昨年夏、命拾いをしたので、もう大丈夫だと言う人が多いが、
私はそれほど楽観していない。
昨日、命拾いをしても、次の日、命を落とすことだってあるのだ。
期待が薄い分、失望に対する弾力は多少あるかも。
が、あの手この手で、よくもまぁ、こんなに失望の材料が繰り出されてくるなあ、という感じはする。
失意、無念。自分の人生を言葉で表せばこの二語かも。
あと、諦念かな。
母も、あきらめの達人だったところがある。
かなわない希望は抱かない、
未来は開けるはずがないから、夢も持たない。
母の人生も、うまくいかない連続だったのだろう。
で、結局、身の丈に合った見える範囲の生活設計だけを考える、リアリストになった。
身の程を知れ、という昔の人の言い方は、
多くの人がかなわない希望は最初から持たないという、自己防衛の機制の戒めだったのだろう。
私が育った文化は、根暗の文化だったが、
日本というこの国自体が、根暗文化なのだろうね。
非寛容で、内向きで、事なかれ主義の中で、
強い者だけが勝ち上がっていく社会がつくられている。
戦後、妙な「希望の花」が咲いたのは、
焼け跡から芽を吹いた生命を見た人たちの健気なイリュージョンだったのかも。
むやみな期待はしないけど、民主主義を理想に掲げる姿勢だけは堅持しようと、年頭に思うおばあさんの私。
焼け跡世代のチョイ後の世代の私は、大人たちの希望に満ちた顔を見たので、
(学校の先生たちが、民主主義への希望をうれしそうに語るのを見たので)、
それは大事だと信じているのだ。
民主主義や人権思想は、人類の最も美しい発明だと思っているのだ。
生きている限り、その夢だけは見ようと。
今年の9月は、満年齢で古希だ。
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