私は甘かった、、、2024/03/06 14:18

ⅠTに弱い人は、アナログの世界では、結構、優秀な人が、私の周りには多い、ということを書いた。

そのことをわかってから、すっかり見る目が変わった。

が、私はまだ甘かった。
この人たちは、「わかったふり」をするのも、とてもうまいのだ。
いや、ふりではないのだろう。
本当に、その時はわかった気になるのだろう。

しかし、実際は、わかっていない、ということが最近、わかった。

懇切丁寧に説明したつもりで、
「なるほど」などと返事をされるから、わかってもらった、と思っていたが、
とんでもなかった。

正直に言う。
私はもう、お手上げ状態だ。
相手は、想像したよりはるかに、猛者だった。

ステンレスの板を見て、私が「つるつるしています」と言うと、
相手は、天然の岩石を持って、その平らな面を見ながら「はい、つるつるしています」と、答えているようなものか、、、。
あ~、わからん!
例えがおかしい・・・

みんな賢いのだから、私なんかができることは誰でもできると思っていたことは、全部、間違っていたし、
それどころか、そもそも見ている物が違っていた。

頭をかきむしりたいくらい、
私の懇切丁寧な説明も、わかるようになってもらおうと思う親切心も、
雲散霧消しそうだ。
ほんとうに、頭をかきむしっている・・・

人に寄り添うということのリスク2024/03/03 09:44

パワハラの被害者として、寄り添わねばならなかった人がいる。
立場上、寄り添う必要があった。
カウンセラーではなく、上司として。

難しい立場に追い込まれて、ものすごく厳しい状況ではあったが、
パワハラは放置できないので、がんばった。
その騒動は、ずいぶん昔の話なのだが、
結局、当事者ではなく、一番ダメージを被ったのは私のようだ。

最近、当の被害者と話をした。
彼女はとっくに乗り越えていて、また、私に悩みを打ち明けてきていた。
この人との関係はなんとなく続いていて、
話を聞く立場になるのだが、何度か、「え?」と思うような出来事もあった。
「伺います」と言っていたイベントに来なくて、後から、言い訳の連絡が来たり、(私は彼女に渡すはずの物を持って来ていて、大荷物と一緒にまた持ち帰る羽目になった)、
イベントの直前で必死の状態の私に電話をしてきて、オンラインに入れないから入れてくれと言ってきたり(それができるのも私だけという状況)、
自分の行為が、私をどれだけ困らせることなのかを理解していないようだ。

しかし、私は、そういう細事は忘れようとするタイプなので、まあ、彼女の未熟さには気づいていたが、やり過ごしてきた。
で、このたび、なかなかめんどくさいことに巻き込んでくれた。
この人と会話さえしなければ起こらなかったようなこと。
実にくだらないことで、ここに説明を書く気も起こらないが、
こういう巻き込み方をされる自分にもうんざり。

「上司」という立場だったころ、何人か、私を慕ってくれる人たちかいて、
中には、正義感は強いが、困ったこともやってくれる人などもいて、
「もう、かばいきれない」ような窮地に追い込まれて、困惑しきったことがある。
そういうタイプの人って必ずいるのだが、
結局、そういう人に頼られる(利用される)私の問題なのかもしれない、と改めて思う。

彼女たちは、私の窮状を理解する立場には就いたことがない。
しっかりと自立した人は、後に管理監督職などに就くようになるが、
永遠に部下の立場でい続ける彼女たちは、
生涯、自分の言動の意味を理解することはないのかもしれない。

私は、そういう人がいる、ということを理解しないといけないのだろう。

対等性、共感性、というようなことばかりを信じていると、
女性(敢えて女性というが)たちの、言動の病み具合が見えなくなる。
そこが見えていない私の欠点は、
「嫌われたくない」という思いでがんばってしまうところからきている。
「期待にこたえたい」という思いが、私を窮地へと導いてしまうことがある。

孤独であっても、たとえ、耐えがたい孤独であっても、
自分を「利用されない」賢さは要る。
相手は邪悪な人ではなく、善意で、単に無意識に、私に頼り、自分の辛さ、弱さを露出してくるだけなのだが、それは私が利用されることになるのだ。
手を離す必要がある。
いや、彼女たちは、自分の望み通りに、私が彼女たちを救う動きをしなければ、自分の方から手を離す人たちだ。
これはやはり「利用」だ。

賢く、強くならないといけないのは私だ。
古希を過ぎて、まだこんなことを考えているのは我ながら情けないが、死ぬまで自己改革をし続けるしかないのだろう。

成長しない人2024/03/02 16:20

久々に、成長しない人というのを目の当たりに見た。

少女のような純粋な心と、正義感とで、生きている人だ。
世の中の複雑さについていけない人でもある。
自分はずっと、非正規のままだと思うけれど、
管理職に行く人は、非正規の雇用労働者の問題をわかって解決するべき立場だから、そうでない人が管理職になるなんて、と泣いていた。
50歳を過ぎた人が、そう言って泣くのだ。

もう、勘弁してくれ~。

泣かないで闘おうよ。

私は50歳を過ぎた人に、そんな幼稚な論理を言い立てられて、泣かれて、それでもやさしくその人に寄り添うほど、気が長くない。
もう、無理だわ。

50年以上も生きてきて、この世の複雑さも、立場が変われば見える風景も変わる、ということも全く理解していない。
一元的な正義感だけで、周りの出来事を判断している。

正義感も価値観も、私自身、変わらないが、
世の中の複雑さ、くらいはとうに知っている。
だから、どう闘うのか、考えなければならないのだ。

そうか、だから、だったのか。
50歳を過ぎて専門的職業に長くいながら。管理監督的立場に取り立てられなかったのは、だから、だったのか。
こんなに成長しない人を、初めて知った。
この世は多角的に見ないと、理解できない。
子どもの頃のような単純な目では読み解けないのだ。

同じ分野に長くいて、請われて管理的立場に就いてきた私は、この人のように狭い正義感だけを振りかざして、それがかなわないからと、泣くほどアホではなかった、ということか。

参ったね。
多くの人がこの人を重用しなかった理由が、今、わかる。
今頃、わかるのは、私があんまり賢くなかったからかしら?

少なくとも、自分のふるまいを振り返る。
自分の落ち度も、点検する。
せめてそれをやらないと、他人を責めるだけでは、人は成長できない。

泣く人、怒る人、成長しないね~。

人との関係で一つわかったこと2024/03/01 10:15

長年の近しい友人が、あんまり親しくない人にはものすごく優しいのに、
私には、えらそうで、粗雑に扱うので、
嫌な感じはするのだけど、
あんまり、友達のいない私は、それでも縁を切れない。

私が、文句を言う時は、
その瞬間は、
一生、絶交することになってもやむを得ない、という気持ちで言う感じだった。

この世に別れを告げる覚悟は、子どもの頃からあって、
最後は死んでしまったらおしまいだから、
もう、どうでもいいや、という気持ちになる。
子ども時代に絶望感をさんざん味わった、というのは、そういう心性を育てたということだ。
私を養育した人たちは、私に心があると考えたこともなかったのだろうと思う。
自分たちがおこなっていることを、世間で言う「虐待」とは想像もしなかっただろう。
物質的に満たしてやっているのだから、これ以上に良い親はいないと思っていたようだ。
私を
「人間の屑」だの、
「出来損ない」だの、
「欠陥品」だのと罵り続けた。
こういうことを言われ続けた子どもが、「自分は生きる価値がない」と思うようになるのは当然なのだけど、
大人になって少しずつ、自分にも生きる価値がある、と思えるようになって、
人生の色が変わってきた。
それでも、子ども時代の親の呪詛は追い払えないから、辛いことがあると、つい、自分を「消す」という行為に直結して考える。
子ども時代の虐待は、脳に影響を与える、という研究はあって、身体的虐待でなくても、脳に何らかの損傷を残すのだろうということは、納得のいく話だ。
脳内の化学作用はその人の「本質」に近くなるだろうと、私も考えている。

私は、友人と思っている人に、苦情を言うときは、それなりに、覚悟を持って言ってきた。
が、有難いことに、(ここはほんとうにありがたいことに)、
友人たちは、それで私と縁を切らなかった人がほとんどだ。

逆に、そのために、私と縁を切った人は、私がその人にとってそれだけの位置にいたということか、
あるいは、その人自身が、「絶望」をいつも溜めていたか、だと思う。

心が健康な人は、それだけでは縁を切らない。
私の苦情が覚悟の上だったとしても、
その人を全否定しているわけではないことをわかっている人は、
その一事をもってして、私と縁を切ろうとはしない。
こういう心の健康な人によって、私は生かされてきたのだなと思う。

そして、冒頭の近しい友人だが、
他の人にはとても親切で優しいのに、
私にはぞんざいになるのはなぜか、ということを尋ねたら、
(これは苦情ではなく、疑問形で尋ねた)、
「あなたは少々、雑なことを言っても、関係は変わらないから」と答えた。
あ、そういうことか、と初めて知った。
私は他人にそういう安心感を持たないから、いつも「覚悟」が要ったのだ。

その人は、近くにいる人ほど、雑に扱うように見える。
自分の母親には特に雑だ。
そんなことで文句を言わなくても、と思うようなことで、
ずけずけと文句を言っている。
が、一方で、母がうるさいから、と気も使っている。
たぶん、ずけずけと文句を言い合う親子なのだろう。
だから、お互いに喧嘩をしては気を使い合う日常のようだ。

私はそのような日常には疲れるので、それはしたくない。
子ども時代、父親にさんざん嫌がらせを言われ、
呼吸するように文句を言われ続けて、
それが当たり前になってしまっていた。
それに対して、抗弁しては喧嘩になり、最後は「口答え」を封じる父親によって暴力をふるわれ、泣き寝入りしてきた。
その父のやり方は私にもしみついた習慣になって残っていて、
結婚相手にも文句を言い続けたし(彼はほとんど聞いていなかったけど)、
近しい友人にも同じことをしていたと思う。

ある日、そのことに気づき、父の影響だと気づいて、
ピタッとやめた。
無意識の習慣になっていることを止めるのは、相当な気づきと自己改革が要る。
いろいろな気づきの集積によって、ようやくこの悪癖から逃れた(と思う)。

母は、この悪癖を持たなかったので、(私には冷たい人だったけど)、母の振る舞いに学ぼうとした。
それも無意識の内なのだが、母の振る舞い方を取り入れた。
私の中には「母」もいたので、「父」を駆逐して、「母」を採用したのだ。

が、件の友人は、自分の母親の習慣から抜け出せない。
母親と同居しているので、その習慣を日々生きている。
この友人の母親も、外面は極めて良い。
が、娘にはごちゃごちゃとうるさいらしい。
私は、この友人の習慣のとばっちりを受けてきた。
が、ある時、大喧嘩になって、それで彼女は以前より、ガミガミ言わなくなった。
しかし、私の中には、しこりが残り続ける。
それでも、距離を置けば、気の置けない友人でいられるので、なんとなく友人関係は続いている。
そして、彼女は、私には縁を切られないと、信じているということがわかった。
そうだろうな、どんな扱いを受けても、私から縁を切ったことはない。
私はたいていは、縁を切らない。
仕方がないからだ。

子ども時代の父に比べたら、まだましに感じる人が多い。
なにしろ、いつでも縁を切れる関係というのは、うんとましだ。
子ども時代には、親とは縁を切れない。
あの悪夢を生きたので、今はこの世はまだましだ、という気分で生きてはいる。
どんなに寂しくても、今はましだ。

ITに弱いって、、、2024/02/15 20:06

私の世代は、びっくりするくらい、ITに弱い人が多い。

で、いろいろな相談に乗ってきた。
私の認識では、どの人も賢い人ばかりだから、やったらできるのに、
どうして、やろうとしないのだろう、ということだった。

その背景にあるのは、
私だってできるのだから、あの人ができないはずがない、
という思い込みだった。

そして、それが、思いもかけない覆り方をした。
先日、ITで仕事をしている友人に言われた。
その認識は間違っている、と。
あなたは、かなり、興味を持っている人で、それは興味のない人に比べて、質が違うのだ、と。
アナログ時代のスキルに長けた人は、それを捨てられない。
しかし、デジタルのスキルは、全く考え方から違うのだから、一旦、その古いスキルや考え方を捨てなければ学べない、のだと。
「優秀な人」というのは、できない理由かも、と。

あ、そうか、と納得した。
優秀な彼女たちは、アナログ時代の知識やスキルに優れていて、成功した人たちだ。
成功したツールは、捨てられないものだ。
この成功の蓄積の上に、次への発展があると、通常、考えがちだからだ。
しかし、デジタル時代の価値観やスキルは、それらを一度、捨てないと、脳に根付かない。
友人はそいういう表現はしなかったが、
なるほど!と膝を打った。
彼女たちは、優秀だ。
だから、ITができないのだ。

私は、いつも過去を捨てている。
捨てないと、生きていられなかったから。
中には、自分の業績っぽいものまで、平気で捨てて来たから、
必要な時にない、という不具合がたくさんあって、
自分のことを困った奴だと思って来たし、
実際、困った奴なのだけれど、
ITという新しいステージでは、このやけっぱち感がよかったようだ。
おかげさまで。

そう言えば、私のまわりのITに弱い人たち、
ほんとうに優秀な現役時代を送ってきて、
今でも過去の業績を誇りに思っているような人もいて、
もう、そのアナログのステージでしか、生きないのかもしれない。
言われてみれば、そうだな~と、面白い現象だ。