中途半端2020/03/11 10:31

ボーダーにいるということは、
どこにも所属しにくいということ。

様々な分野で、カテゴリー分類がなされる。
しかし、自分が、明確にそのカテゴリーにはまらないと感じるとき、
自分は何だろう? と悩むこともある。
「人はいろいろよね~」と言うのはたやすい。
しかし、場面によっては、深刻だ。

まぁ、最もその感を強める一つは、
病気のとき。
漢方には、「未病」という概念があると、テレビCMでやっていた。
これは、便利なことばだと思った。
何らかの不調で病院に行っても、
原因がわからない、診断名がつかない、ということが多い。

私の経験では、大病の時だけ、病名がはっきりついた。
その重篤な病気と判明しない間は、
「しばらく様子をみましょう」という医者の言葉で終わる。

もっと、不調が曖昧なことも多い。
病院へ行くほどではないかも、とか、
2、3日、寝込んだけど、結局回復したときとか、
何が起こっていたのかさっぱりわからない。
この3日ほど、めまいが激しかった。
また、何か起こっているのか、と思ったが、今朝はましになっている。

こんなふうにからだの経年劣化とつきあって、
いよいよあきません、という頃に、生命を終えるのだろうな。
「あんまり丈夫ではなかった」というのが、
その総括となるのかな。
名無しの、中途半端な者は、それが精いっぱいの表現。
「名づけ」があって、自分を語る名詞があると、楽になることが実は多い。

アイデンティティが固定しない、というのは、心の不安定を生む。
うんと若い頃、「主婦」というアイデンティティがなくて、
周囲は誰もが、私のことを「主婦」と思っているのに、
私自身がそういう自己認識が持てなくて、
ほんとうに不安定だった。
私は何者? と問いたくなる状況なのだ。

私は私、と胸を張って言える、というのはかなりまれなケースだ。
いや、そういうタイトルの本もあったが、それは、「宣言」であって、
アイデンティティではなかったかもしれない。
そういう考え方を表明することで、自分を固定させようとしておられたのかもしれない。

アイデンティティというのは、他との差別化であるので、
時に、社会的差別と連動する。
だから、ある意味、ヤバいものでもある。

名づけがなければ成り立たない言語活動をする厄介な生き物である私たちは、
「ありのまま」とか、
「そのままで」とか、
そういうわけにいかないのだな。
この中途半端さに、四六時中耐えられるというのは、どんな境地だろう、と
朝から愚にもつかぬことを思ったりしています。