記録を残すということ ― 2014/04/09 06:16
なんか、たいそうなタイトルですが、いえいえ、平易な考察です。
ある団体で、自分たちの活動につながる過去の出来事を調べて、年表にするという作業をしてみました。若い人が、過去に学ぼうと企図したことです。でも、あんまり、記録がないのです。参加者の記憶が頼りです。
そもそも関西の出来事は、東京に比べて仔細に調べられていない、ということがあります。私は、関西で、最初に、ある種のイベントを行ったのですが、自分自身もちゃんと記録をしておらず、いつだったのか、ということすら思い出せませんでした。が、東京のある団体が、関連年表をサイトにアップしていて、私が主催したイベントのことも書いてくれていました。
でも、その団体の人は、主催者は私だとは知らない。私に辛く当たっていた人が主催者だと思い込んで記録を残していたのは知っています。
そういう位置関係だったから。
それでも、それでいつだったかの記録がわかったので、まあよかったのですが。
それで、あらためて記録に残しておこうと資料を探しました。大探しをして、やっと出て来ました。懐かしい。ほとんど忘れていたけど、懐かしい。
いろいろな人が関わってくれて、その時借りたホールは、普段閑古鳥が鳴いていたのですが、その時ばかりは、たくさんの人がやって来ました。
さらにいろいろ思い出そうとするのですが、基本的に私は自分がやったことをきちんと残しておく、ということができません。
昔、娘に、「自分の載った新聞記事なんか残しておいたら、おじいちゃんは新聞記事のスクラップが趣味なのだから、喜ぶのに」と言われ、一度、自分の記事を父に渡したことがあります。でもその時はすでに、ちょっと呆け始めていたのかもしれません。私の写真入り記事は、凶悪大量殺人事件の横に貼られていました。(^^)
友人に「講演記録などは残していくと役に立つよ」と忠告されたこともあるのですが、私の悪い癖で、消えて行くものは消えゆくままに放置します。で、最も困るのは、仕事の採用にあたって、提出を求められる「社会教育活動」などの業績書を書くとき。数えきれないほどあるのに、記録がない。
自分自身が大事に残さないのですから、誰にも文句は言えません。
が、しみじみ思うのは、書かれなかったこと、伝えられなかったこと、残されなかったことは、なかったことになっていく、ということです。東京中心の活動体が記録を作ると、関西の活動があまり拾われません。
私たちの今回の作業も、記録として残さなかったことは、もはや拾う人もいなくなり、やがてなかったことになっていくでしょう。ある言葉を新聞紙上で初めて使った小さなコラム記事があります。友人の記者に頼まれて書きました。その記念すべき新聞記事もどこに消えたのか、ありません。自分が書いたものくらい残せヨ、と、我ながら自分に呆れます。
そろそろ、友人たちも終活を始めている頃、私もこれまでの整理をした方がいいかなと思うのですが、どうも、「残さない」派で終わりそうです。
ある団体で、自分たちの活動につながる過去の出来事を調べて、年表にするという作業をしてみました。若い人が、過去に学ぼうと企図したことです。でも、あんまり、記録がないのです。参加者の記憶が頼りです。
そもそも関西の出来事は、東京に比べて仔細に調べられていない、ということがあります。私は、関西で、最初に、ある種のイベントを行ったのですが、自分自身もちゃんと記録をしておらず、いつだったのか、ということすら思い出せませんでした。が、東京のある団体が、関連年表をサイトにアップしていて、私が主催したイベントのことも書いてくれていました。
でも、その団体の人は、主催者は私だとは知らない。私に辛く当たっていた人が主催者だと思い込んで記録を残していたのは知っています。
そういう位置関係だったから。
それでも、それでいつだったかの記録がわかったので、まあよかったのですが。
それで、あらためて記録に残しておこうと資料を探しました。大探しをして、やっと出て来ました。懐かしい。ほとんど忘れていたけど、懐かしい。
いろいろな人が関わってくれて、その時借りたホールは、普段閑古鳥が鳴いていたのですが、その時ばかりは、たくさんの人がやって来ました。
さらにいろいろ思い出そうとするのですが、基本的に私は自分がやったことをきちんと残しておく、ということができません。
昔、娘に、「自分の載った新聞記事なんか残しておいたら、おじいちゃんは新聞記事のスクラップが趣味なのだから、喜ぶのに」と言われ、一度、自分の記事を父に渡したことがあります。でもその時はすでに、ちょっと呆け始めていたのかもしれません。私の写真入り記事は、凶悪大量殺人事件の横に貼られていました。(^^)
友人に「講演記録などは残していくと役に立つよ」と忠告されたこともあるのですが、私の悪い癖で、消えて行くものは消えゆくままに放置します。で、最も困るのは、仕事の採用にあたって、提出を求められる「社会教育活動」などの業績書を書くとき。数えきれないほどあるのに、記録がない。
自分自身が大事に残さないのですから、誰にも文句は言えません。
が、しみじみ思うのは、書かれなかったこと、伝えられなかったこと、残されなかったことは、なかったことになっていく、ということです。東京中心の活動体が記録を作ると、関西の活動があまり拾われません。
私たちの今回の作業も、記録として残さなかったことは、もはや拾う人もいなくなり、やがてなかったことになっていくでしょう。ある言葉を新聞紙上で初めて使った小さなコラム記事があります。友人の記者に頼まれて書きました。その記念すべき新聞記事もどこに消えたのか、ありません。自分が書いたものくらい残せヨ、と、我ながら自分に呆れます。
そろそろ、友人たちも終活を始めている頃、私もこれまでの整理をした方がいいかなと思うのですが、どうも、「残さない」派で終わりそうです。
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