自己肯定感 ― 2025/05/21 09:53
この手のテーマは、しょっちゅう書いているので、また同じ事の繰り返しかもしれないけれど、
人の生涯に大きい影響を与えるのは、
標題のこのことだと思う。
しみじみ思う。
人は、みな、少しずつ他の人とは違うものだ。
癖も、生活習慣も、体調も、あらゆる面が人それぞれだ。
共通点もあるが、違いもある。
それは、赤ちゃんの時から顕著だ。
それが、個性というものだろう。
が、その個性の違いを受け止められない養育者に育てられると、
子どもは災難だ。
自分そのものである部分を否定され、除去しようとされ、
自分であろうとすることが攻撃を受ける。
その子どもは、「その人自身」でいることを受け容れてもらえないのだから、
いつもびくびくといじけている子どもになる。
が、養育者によっては、
子どもの個性を当たり前のこととして理解しているので、
その子どもが、その子らしい部分を発揮することを妨げない。
「そういう子だ」と受容している。
矯正しようとはしない。
もちろん、社会のルールやマナーは教えるが、
その子がその子自身であることを否定したりはしない。
人はそれぞれ、みな異なるので、
それぞれその人らしいだけなのだが、
この、養育者の態度によって、人生の明暗が分かれる。
その子らしさを損なわれずに受容されてきた子は、
臆することなく、その子自身の個性を発揮して、
のびのびした自己認識を持つことになる。
が、その子らしさを否定され、叱られ、嫌われて育った子は、
自分が自分であることに引け目ばかり感じている。
自分は良くない存在だと思い込んで育つ。
いつもおどおどし、暗い人格を形成して大人になる。
以下のことも、嘗てここに書いたことかもしれないが、
また、書く。
忘れられないことだからだ。
以前、大教室で大人数の学生を教えていた。
ある時、同じ系列の科目を教えている専任の先生から、
「学生アンケートをとりたいので、M吉先生のところは学生数が多いから、アンケートに協力してほしい」と、頼まれた。
もちろん、二つ返事でOKである。
授業の最後の方で時間を取って、アンケートに回答するように学生に伝えた。
人数が多いので、教室を出るときに、教卓にアンケート回答を置いて出るように指示をした。
学生はそういうのは嫌がらない。
2~300人の学生が教卓に回答用紙を置いて、次から次へと出て行く。
そのアンケートは匿名だが、フェイスシートに「自分のことを好きかどうか」という設問があって、5段階のうちのどこかに回答するようになっていた。
学生が回答用紙を置くのを見守りながら、ある時から、用紙を置く学生の表情とフェイスシートの回答との関係に気づいた。
学生の表情が暗めの子は、必ず、「自分が嫌い」を選んでいた。
いきいきした、あるいは脳天気な顔つきの学生は、「自分が好き」のところをチェックしていた。
学生の表情を見てから回答を見ると、100パーセント、予想が当たった。
もちろん、学生たちは無表情なつもりだろう。
泣き顔でもなければ、一人で笑っているはずもない。
比較的豊かな家庭の、常識の通じる学生たちなので、普段の、一人でいるときの表情をしているだけだったろう。
が、憂いを帯びた顔と、前向きのいきいきした表情の違いは、見事に回答に反映されていた。
許されるなら、悲しげな学生一人ひとりを傍に呼んで、
「あなたはとても素敵な子よ、あなたのままで素晴らしいのよ」と伝えたくなった。
養育者は、子どもの間違った行為は正してやらないといけない。
が、その子どものその子らしさを正そうなどとしてはならない。
それは、その子自身であって、そこを否定すると、その子の魂は死ぬ。
魂は殺してはいけない。
あらためてこんなことを考えたのは、
私の友人たちをいろいろ思い浮かべて、
皆それぞれ、どこか変で、独特だ、と思ったからだ。
が、そのことを恥じるわけでも、悔いるわけでもなく、
堂々とその人自身である、という人が多い。
たまたま、私の交流関係は、高学歴で仕事に成功している人が多い。
高学歴で仕事に成功する、ということは、
満足度、幸福感が高い、ということと相関関係があるだろう。
だから、比較的、元気で明るめの高齢者が多いことになる。
もちろん、それも一概には言えない。
私の周りにはそういう人が多いようだ、というだけのことだ。
一方、昔、出会ったカウンセリングに訪れていた人たちは、
自己否定の権化のようだった。
一時的な「相談」ではなく、カウンセリングを必要とする人たちは、
「あなたはそのままで素敵なのよ」という言葉を聞きたかったのかもしれない。
が、カウンセラーからいくらその言葉を聞いても、
あまり効果はない。
カウンセリングの理屈を知り尽くしているその人たちは、
カウンセラーの決まり文句で慰められたりはしない。
必要だったのは、もっと幼い頃、
自己認識と共に成長するプロセスで、
その言葉を聞くことだった。
じゃあ、成長しきったら、もう回復できないのか。
いや、大人になっても好転することはあるだろう。
ただ、子ども時代に否定的に育てられた悲しみは残る。
心に傷は残るだろう。
それでもいいのだ。
完治はしないが、寛解まで持って行ければ、上上出来だ。
そんなことを考える今日この頃。
、
人の生涯に大きい影響を与えるのは、
標題のこのことだと思う。
しみじみ思う。
人は、みな、少しずつ他の人とは違うものだ。
癖も、生活習慣も、体調も、あらゆる面が人それぞれだ。
共通点もあるが、違いもある。
それは、赤ちゃんの時から顕著だ。
それが、個性というものだろう。
が、その個性の違いを受け止められない養育者に育てられると、
子どもは災難だ。
自分そのものである部分を否定され、除去しようとされ、
自分であろうとすることが攻撃を受ける。
その子どもは、「その人自身」でいることを受け容れてもらえないのだから、
いつもびくびくといじけている子どもになる。
が、養育者によっては、
子どもの個性を当たり前のこととして理解しているので、
その子どもが、その子らしい部分を発揮することを妨げない。
「そういう子だ」と受容している。
矯正しようとはしない。
もちろん、社会のルールやマナーは教えるが、
その子がその子自身であることを否定したりはしない。
人はそれぞれ、みな異なるので、
それぞれその人らしいだけなのだが、
この、養育者の態度によって、人生の明暗が分かれる。
その子らしさを損なわれずに受容されてきた子は、
臆することなく、その子自身の個性を発揮して、
のびのびした自己認識を持つことになる。
が、その子らしさを否定され、叱られ、嫌われて育った子は、
自分が自分であることに引け目ばかり感じている。
自分は良くない存在だと思い込んで育つ。
いつもおどおどし、暗い人格を形成して大人になる。
以下のことも、嘗てここに書いたことかもしれないが、
また、書く。
忘れられないことだからだ。
以前、大教室で大人数の学生を教えていた。
ある時、同じ系列の科目を教えている専任の先生から、
「学生アンケートをとりたいので、M吉先生のところは学生数が多いから、アンケートに協力してほしい」と、頼まれた。
もちろん、二つ返事でOKである。
授業の最後の方で時間を取って、アンケートに回答するように学生に伝えた。
人数が多いので、教室を出るときに、教卓にアンケート回答を置いて出るように指示をした。
学生はそういうのは嫌がらない。
2~300人の学生が教卓に回答用紙を置いて、次から次へと出て行く。
そのアンケートは匿名だが、フェイスシートに「自分のことを好きかどうか」という設問があって、5段階のうちのどこかに回答するようになっていた。
学生が回答用紙を置くのを見守りながら、ある時から、用紙を置く学生の表情とフェイスシートの回答との関係に気づいた。
学生の表情が暗めの子は、必ず、「自分が嫌い」を選んでいた。
いきいきした、あるいは脳天気な顔つきの学生は、「自分が好き」のところをチェックしていた。
学生の表情を見てから回答を見ると、100パーセント、予想が当たった。
もちろん、学生たちは無表情なつもりだろう。
泣き顔でもなければ、一人で笑っているはずもない。
比較的豊かな家庭の、常識の通じる学生たちなので、普段の、一人でいるときの表情をしているだけだったろう。
が、憂いを帯びた顔と、前向きのいきいきした表情の違いは、見事に回答に反映されていた。
許されるなら、悲しげな学生一人ひとりを傍に呼んで、
「あなたはとても素敵な子よ、あなたのままで素晴らしいのよ」と伝えたくなった。
養育者は、子どもの間違った行為は正してやらないといけない。
が、その子どものその子らしさを正そうなどとしてはならない。
それは、その子自身であって、そこを否定すると、その子の魂は死ぬ。
魂は殺してはいけない。
あらためてこんなことを考えたのは、
私の友人たちをいろいろ思い浮かべて、
皆それぞれ、どこか変で、独特だ、と思ったからだ。
が、そのことを恥じるわけでも、悔いるわけでもなく、
堂々とその人自身である、という人が多い。
たまたま、私の交流関係は、高学歴で仕事に成功している人が多い。
高学歴で仕事に成功する、ということは、
満足度、幸福感が高い、ということと相関関係があるだろう。
だから、比較的、元気で明るめの高齢者が多いことになる。
もちろん、それも一概には言えない。
私の周りにはそういう人が多いようだ、というだけのことだ。
一方、昔、出会ったカウンセリングに訪れていた人たちは、
自己否定の権化のようだった。
一時的な「相談」ではなく、カウンセリングを必要とする人たちは、
「あなたはそのままで素敵なのよ」という言葉を聞きたかったのかもしれない。
が、カウンセラーからいくらその言葉を聞いても、
あまり効果はない。
カウンセリングの理屈を知り尽くしているその人たちは、
カウンセラーの決まり文句で慰められたりはしない。
必要だったのは、もっと幼い頃、
自己認識と共に成長するプロセスで、
その言葉を聞くことだった。
じゃあ、成長しきったら、もう回復できないのか。
いや、大人になっても好転することはあるだろう。
ただ、子ども時代に否定的に育てられた悲しみは残る。
心に傷は残るだろう。
それでもいいのだ。
完治はしないが、寛解まで持って行ければ、上上出来だ。
そんなことを考える今日この頃。
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ミーハーな話 ― 2025/05/15 11:35
私の周りには、映画好きな人は結構多いのだけど、どなたも、ポリティカルな題材を扱った映画を好んで見ていて、単館映画館に足を運んで、世界の情勢や歴史的事件に強い関心を寄せている。
私もそういう映画も観るのだが、でも、いわゆるエンターテインメントの方をもっと好きなので、話の合う友達が少ない気がする。案外、会ってその話題を出すと、いけるのかなあ、、、。折り目正しい友人たちに、私の低俗ぶりを見せる勇気がない。
ま、次の話題は、そう低俗ではないかも、なにしろ、超古い映画が題材だから。
今、配信で、『何がジェーンに起こったか』という往年の名画を題材に、ベティ・デイビスとジョーン・クロフォードの確執を描いためっちゃ面白いドラマを見ている。が、配役がベティ・デイビスがスーザン・サランドンで、ジョーン・クロフォードがジェシカ・ラングなのだ。私は、役柄は絶対、逆だと思っていて、物語が進んでも、どうしても、スーザン・サランドンがジョーン・クロフォードだと思い込んでしまっていて、修正が効かない。なぜ、この二人の配役を逆にしたのだろうと不思議で仕方がないのだ。
監督がライアン・マーフィーなので、女性の特徴を見分けるのが、私とは違うのかと思ったりするのだが。ドラマ自体はものすごく面白いのだけど、何度も混乱している。
これって、どういう人たちと共有できる話題なのだろう?
「特定生殖補助医療法(案)」について、怒っている人たちに受ける話だろうか?
芸術と思想はそんなに簡単に分けられない。が、いわゆる「ミーハー」と呼ばれる類のエンターテインメントというものがある。私が、どれくらいそれを好んでいるのかがどうもよくわからない。
今、テレビに頻出している芸(能)人の話題のたいていは、私は興味がない。しかし、ポピュラーカルチャーにも心惹かれるものはある。
「ミーハー」という名付け自体に意味がないのかもしれない。歌舞伎だって、江戸時代は大衆文化の最たるものだったろうし。
今、「ミーハー」をググったら、流行にのりやすい軽薄さ、ということを表現するようだ。
そうだなぁ、語感では、大衆的な軽薄さ、というイメージだけど、子どもが「ポケモン」を好きでも「ミーハー」とは言わないしなぁ、、、。
何を言いたくてこのブログを書いているかと言うと、
趣味や好みの合う友達がいないなぁと思うから、、、。
私もそういう映画も観るのだが、でも、いわゆるエンターテインメントの方をもっと好きなので、話の合う友達が少ない気がする。案外、会ってその話題を出すと、いけるのかなあ、、、。折り目正しい友人たちに、私の低俗ぶりを見せる勇気がない。
ま、次の話題は、そう低俗ではないかも、なにしろ、超古い映画が題材だから。
今、配信で、『何がジェーンに起こったか』という往年の名画を題材に、ベティ・デイビスとジョーン・クロフォードの確執を描いためっちゃ面白いドラマを見ている。が、配役がベティ・デイビスがスーザン・サランドンで、ジョーン・クロフォードがジェシカ・ラングなのだ。私は、役柄は絶対、逆だと思っていて、物語が進んでも、どうしても、スーザン・サランドンがジョーン・クロフォードだと思い込んでしまっていて、修正が効かない。なぜ、この二人の配役を逆にしたのだろうと不思議で仕方がないのだ。
監督がライアン・マーフィーなので、女性の特徴を見分けるのが、私とは違うのかと思ったりするのだが。ドラマ自体はものすごく面白いのだけど、何度も混乱している。
これって、どういう人たちと共有できる話題なのだろう?
「特定生殖補助医療法(案)」について、怒っている人たちに受ける話だろうか?
芸術と思想はそんなに簡単に分けられない。が、いわゆる「ミーハー」と呼ばれる類のエンターテインメントというものがある。私が、どれくらいそれを好んでいるのかがどうもよくわからない。
今、テレビに頻出している芸(能)人の話題のたいていは、私は興味がない。しかし、ポピュラーカルチャーにも心惹かれるものはある。
「ミーハー」という名付け自体に意味がないのかもしれない。歌舞伎だって、江戸時代は大衆文化の最たるものだったろうし。
今、「ミーハー」をググったら、流行にのりやすい軽薄さ、ということを表現するようだ。
そうだなぁ、語感では、大衆的な軽薄さ、というイメージだけど、子どもが「ポケモン」を好きでも「ミーハー」とは言わないしなぁ、、、。
何を言いたくてこのブログを書いているかと言うと、
趣味や好みの合う友達がいないなぁと思うから、、、。
お正月とか連休とか、、、 ― 2025/05/03 11:10
世間が休みをうれしそうに語る頃、
私はいつも深い深い絶望と孤独にはまる。
まだ、ものすごく若い頃、
アメリカから来ている英語教師から、
日本に来ている外国人が、お正月に自殺する人が多い、という話を聞いて、ショックを受けたことがずっと尾を引いている。
旅行者は別として、一人で日本に住んでいる外国人は、
正月など、仕事が一斉に休みになり、
友人知己は家族で過ごす期間になり、
ひとりぼっちになる。
そのとき、絶望的な孤独感に苛まれるのだと言っていた。
海外ドラマで見るような、友人も招いてファミリーパーティを開く習慣がない日本では、
家族、あるいは親族で集まる時期である。
「赤の他人」は混じらない。
「家族水入らず」という言葉は、日本独特の表現かもしれない。
英語だと、family-only time のような、普通のワードを組み合わせた表現しかないような気がする。
独特の意味内容を持つ言葉は存在しないように思う。
独特のワードを持つのは、それが特別な意味内容を持つ概念だからだ。
そして、この「家族水入らず」の習慣が、日本で一人で暮らす外国人を絶望的な孤独に突き落とすのだ。
そして、実は、今、私がそういう状態だ。
日本人で、家族が日本国内にいても、
遠方に住んでいたり、あまり会わない関係であれば、
ひとりぼっちになってしまう。
かねてから、「団欒ネットワーク」などと称して、そうした孤独な一人暮らしの人同士がつながるイベントをやりたいと考えてきたが、場所がうまく見つからない、という具体的な事情で、実現できずにいた。
自分の住まいを提供すればいいのだろうけど、
それだと、あまり親しくない人や、誰でもどうぞ、と言うのは、ばーさんの一人暮らしにはリスキーかなと思う。
この、ファミリー中心主義の社会の中で、
一人暮らしの寂しさをかかえる人とつながり、助け合えるにはどうしたらよいのだろうか。
長年の悩み。
今日もこのゴールデンウィークの真ん中で、一人ぽつんと途方に暮れている。
私はいつも深い深い絶望と孤独にはまる。
まだ、ものすごく若い頃、
アメリカから来ている英語教師から、
日本に来ている外国人が、お正月に自殺する人が多い、という話を聞いて、ショックを受けたことがずっと尾を引いている。
旅行者は別として、一人で日本に住んでいる外国人は、
正月など、仕事が一斉に休みになり、
友人知己は家族で過ごす期間になり、
ひとりぼっちになる。
そのとき、絶望的な孤独感に苛まれるのだと言っていた。
海外ドラマで見るような、友人も招いてファミリーパーティを開く習慣がない日本では、
家族、あるいは親族で集まる時期である。
「赤の他人」は混じらない。
「家族水入らず」という言葉は、日本独特の表現かもしれない。
英語だと、family-only time のような、普通のワードを組み合わせた表現しかないような気がする。
独特の意味内容を持つ言葉は存在しないように思う。
独特のワードを持つのは、それが特別な意味内容を持つ概念だからだ。
そして、この「家族水入らず」の習慣が、日本で一人で暮らす外国人を絶望的な孤独に突き落とすのだ。
そして、実は、今、私がそういう状態だ。
日本人で、家族が日本国内にいても、
遠方に住んでいたり、あまり会わない関係であれば、
ひとりぼっちになってしまう。
かねてから、「団欒ネットワーク」などと称して、そうした孤独な一人暮らしの人同士がつながるイベントをやりたいと考えてきたが、場所がうまく見つからない、という具体的な事情で、実現できずにいた。
自分の住まいを提供すればいいのだろうけど、
それだと、あまり親しくない人や、誰でもどうぞ、と言うのは、ばーさんの一人暮らしにはリスキーかなと思う。
この、ファミリー中心主義の社会の中で、
一人暮らしの寂しさをかかえる人とつながり、助け合えるにはどうしたらよいのだろうか。
長年の悩み。
今日もこのゴールデンウィークの真ん中で、一人ぽつんと途方に暮れている。
穏健派と過激派の間 ― 2025/04/25 10:09
いや、こんなすごいタイトルをつけて、
大上段に構えて、政治運動を分析しようと言うのではない。
羊頭狗肉は承知の上なので、ご勘弁を。
ある古い知人が、あるMLに書き込んでいる文章を読んで、
ふと思ったのだ。
この人が言うことは、私は思想的にはすべて賛同できる。
昔もそうだった。
この人は、至極真っ当な意見を持っていて、
考え方としては、全面賛成だった。
この人の考え方は、過激と呼ばれるものかもしれないが、
実は、究極はこの人の主張が正しいと思っている。
しかし、方法論となると、途端に、賛同できなくなる。
当時、所属していた組織の多くの人が、この人の思想と同じだった。
みな、全部わかっている。
しかし、物事は一歩ずつしか進まない。
いや、人権侵害などの事象について、
法の改善、世の中のマジョリティの理解を得ることを抜きに、
社会は変わらない。
もちろん、世の中を変えるために、
今の政治家を滅ぼして、新しい政権を樹立するような「革命」を起こす、という手はあるだろう。
歴史は、これらの繰り返しだった。
暴力革命を目指す人たちには、
「穏健派」の動き方は、欺瞞に見えたり、怠惰に見えたりするのだろう。
しかし、暴力革命を肯定しないならば、
法の改善を目指し、
世の中のマジョリティに働きかける地道な動き方しかできない。
もちろん、今の法体制だって、元を正せば暴力的に築かれたものだ。
今の日本の民主主義は、敗戦によってもたらされた。
今の日本の「男女平等」憲法は、連合軍が強制したからだ。
が、せっかく、獲得した平等と平和を、
すべての人の人権を保障する法の精神を否定する理由はない。
何によってもたらされたか、ではなく、
何を得たか、ということの方が重要だと私は思っている。
その法の精神では、暴力革命は当然、容認されない。
しかし、今もまだ、過激な思想を語るその人は、
いきなりの良き効果を求めて発言を続ける。
が、政府の転覆は不可能だから、
嘗て、弱小の組織を潰して満足していた(のか?)。
民主的な手法を駆使して組織の存在意義を死守しようとしたメンバーは、泣きながら、組織を解体した。
ま、「解体」ではなく、「休会」という結論にしたのだけど。
しかし、永遠の休会だ。
その人の意見に賛同はできたけど、
辛抱強く議論を続けていく、という方法を取らずに、
組織を休会に追い込んだその人に、私はもはや寄り添う気持ちにはなれなかった。
総会の場で「休会」が決まり、メンバーが三々五々会場を去る頃、
その人は、私に向かって、
「M吉さん、これからもよろしく」とにこやかに言った。
が、私にはそれに応えることは無理だった。
それぞれのメンバーが、悔しい思いをかかえ、
同じ考え方の人とどこかに流れるのだろう、ということが予測されたが、
私は一人、会場を離れた。
もう一人、会場を離れた若い人がいて、一緒に、ため息をつきながら帰路に向かった。
その人は、なぜ、自制できないのか。
民主的な手法は、まだるっこしい。
自分とは反対の人の意見を聴く忍耐が要る。
その反対派の意見をも吟味し、その言い分に合理性を見いだしたなら、自分の考え方を検証し、落とし所を探す作業が要る。
それに耐えられない人は、
「穏健派」の態度を理解できないのだろう。
時には後戻りする。
時には立ち往生する。
それでも、誰をも潰さずに、
共に生き残りながら、良き方向性を模索し続ける、
それしかないのではないか。
私の狭い体験では、
「過激派」と「穏健派」の目指すゴールは違わない。
ただ、方法論があまりにも違う。
時には諦め、時には自棄的になり、
時には安堵し、ということを繰り返しながら、
長年月の間に、どこかに帰結するのだろう。
帰結する風景が、私たちが願った良きものであるように、
必死に活動を続ける。
私の生きているうちに、世の中が良いものになるとは思えない。
むしろ、今は停滞し、混乱し、心痛むことばかりだ。
しかし、人類が発明した最も美しい「人権」というものを守り抜くには民主的な手法しかない。
反対派の人にも人権が保障されるべきだという思想を抜きに、
民主主義は貫徹できない。
様々な怨念や怒りや、、、そのようなネガティブな感情に日々揺さぶられながら、民主主義は捨てたらアカンで、と市井のばーさんは、朝から思っている。
あ、でも今のネオリベには与しない。
今の、民主主義のふりをした卑劣なポピュリズムは憎んでいる。
大上段に構えて、政治運動を分析しようと言うのではない。
羊頭狗肉は承知の上なので、ご勘弁を。
ある古い知人が、あるMLに書き込んでいる文章を読んで、
ふと思ったのだ。
この人が言うことは、私は思想的にはすべて賛同できる。
昔もそうだった。
この人は、至極真っ当な意見を持っていて、
考え方としては、全面賛成だった。
この人の考え方は、過激と呼ばれるものかもしれないが、
実は、究極はこの人の主張が正しいと思っている。
しかし、方法論となると、途端に、賛同できなくなる。
当時、所属していた組織の多くの人が、この人の思想と同じだった。
みな、全部わかっている。
しかし、物事は一歩ずつしか進まない。
いや、人権侵害などの事象について、
法の改善、世の中のマジョリティの理解を得ることを抜きに、
社会は変わらない。
もちろん、世の中を変えるために、
今の政治家を滅ぼして、新しい政権を樹立するような「革命」を起こす、という手はあるだろう。
歴史は、これらの繰り返しだった。
暴力革命を目指す人たちには、
「穏健派」の動き方は、欺瞞に見えたり、怠惰に見えたりするのだろう。
しかし、暴力革命を肯定しないならば、
法の改善を目指し、
世の中のマジョリティに働きかける地道な動き方しかできない。
もちろん、今の法体制だって、元を正せば暴力的に築かれたものだ。
今の日本の民主主義は、敗戦によってもたらされた。
今の日本の「男女平等」憲法は、連合軍が強制したからだ。
が、せっかく、獲得した平等と平和を、
すべての人の人権を保障する法の精神を否定する理由はない。
何によってもたらされたか、ではなく、
何を得たか、ということの方が重要だと私は思っている。
その法の精神では、暴力革命は当然、容認されない。
しかし、今もまだ、過激な思想を語るその人は、
いきなりの良き効果を求めて発言を続ける。
が、政府の転覆は不可能だから、
嘗て、弱小の組織を潰して満足していた(のか?)。
民主的な手法を駆使して組織の存在意義を死守しようとしたメンバーは、泣きながら、組織を解体した。
ま、「解体」ではなく、「休会」という結論にしたのだけど。
しかし、永遠の休会だ。
その人の意見に賛同はできたけど、
辛抱強く議論を続けていく、という方法を取らずに、
組織を休会に追い込んだその人に、私はもはや寄り添う気持ちにはなれなかった。
総会の場で「休会」が決まり、メンバーが三々五々会場を去る頃、
その人は、私に向かって、
「M吉さん、これからもよろしく」とにこやかに言った。
が、私にはそれに応えることは無理だった。
それぞれのメンバーが、悔しい思いをかかえ、
同じ考え方の人とどこかに流れるのだろう、ということが予測されたが、
私は一人、会場を離れた。
もう一人、会場を離れた若い人がいて、一緒に、ため息をつきながら帰路に向かった。
その人は、なぜ、自制できないのか。
民主的な手法は、まだるっこしい。
自分とは反対の人の意見を聴く忍耐が要る。
その反対派の意見をも吟味し、その言い分に合理性を見いだしたなら、自分の考え方を検証し、落とし所を探す作業が要る。
それに耐えられない人は、
「穏健派」の態度を理解できないのだろう。
時には後戻りする。
時には立ち往生する。
それでも、誰をも潰さずに、
共に生き残りながら、良き方向性を模索し続ける、
それしかないのではないか。
私の狭い体験では、
「過激派」と「穏健派」の目指すゴールは違わない。
ただ、方法論があまりにも違う。
時には諦め、時には自棄的になり、
時には安堵し、ということを繰り返しながら、
長年月の間に、どこかに帰結するのだろう。
帰結する風景が、私たちが願った良きものであるように、
必死に活動を続ける。
私の生きているうちに、世の中が良いものになるとは思えない。
むしろ、今は停滞し、混乱し、心痛むことばかりだ。
しかし、人類が発明した最も美しい「人権」というものを守り抜くには民主的な手法しかない。
反対派の人にも人権が保障されるべきだという思想を抜きに、
民主主義は貫徹できない。
様々な怨念や怒りや、、、そのようなネガティブな感情に日々揺さぶられながら、民主主義は捨てたらアカンで、と市井のばーさんは、朝から思っている。
あ、でも今のネオリベには与しない。
今の、民主主義のふりをした卑劣なポピュリズムは憎んでいる。
運動するということ ― 2025/04/22 11:35
思想闘争は、いつの時代も厳しい。
労働闘争も、今や、弾圧を受けて、衰退の一途だ。
今の若い人は、労働者が自分の権利を守るために法で保障されている労働組合に参加して活動することなど、とてもじゃないが出来ないそうだ。
そもそも、学校でもあまり教えないような気がする。
労働三権については、教科書には記載されているだろうが、(ほんとか? 調べなければ、、、)、教員に、それを教える熱意がなければオミットされる。
学校を卒業すれば、やがて労働者として生きていくことになる生徒たちに、しっかり教えなければ、生徒たちは自分を守るすべを知らずに世の中に出ていくことになる。
昨今は、労働組合を、まるで反社会的組織のように喧伝するSNSの情報などが拡散され、それを鵜呑みにする人も多いだろう。
そうした、労働組合を貶めるSNSの書き込みは、労働組合を潰したい経営側に雇われた連中で、潰すのが目的だから、あの手この手の誹謗中傷を繰り広げる。
経営側は表に出ないで裏工作をしているので、表に出るのは争い好きの雇われている連中だ。
経営側に雇われているのは元暴力団だったりするような社会的対面など気にしない者たちなので、しかもそれで稼いでいる人たちだから、なりふりかまわない活動を展開する。
ただただ法的に認められた労働権を行使しようとするだけの組合はやられっぱなしになる。
少し前に、ようやく、
『労組と弾圧 ~関西生コン事件を考える~』というTBSのドキュメンタリー映画を見ることができた。
制作者も、制作に着手するのに時間がかかったことを吐露している。
ややこしい事件だからだ。
が、真相を暴けば、労働組合を疎んじた経営者たちの組合潰し、弱い者いじめだとよくわかる。
警察がなぜそこに加担したのか、そのからくりまで暴いてほしいが、そこはまだわかりにくい。が、今、不当拘束され、起訴されていた組合員の無罪判決が相次いでいるので、
日本にもまだ良心があるのだとホッとする。
組合が大きくなり力を持つようになったために、潰しにかかられたのは、フェミニズムが少数の尖った女性たちの運動に見えていた時は目こぼしされていたのに、法律ができて、主張できる女性が増えてくると、途端にバックラッシュが起こって、潰しにかかられたのと同じだ。
非力だった者が力を持ち始めると、支配権力は潰しにかかる。
非力だった者は、対等な位置を獲得して対話を求め、不当な不利益の改善を求めるだけの意図を持っているのだが、支配権力はそもそも「対等」なんか嫌いなのだ。
支配して従わせたいのだ。
だから、弱かった者が力を持ち始めると、何とか押さえ込もうとする構図は、ずっと繰り返されてきた。
労働問題もそうだし、
ジェンダー問題もそうだし、
抑圧されていた側が元気になると、その元気を奪い取ろうとする許しがたい連中がずっと権力を保持し続けるのをどうすればよいのか。
私の周りにも、
様々な抑圧があり、怒りがあり、
果ては、同じ側に居たはずの者だちの対立が、支配側の奸計によって作られて、弱い者同士で争いが起こる。
今は暴力的な一方的な弾圧だけでなく、思想の違いだけでなく、奸佞邪智が横行して、運動体内部が対立して弱体化してしまう時代だ。
厳しいね。生きるって、ほんとうに厳しいね。
労働闘争も、今や、弾圧を受けて、衰退の一途だ。
今の若い人は、労働者が自分の権利を守るために法で保障されている労働組合に参加して活動することなど、とてもじゃないが出来ないそうだ。
そもそも、学校でもあまり教えないような気がする。
労働三権については、教科書には記載されているだろうが、(ほんとか? 調べなければ、、、)、教員に、それを教える熱意がなければオミットされる。
学校を卒業すれば、やがて労働者として生きていくことになる生徒たちに、しっかり教えなければ、生徒たちは自分を守るすべを知らずに世の中に出ていくことになる。
昨今は、労働組合を、まるで反社会的組織のように喧伝するSNSの情報などが拡散され、それを鵜呑みにする人も多いだろう。
そうした、労働組合を貶めるSNSの書き込みは、労働組合を潰したい経営側に雇われた連中で、潰すのが目的だから、あの手この手の誹謗中傷を繰り広げる。
経営側は表に出ないで裏工作をしているので、表に出るのは争い好きの雇われている連中だ。
経営側に雇われているのは元暴力団だったりするような社会的対面など気にしない者たちなので、しかもそれで稼いでいる人たちだから、なりふりかまわない活動を展開する。
ただただ法的に認められた労働権を行使しようとするだけの組合はやられっぱなしになる。
少し前に、ようやく、
『労組と弾圧 ~関西生コン事件を考える~』というTBSのドキュメンタリー映画を見ることができた。
制作者も、制作に着手するのに時間がかかったことを吐露している。
ややこしい事件だからだ。
が、真相を暴けば、労働組合を疎んじた経営者たちの組合潰し、弱い者いじめだとよくわかる。
警察がなぜそこに加担したのか、そのからくりまで暴いてほしいが、そこはまだわかりにくい。が、今、不当拘束され、起訴されていた組合員の無罪判決が相次いでいるので、
日本にもまだ良心があるのだとホッとする。
組合が大きくなり力を持つようになったために、潰しにかかられたのは、フェミニズムが少数の尖った女性たちの運動に見えていた時は目こぼしされていたのに、法律ができて、主張できる女性が増えてくると、途端にバックラッシュが起こって、潰しにかかられたのと同じだ。
非力だった者が力を持ち始めると、支配権力は潰しにかかる。
非力だった者は、対等な位置を獲得して対話を求め、不当な不利益の改善を求めるだけの意図を持っているのだが、支配権力はそもそも「対等」なんか嫌いなのだ。
支配して従わせたいのだ。
だから、弱かった者が力を持ち始めると、何とか押さえ込もうとする構図は、ずっと繰り返されてきた。
労働問題もそうだし、
ジェンダー問題もそうだし、
抑圧されていた側が元気になると、その元気を奪い取ろうとする許しがたい連中がずっと権力を保持し続けるのをどうすればよいのか。
私の周りにも、
様々な抑圧があり、怒りがあり、
果ては、同じ側に居たはずの者だちの対立が、支配側の奸計によって作られて、弱い者同士で争いが起こる。
今は暴力的な一方的な弾圧だけでなく、思想の違いだけでなく、奸佞邪智が横行して、運動体内部が対立して弱体化してしまう時代だ。
厳しいね。生きるって、ほんとうに厳しいね。
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