女性首相の誕生を喜べない、、、2025/11/05 13:25

当たり前だよね。
保守の権化。ここまでのし上がったのは、保守のおっさんたちを喜ばせ、代弁する主張を続けてきたからだ。

先日、ある集まりで、女性たちと話していたら、
女性の首相誕生を喜んでいる感じ。
これで、少しは女性の地位が上がる、と思い込んでいる。

参ったね。
女性の登用は増えるかも、確かに。
ただし、保守のおじさんたちと共に歩める女性たちの地位は上がるだろうし、おじさんたちとますます協力し合う。
ますますおじさんを喜ばせる日本になる。

そして、選択的夫婦別姓も闇に葬られ、
貧困女性はますます苦境に追い込まれ、
外国人差別はひどくなるだろう。
多様な人の多様な生き方は、ますます圧迫されるだろう。

「女性」だから喜べる,という時代はもう過去のものだ。
女性だから,と言って、女性の人権を重んじる人だとは限らない。
高市は、軍拡をやる人だ。
戦争できる日本に変えていくのだ。

政治的な思考ができない若い女性たちは、それすら、わからないみたいだ。
高市が過去に何を言ったか、どういう立場でここまで来たか、
よく考えてごらん。

女である分、始末が悪いくらいだよ。
男だったらくそみそに言えるのに、
多くのフェミニストも、苦々しく思っているが、
舌鋒が鈍っている。
女が女を批判する難しさを痛感する出来事だ。

ほんとうに、暗澹となる日々。
「保守」を支持する人の心理がわからん。
たぶん、展望が持てない(見たことないことに想像力がない)。
変化を怖れている。
これまでと同様なあり方が維持され、これ以上悪くならないように願っている。
しみったれた日本の男どもは、こうして、政府に守ってもらおうと思っているのだ。

若い男は覚悟した方がいい。
ますます、生活が苦しくなって、
結局、経済的に面倒を見てくれる自衛隊(憲法に明記されるだろうし)に入らざるを得なくなり、
そこでいじめに遭ったり、ハラスメントを受け、
やがて、戦地に送られる。
いや、男女共同参画時代だから、男だけとは限らないね。
女性も戦地に行く可能性もあるね。
まあ、おきばりやす。

日本はとんでもない時代に突入するのかもしれない。
が、私の子どもはもうそれなりの年齢だ。
逃げ切れるだろうね。逃げ切ってくれたら、もうそれでいいよ。
こんな保守政治を支持した人たちに責任をとってもらいたいが、
こういう人は無自覚だ。
自分が何をしたか、わかっていない。
まあ、非政治的若者をつくってきた日本の教育制度だからね。
トランプを支持したアメリカ国民も多少、人気地図が変わってきているようだから、まあ、無自覚に保守を支持し続けた人が少しでも、目先の不利益に気づいて変わってくれるといいのだが。
いつの世も、こういう人たちは現金なものだから、ちょっとでも自分が得をしそうな方になびくんだろうね。
反対派は悪知恵が働くが、私たちの対抗手段はずっと下手くそだ。
誠実に、正々堂々とやっていこうとするからね。

自己肯定感2025/05/21 09:53

この手のテーマは、しょっちゅう書いているので、また同じ事の繰り返しかもしれないけれど、
人の生涯に大きい影響を与えるのは、
標題のこのことだと思う。
しみじみ思う。

人は、みな、少しずつ他の人とは違うものだ。
癖も、生活習慣も、体調も、あらゆる面が人それぞれだ。
共通点もあるが、違いもある。
それは、赤ちゃんの時から顕著だ。
それが、個性というものだろう。

が、その個性の違いを受け止められない養育者に育てられると、
子どもは災難だ。
自分そのものである部分を否定され、除去しようとされ、
自分であろうとすることが攻撃を受ける。
その子どもは、「その人自身」でいることを受け容れてもらえないのだから、
いつもびくびくといじけている子どもになる。

が、養育者によっては、
子どもの個性を当たり前のこととして理解しているので、
その子どもが、その子らしい部分を発揮することを妨げない。
「そういう子だ」と受容している。
矯正しようとはしない。
もちろん、社会のルールやマナーは教えるが、
その子がその子自身であることを否定したりはしない。

人はそれぞれ、みな異なるので、
それぞれその人らしいだけなのだが、
この、養育者の態度によって、人生の明暗が分かれる。

その子らしさを損なわれずに受容されてきた子は、
臆することなく、その子自身の個性を発揮して、
のびのびした自己認識を持つことになる。

が、その子らしさを否定され、叱られ、嫌われて育った子は、
自分が自分であることに引け目ばかり感じている。
自分は良くない存在だと思い込んで育つ。
いつもおどおどし、暗い人格を形成して大人になる。

以下のことも、嘗てここに書いたことかもしれないが、
また、書く。
忘れられないことだからだ。
以前、大教室で大人数の学生を教えていた。
ある時、同じ系列の科目を教えている専任の先生から、
「学生アンケートをとりたいので、M吉先生のところは学生数が多いから、アンケートに協力してほしい」と、頼まれた。
もちろん、二つ返事でOKである。
授業の最後の方で時間を取って、アンケートに回答するように学生に伝えた。
人数が多いので、教室を出るときに、教卓にアンケート回答を置いて出るように指示をした。
学生はそういうのは嫌がらない。
2~300人の学生が教卓に回答用紙を置いて、次から次へと出て行く。
そのアンケートは匿名だが、フェイスシートに「自分のことを好きかどうか」という設問があって、5段階のうちのどこかに回答するようになっていた。
学生が回答用紙を置くのを見守りながら、ある時から、用紙を置く学生の表情とフェイスシートの回答との関係に気づいた。
学生の表情が暗めの子は、必ず、「自分が嫌い」を選んでいた。
いきいきした、あるいは脳天気な顔つきの学生は、「自分が好き」のところをチェックしていた。
学生の表情を見てから回答を見ると、100パーセント、予想が当たった。
もちろん、学生たちは無表情なつもりだろう。
泣き顔でもなければ、一人で笑っているはずもない。
比較的豊かな家庭の、常識の通じる学生たちなので、普段の、一人でいるときの表情をしているだけだったろう。
が、憂いを帯びた顔と、前向きのいきいきした表情の違いは、見事に回答に反映されていた。

許されるなら、悲しげな学生一人ひとりを傍に呼んで、
「あなたはとても素敵な子よ、あなたのままで素晴らしいのよ」と伝えたくなった。

養育者は、子どもの間違った行為は正してやらないといけない。
が、その子どものその子らしさを正そうなどとしてはならない。
それは、その子自身であって、そこを否定すると、その子の魂は死ぬ。
魂は殺してはいけない。

あらためてこんなことを考えたのは、
私の友人たちをいろいろ思い浮かべて、
皆それぞれ、どこか変で、独特だ、と思ったからだ。
が、そのことを恥じるわけでも、悔いるわけでもなく、
堂々とその人自身である、という人が多い。
たまたま、私の交流関係は、高学歴で仕事に成功している人が多い。
高学歴で仕事に成功する、ということは、
満足度、幸福感が高い、ということと相関関係があるだろう。
だから、比較的、元気で明るめの高齢者が多いことになる。
もちろん、それも一概には言えない。
私の周りにはそういう人が多いようだ、というだけのことだ。

一方、昔、出会ったカウンセリングに訪れていた人たちは、
自己否定の権化のようだった。
一時的な「相談」ではなく、カウンセリングを必要とする人たちは、
「あなたはそのままで素敵なのよ」という言葉を聞きたかったのかもしれない。
が、カウンセラーからいくらその言葉を聞いても、
あまり効果はない。
カウンセリングの理屈を知り尽くしているその人たちは、
カウンセラーの決まり文句で慰められたりはしない。

必要だったのは、もっと幼い頃、
自己認識と共に成長するプロセスで、
その言葉を聞くことだった。

じゃあ、成長しきったら、もう回復できないのか。
いや、大人になっても好転することはあるだろう。
ただ、子ども時代に否定的に育てられた悲しみは残る。
心に傷は残るだろう。
それでもいいのだ。
完治はしないが、寛解まで持って行ければ、上上出来だ。

そんなことを考える今日この頃。




運動するということ2025/04/22 11:35

思想闘争は、いつの時代も厳しい。

労働闘争も、今や、弾圧を受けて、衰退の一途だ。
今の若い人は、労働者が自分の権利を守るために法で保障されている労働組合に参加して活動することなど、とてもじゃないが出来ないそうだ。
そもそも、学校でもあまり教えないような気がする。
労働三権については、教科書には記載されているだろうが、(ほんとか? 調べなければ、、、)、教員に、それを教える熱意がなければオミットされる。
学校を卒業すれば、やがて労働者として生きていくことになる生徒たちに、しっかり教えなければ、生徒たちは自分を守るすべを知らずに世の中に出ていくことになる。

昨今は、労働組合を、まるで反社会的組織のように喧伝するSNSの情報などが拡散され、それを鵜呑みにする人も多いだろう。
そうした、労働組合を貶めるSNSの書き込みは、労働組合を潰したい経営側に雇われた連中で、潰すのが目的だから、あの手この手の誹謗中傷を繰り広げる。
経営側は表に出ないで裏工作をしているので、表に出るのは争い好きの雇われている連中だ。
経営側に雇われているのは元暴力団だったりするような社会的対面など気にしない者たちなので、しかもそれで稼いでいる人たちだから、なりふりかまわない活動を展開する。
ただただ法的に認められた労働権を行使しようとするだけの組合はやられっぱなしになる。

少し前に、ようやく、
『労組と弾圧 ~関西生コン事件を考える~』というTBSのドキュメンタリー映画を見ることができた。
制作者も、制作に着手するのに時間がかかったことを吐露している。
ややこしい事件だからだ。
が、真相を暴けば、労働組合を疎んじた経営者たちの組合潰し、弱い者いじめだとよくわかる。
警察がなぜそこに加担したのか、そのからくりまで暴いてほしいが、そこはまだわかりにくい。が、今、不当拘束され、起訴されていた組合員の無罪判決が相次いでいるので、
日本にもまだ良心があるのだとホッとする。
組合が大きくなり力を持つようになったために、潰しにかかられたのは、フェミニズムが少数の尖った女性たちの運動に見えていた時は目こぼしされていたのに、法律ができて、主張できる女性が増えてくると、途端にバックラッシュが起こって、潰しにかかられたのと同じだ。

非力だった者が力を持ち始めると、支配権力は潰しにかかる。
非力だった者は、対等な位置を獲得して対話を求め、不当な不利益の改善を求めるだけの意図を持っているのだが、支配権力はそもそも「対等」なんか嫌いなのだ。
支配して従わせたいのだ。
だから、弱かった者が力を持ち始めると、何とか押さえ込もうとする構図は、ずっと繰り返されてきた。

労働問題もそうだし、
ジェンダー問題もそうだし、
抑圧されていた側が元気になると、その元気を奪い取ろうとする許しがたい連中がずっと権力を保持し続けるのをどうすればよいのか。

私の周りにも、
様々な抑圧があり、怒りがあり、
果ては、同じ側に居たはずの者だちの対立が、支配側の奸計によって作られて、弱い者同士で争いが起こる。
今は暴力的な一方的な弾圧だけでなく、思想の違いだけでなく、奸佞邪智が横行して、運動体内部が対立して弱体化してしまう時代だ。

厳しいね。生きるって、ほんとうに厳しいね。

ガハハと笑うおばさん2025/03/28 19:45

私は、ガハハと大口を開けて笑うおばさんになれなかった。

キャーッと、周りがびっくりするような声を上げて、
友達とはしゃく少女にもなれなかった。

私は、馴れ合いの中にいなかった。

なんだか、ずっと寂しかった。

ずっとずっと、ひとりぼっちだった気がする。

でも、ずっとずっと、溶け込みたかった。
仲間と認められたかった。

人と違う、という感じを抱いていて、ものすごく孤独だった。

が、今は、何だか、とても平均的な日本人の「おばあさん」という感じがしている。
シンフォニーホールでのコンサートに向かうとき、駅からホールまでの道のりを、同じような人たちが歩いて行く群れに交じっていると、
しみじみ、そう思う。
やっと、「普通」になれたような、、、。
私がようやく、この世に慣れたのかな。

74歳になって、ようやく、自分にも、この世にも慣れてきたのかな。

そういう人生もあるのかなぁ2025/02/19 12:17

テレビを見ていて、ふと思った。

若い頃に出会って、お互いに一目惚れだそうで、
男性が積極的にアタックして、結婚したそうだ。
そして、年を重ねて今もなお、
見た目も悪くない壮年夫婦として、
幸せそうに一緒に商売をしている。

それでふと思ったのだけど、
こういう人って、
つまり、相手をとても気に入っていて、
しかも性格的に良くて、お互いをいたわり合って、
趣味も考え方も合っていて、
そして、ストレスの少ない人生を送ってきたとして、
その人生観はどうなんだろう?

この世の掟を疑ったこともなく、
現状肯定的で、脳天気な人生観、社会観を持つのかな。

自分の生き方がこの世の規範に沿っていて、何の違和感もなく、
自分という個性が、この世の大勢に流されることに不快感もなく、
ハッピーでいられたら、
おそらく、私などとは全く違う人生観を持っているのだろう。

お幸せで結構だが、
この世で不幸をかかえる人の叫びや訴えを邪魔しないでくれたら
できれば、応援すらしてくれていたら、
そういう人の順風満帆な人生も何よりだが、
この人たちにとって、
「こんなに快適で問題のない社会」に、
なぜ、不満を持つのかわからないものだろうか。

あるいはそこまでハッピーでなくても、
波風立たないように努力して築いた暮らしの中で、
何とか小さな幸せを獲得している人々にとって、
社会が変化することを望む抵抗分子は邪魔だろうか。

自分が幸せでも、
そうでない人がたくさんいる、という事実は見えるはずで、
ものを考える人なら、そこに共感もわくだろうと想像するのだが、
それは私の、お花畑的人間観なのか。