アホに出会った ― 2025/02/18 17:14
昨日、小町のことを書いて、
今日は、某自治体の会議に出て、
早速、昨日、言及したアホに出会った。
性別二元論に揺さぶりをかけると、
どうして、アホな男は、あんなに動揺するのか。
ナルシスティックなヒロイズムで、
滔々と意見を言っていたその男、
私が性別二元論を相対化するような発言をした途端、
過剰反応して、うるさいこと、うるさいこと。
人間にはXXとXYの染色体があるから、
男と女の二種類に分けるのは当然、みたいなことを
しゃべり出した。
そこで私が、
「違うんですよ。性染色体は二種類ではないんですよ」と言うと、
それを聞いたとたん火がついて、ぎゃあぎゃあと意味のないくだらない弁舌を滔々と、、、。
自分には知識がないから、と言いながら、無知の論理を展開して、
あっけにとられたこちらは沈黙。
あなたを個人攻撃しているんではないんですよ、と言いながら、
話が止まらない。
狼狽すると、言い訳やら何やら、わけのわからないことを喋り続けるアホの典型みたいなおっさん。
私は、もう呆れて、反論するのを辞めたので、
相手はずっと喋り続けたあげく、恥ずかしくなったのかもしれない。
わけのわからん終わり方で、話を止めた。
2回ほど、相手の間違いを指摘したあと、
相手に恥ずかしい話をさせたまま、沈黙した私は自分を褒めてあげたい気分。
その人のダメさ加減が露呈した一コマだった。
今日は、某自治体の会議に出て、
早速、昨日、言及したアホに出会った。
性別二元論に揺さぶりをかけると、
どうして、アホな男は、あんなに動揺するのか。
ナルシスティックなヒロイズムで、
滔々と意見を言っていたその男、
私が性別二元論を相対化するような発言をした途端、
過剰反応して、うるさいこと、うるさいこと。
人間にはXXとXYの染色体があるから、
男と女の二種類に分けるのは当然、みたいなことを
しゃべり出した。
そこで私が、
「違うんですよ。性染色体は二種類ではないんですよ」と言うと、
それを聞いたとたん火がついて、ぎゃあぎゃあと意味のないくだらない弁舌を滔々と、、、。
自分には知識がないから、と言いながら、無知の論理を展開して、
あっけにとられたこちらは沈黙。
あなたを個人攻撃しているんではないんですよ、と言いながら、
話が止まらない。
狼狽すると、言い訳やら何やら、わけのわからないことを喋り続けるアホの典型みたいなおっさん。
私は、もう呆れて、反論するのを辞めたので、
相手はずっと喋り続けたあげく、恥ずかしくなったのかもしれない。
わけのわからん終わり方で、話を止めた。
2回ほど、相手の間違いを指摘したあと、
相手に恥ずかしい話をさせたまま、沈黙した私は自分を褒めてあげたい気分。
その人のダメさ加減が露呈した一コマだった。
時代は変わった・・・ ― 2025/02/13 11:03
仕事に求めるものを問われた若い人が、
「自分らしくいられない仕事はやりたくない」
「生きがいとならなければ仕事ではない」
などなど、、、。
最初、聞いたときは目眩がしそうだった。
仕事に生きがいを求める、とは?
自分らしくいられる仕事とは?
もちろん、そのような仕事に就けるのは幸せだ、と思う感覚はある。
大正生まれの私の父ですら、テレビで歌手の後ろで楽器を演奏する楽団の人々の楽しそうな顔が映ると、
「自分の好きなことを仕事にできるのはええなぁ」というようなことを言っていた。
私も「主婦」からスタートしたので、
夫が生活費を稼ぐ役割を担当していたから、
少しは選択の自由があったとは思う。
でも、仕事をしたかったので、何でもいいから働きたい、と思っていた時期があった。
が、子どもが小さくて田舎暮らしで、何の資格もない私がやれそうな仕事はなく、
面接に行っても、ことごとく採用されなかった。
何でもいいから働きたい、と切に思っていた。
それは、主婦という、最も自分に合わない役割(=仕事)をあてがわれて、もがいていたからなのだが。
やがて、仕事に就くようになった。
私がそれまで携わってきた様々な「活動」の延長上に仕事があった。
気がついたら、専門職として雇用されるようになっていた。
ある行政の施設で、専門職として働いていたとき、
主に子どもの手が離れた主婦の人たちが数人、アルバイトとして受付や事務作業のためにシフト雇用されていた。
そのうちの一人が、
「〇〇さんは、電話が苦手で、出られないんです」と私に訴えた。
私は、上司ではなく、専門職としてその人たちにアドバイスをする立場だったが、その人たちは、いろいろな困りごとを私に訴えてくるようになっていた。
が、事務や受付などを担当する働き手の、電話が苦手で出たくない、という訴えには、賛同できなかった。
人手が余っているわけではないその職場では、電話に出てもらわなくては困るのだ。
私は、ただ、
「仕事ですからねぇ」と答えた。
苦手だろうが何だろうが、それは給料に見合って期待される業務なのだ。
電話を受けて、判断したり決定したりはしない。
ただ、電話を受けて、決定権のある立場の人につなぐだけの仕事だ。
私にそれを訴えた人は、察しが良く、私の答えを聞いて、
なるほど、と言うように返してきた。
「私たち、甘えてましたね。仕事ですものね、、、」と。
長年、家族の世話だけをしてきて、社会関係は近所づきあいだけ、というような人たちは、お互いに許し合う関係に慣れていたりする。
そのモードを、職場に持ち込んでいたのだ。
私も、できるだけ、その職場を働きやすい職場にするように努力はしていた。
その人たちが、意欲的に仕事に取り組めるように工夫をしていた。
それは、ある程度、成功した面もあると自負している。
当時のその人たちは、私がいた時期のその職場は、仕事にやりがいを感じられて、とても楽しかったと、後々まで言ってくれていた。
それでも、私は、時間給で雇用されている彼女たちは、
雇用主に時間労働を提供して対価を得ているのだから、
想定内の業務であるかぎり得意でなくてもこなさなければならないとは思っていた。
仕事とはそういうものだと。
だからこそ、その人たちのモチベーションを上げるための工夫が要るのだと思っていた。
長年、「主婦」をしていた人たちの、潜在能力を引き出したい、それを見える形にしたい、という強い思いがあった。
当時、女性たちは、あまりにもその能力や適性を顧みられないで、安く買いたたかれていたので、そこを打破したいというのは、私の信念だった。
女性たちも、社会の評価を内面化しているところがあり、自分の能力を信じていなかった。
その彼女たちの能力の再評価、モチベーションの上昇を目指して、私もその自分の役割にやりがいを感じていた。
が、今は違うのだ。
女性たちは、今や、年寄りの手助けなどなくても、
自分の能力、適性をしっかり信じていて、(時には過信していて)、
自分らしくいられない仕事はやらない、と言う。
自分に合った仕事しかしない、と言う。
もちろん、私も仕事を選ぶとき、その思いはあった。
仕事に費やす時間は一日の大半であるので、
自分の適性とかけ離れた仕事では自分が疲弊するだけだろうと思い、
自分の性分、適性、思想に適合した仕事を選びたいと思ってはいた。
が、一方で、見込みとは違う仕事もあるもので、
仕事は身過ぎ世過ぎだと、割り切って続けようとしていたこともある。
辛抱とやりがいのバランスを取っているような感じだった。
だから、辛抱が続く人には、それが緩和されるように、
やりがいを感じている人はさらに力が発揮できるように、
できる手助けをしたかった。
が、
「仕事は、自分らしくいられるもの」と定義する人が増えた。
まあ、その発言の内容には、様々な意味合いが含まれているだろうから、
軽々に評価できないけれども、
そもそもの定義に、呆然とする私がいるのだ。
「なるべく、自分に合った仕事がしたい」というのと、
「自分らしくいられない仕事はやらない」というのとは、
違う気がする。
「自分らしくいられる」ことが当たり前になった現代、
もはや、私の感覚は古すぎるのだろう。
「自分らしさ」なんてワードが存在しなかった時代、
辛くなければめっけもの、
生き延びられれば幸運
だった時代の者の感覚は、もはやあまりにも前時代過ぎて、
通用しないのだろう。
しかし、こういう私の感覚が普通だった時代の考え方をすぐに放擲してはならないような気がする。
足下をすくわれる気がするのだ。
見せかけのパラダイスにだまされてはならない、と思ってしまうのだ。
「自分らしくいられない仕事はやりたくない」
「生きがいとならなければ仕事ではない」
などなど、、、。
最初、聞いたときは目眩がしそうだった。
仕事に生きがいを求める、とは?
自分らしくいられる仕事とは?
もちろん、そのような仕事に就けるのは幸せだ、と思う感覚はある。
大正生まれの私の父ですら、テレビで歌手の後ろで楽器を演奏する楽団の人々の楽しそうな顔が映ると、
「自分の好きなことを仕事にできるのはええなぁ」というようなことを言っていた。
私も「主婦」からスタートしたので、
夫が生活費を稼ぐ役割を担当していたから、
少しは選択の自由があったとは思う。
でも、仕事をしたかったので、何でもいいから働きたい、と思っていた時期があった。
が、子どもが小さくて田舎暮らしで、何の資格もない私がやれそうな仕事はなく、
面接に行っても、ことごとく採用されなかった。
何でもいいから働きたい、と切に思っていた。
それは、主婦という、最も自分に合わない役割(=仕事)をあてがわれて、もがいていたからなのだが。
やがて、仕事に就くようになった。
私がそれまで携わってきた様々な「活動」の延長上に仕事があった。
気がついたら、専門職として雇用されるようになっていた。
ある行政の施設で、専門職として働いていたとき、
主に子どもの手が離れた主婦の人たちが数人、アルバイトとして受付や事務作業のためにシフト雇用されていた。
そのうちの一人が、
「〇〇さんは、電話が苦手で、出られないんです」と私に訴えた。
私は、上司ではなく、専門職としてその人たちにアドバイスをする立場だったが、その人たちは、いろいろな困りごとを私に訴えてくるようになっていた。
が、事務や受付などを担当する働き手の、電話が苦手で出たくない、という訴えには、賛同できなかった。
人手が余っているわけではないその職場では、電話に出てもらわなくては困るのだ。
私は、ただ、
「仕事ですからねぇ」と答えた。
苦手だろうが何だろうが、それは給料に見合って期待される業務なのだ。
電話を受けて、判断したり決定したりはしない。
ただ、電話を受けて、決定権のある立場の人につなぐだけの仕事だ。
私にそれを訴えた人は、察しが良く、私の答えを聞いて、
なるほど、と言うように返してきた。
「私たち、甘えてましたね。仕事ですものね、、、」と。
長年、家族の世話だけをしてきて、社会関係は近所づきあいだけ、というような人たちは、お互いに許し合う関係に慣れていたりする。
そのモードを、職場に持ち込んでいたのだ。
私も、できるだけ、その職場を働きやすい職場にするように努力はしていた。
その人たちが、意欲的に仕事に取り組めるように工夫をしていた。
それは、ある程度、成功した面もあると自負している。
当時のその人たちは、私がいた時期のその職場は、仕事にやりがいを感じられて、とても楽しかったと、後々まで言ってくれていた。
それでも、私は、時間給で雇用されている彼女たちは、
雇用主に時間労働を提供して対価を得ているのだから、
想定内の業務であるかぎり得意でなくてもこなさなければならないとは思っていた。
仕事とはそういうものだと。
だからこそ、その人たちのモチベーションを上げるための工夫が要るのだと思っていた。
長年、「主婦」をしていた人たちの、潜在能力を引き出したい、それを見える形にしたい、という強い思いがあった。
当時、女性たちは、あまりにもその能力や適性を顧みられないで、安く買いたたかれていたので、そこを打破したいというのは、私の信念だった。
女性たちも、社会の評価を内面化しているところがあり、自分の能力を信じていなかった。
その彼女たちの能力の再評価、モチベーションの上昇を目指して、私もその自分の役割にやりがいを感じていた。
が、今は違うのだ。
女性たちは、今や、年寄りの手助けなどなくても、
自分の能力、適性をしっかり信じていて、(時には過信していて)、
自分らしくいられない仕事はやらない、と言う。
自分に合った仕事しかしない、と言う。
もちろん、私も仕事を選ぶとき、その思いはあった。
仕事に費やす時間は一日の大半であるので、
自分の適性とかけ離れた仕事では自分が疲弊するだけだろうと思い、
自分の性分、適性、思想に適合した仕事を選びたいと思ってはいた。
が、一方で、見込みとは違う仕事もあるもので、
仕事は身過ぎ世過ぎだと、割り切って続けようとしていたこともある。
辛抱とやりがいのバランスを取っているような感じだった。
だから、辛抱が続く人には、それが緩和されるように、
やりがいを感じている人はさらに力が発揮できるように、
できる手助けをしたかった。
が、
「仕事は、自分らしくいられるもの」と定義する人が増えた。
まあ、その発言の内容には、様々な意味合いが含まれているだろうから、
軽々に評価できないけれども、
そもそもの定義に、呆然とする私がいるのだ。
「なるべく、自分に合った仕事がしたい」というのと、
「自分らしくいられない仕事はやらない」というのとは、
違う気がする。
「自分らしくいられる」ことが当たり前になった現代、
もはや、私の感覚は古すぎるのだろう。
「自分らしさ」なんてワードが存在しなかった時代、
辛くなければめっけもの、
生き延びられれば幸運
だった時代の者の感覚は、もはやあまりにも前時代過ぎて、
通用しないのだろう。
しかし、こういう私の感覚が普通だった時代の考え方をすぐに放擲してはならないような気がする。
足下をすくわれる気がするのだ。
見せかけのパラダイスにだまされてはならない、と思ってしまうのだ。
今更だけど、反応でその人がわかるときがある ― 2025/02/01 14:05
昨日は、試練の日だった。
まあ、実際、大変だったのだ。
こういう時に、人を発見することがある。
Kさんという人がいる。
この人の人柄はまあ置いておこう。
何かと問題を感じる人ではあるが、今までは、距離さえ置いていれば、無害だった。
が、このたび、この人に頼まれ事をした。
うっかり(本当にうっかり)、引き受けた。
こういう人は、頼み方もうまい。
大変な部分は言わず、なんとなく、引き受けさせるのがうまい。
それにひっかかる自分のこともまあ措くとしよう。
私がその人に、確認の連絡を入れても入れても、スルーする。
何か都合が悪いのだろう。
困惑しきっていた。
すると、昔からその人と親しい人が、そのやりとりを知っていて、
「M吉さん、怒るのではないかと心配だった」
「M吉さんとKさんが仲が悪くなるのではないかと思った」と言った。
私は怒りっぽいタイプではない。
なぜ、そう思う?
で、ふと気づく。
そう言った、その人が、Kさんから的確な応答がなくて困っていた。
その人が 実はKさんに腹を立てていたのだ。
それでも、Kさんに付き従う人なので、自分を主語にして、ものが言えない。
だから、私を主語にしたのだ。
あまりにも、私の気持ちとかけ離れていたので、私はそれに乗らなかったが、ほんとうは、自分の代わりに、私に怒ってほしかったのだろう。
弱いタイプの人はそういう人がいる。
危険なタイプだ。
その同じ出来事で、私は実はえらい目に遭っている。
すっかり衰弱して、よく話をする友人に連絡を取って、話を聞いてもらった。
まあ、愚痴を聞いてもらったのだ。
すると、相手の反応。
はじめは親切な反応だが、だんだん、めんどくさくなってきているがわかる。
まあ、無理をして聞いてくれていた、ということがわかるので、そろそろ止めた方がいいかなと思っていたら、
相手の反応は、
「あなたは評価されている」ということだった。
いや、私は、衰弱しきっていたのて、大変だったことを伝えたかったのだ。
まあ、相手も反応に困ったのだろうが、「評価」が出てくるとは意外だった。
で、思い当たるのだ。
この人は、とても「評価」を大事にする人だと。
評価されたくてたまらないのだろう。
しょっちゅう、評価されるために努力している。
そして、評価されるとものすごくうれしそうだし、評価されないとものすごく落ち込む。
私は、「評価」を外してつきあえる相手だから、リラックスするのだろう。
他の人とは、なんだか、シャキッとしてしゃべるのが癖だ。
そして、自分は「賢い」人だと思われていると思い込んでいるふしがある。
が、少し話すと、この人の賢くない部分はすぐに見える。
それでも、普通は、賢い部分もそうでない部分も含めて、人を受け入れるもので、賢いから付き合うわけではない。
この人は、そう言えば、知り合った頃、私が「賢い」から付き合う相手と決めたようなことを言っていたのを思い出した。
現在の友人関係も、高学歴の人ばかり。
私から見ると、不思議な交友関係だ。
一生懸命、受け入れられるように努力している。
認められたいのだ。
私にはあまりにも縁のない感情。
もちろん、評価されるのは喜ばしいことではあるが、それを目的に行動するわけではない私は、けっこう、貧乏くじを引く。
まあ、貧乏くじにも、面白いところがあるもので、、、。
出るね。
こういうのも、話の反応で出るものだね。
まあ、実際、大変だったのだ。
こういう時に、人を発見することがある。
Kさんという人がいる。
この人の人柄はまあ置いておこう。
何かと問題を感じる人ではあるが、今までは、距離さえ置いていれば、無害だった。
が、このたび、この人に頼まれ事をした。
うっかり(本当にうっかり)、引き受けた。
こういう人は、頼み方もうまい。
大変な部分は言わず、なんとなく、引き受けさせるのがうまい。
それにひっかかる自分のこともまあ措くとしよう。
私がその人に、確認の連絡を入れても入れても、スルーする。
何か都合が悪いのだろう。
困惑しきっていた。
すると、昔からその人と親しい人が、そのやりとりを知っていて、
「M吉さん、怒るのではないかと心配だった」
「M吉さんとKさんが仲が悪くなるのではないかと思った」と言った。
私は怒りっぽいタイプではない。
なぜ、そう思う?
で、ふと気づく。
そう言った、その人が、Kさんから的確な応答がなくて困っていた。
その人が 実はKさんに腹を立てていたのだ。
それでも、Kさんに付き従う人なので、自分を主語にして、ものが言えない。
だから、私を主語にしたのだ。
あまりにも、私の気持ちとかけ離れていたので、私はそれに乗らなかったが、ほんとうは、自分の代わりに、私に怒ってほしかったのだろう。
弱いタイプの人はそういう人がいる。
危険なタイプだ。
その同じ出来事で、私は実はえらい目に遭っている。
すっかり衰弱して、よく話をする友人に連絡を取って、話を聞いてもらった。
まあ、愚痴を聞いてもらったのだ。
すると、相手の反応。
はじめは親切な反応だが、だんだん、めんどくさくなってきているがわかる。
まあ、無理をして聞いてくれていた、ということがわかるので、そろそろ止めた方がいいかなと思っていたら、
相手の反応は、
「あなたは評価されている」ということだった。
いや、私は、衰弱しきっていたのて、大変だったことを伝えたかったのだ。
まあ、相手も反応に困ったのだろうが、「評価」が出てくるとは意外だった。
で、思い当たるのだ。
この人は、とても「評価」を大事にする人だと。
評価されたくてたまらないのだろう。
しょっちゅう、評価されるために努力している。
そして、評価されるとものすごくうれしそうだし、評価されないとものすごく落ち込む。
私は、「評価」を外してつきあえる相手だから、リラックスするのだろう。
他の人とは、なんだか、シャキッとしてしゃべるのが癖だ。
そして、自分は「賢い」人だと思われていると思い込んでいるふしがある。
が、少し話すと、この人の賢くない部分はすぐに見える。
それでも、普通は、賢い部分もそうでない部分も含めて、人を受け入れるもので、賢いから付き合うわけではない。
この人は、そう言えば、知り合った頃、私が「賢い」から付き合う相手と決めたようなことを言っていたのを思い出した。
現在の友人関係も、高学歴の人ばかり。
私から見ると、不思議な交友関係だ。
一生懸命、受け入れられるように努力している。
認められたいのだ。
私にはあまりにも縁のない感情。
もちろん、評価されるのは喜ばしいことではあるが、それを目的に行動するわけではない私は、けっこう、貧乏くじを引く。
まあ、貧乏くじにも、面白いところがあるもので、、、。
出るね。
こういうのも、話の反応で出るものだね。
誰にでも癖がある ― 2025/01/30 12:53
人との距離というのは難しい。
標題の「癖」というのは、ひとくせある、という意味の「くせ」だ。
いい人だなぁと思って、仲良くなれるかなぁと思っていても、
思いもかけないところで、こだわりの強い人だったりして、
急に、強い勢いで向かってこられると、
「おお、こわ」と、こっちは退散することになる。
長い付き合いで、
いろいろわかっている人の方が、安心してつきあえる。
新しく距離の近くなった人は、気をつけるに越したことはない。
相手には悪気がないかもしれないが、
私の言葉に案外、抵抗を感じていたりするのかもしれない。
繊細な人ほどそうかも。
気が弱いために人間関係で悩んでいるのかと思いきや、
ほんとうは、その人のこだわりが強くて、
周りが困って、距離を置いているケースもある。
長年、カウンセリングに通っている、というような人の言動は、
多分に自己中で、考え方も柔軟ではなかったりする。
長年、自己変革に至らないままで生きてきているのかもしれない。
たいていの者は、トラウマをかかえながら、
それでも、自分をなだめ、自分を鍛え直しながら、
なんとか生きていく。
それができないから、カウンセリングに頼るのだろう。
カウンセリングをさまよい続ける人は、過去、たくさん見てきた。
自力で立ち直れないで、ずっと、他人から心の平安をもたらされるのを期待し続ける。
こういう人は、危険かも。
距離を置く。
標題の「癖」というのは、ひとくせある、という意味の「くせ」だ。
いい人だなぁと思って、仲良くなれるかなぁと思っていても、
思いもかけないところで、こだわりの強い人だったりして、
急に、強い勢いで向かってこられると、
「おお、こわ」と、こっちは退散することになる。
長い付き合いで、
いろいろわかっている人の方が、安心してつきあえる。
新しく距離の近くなった人は、気をつけるに越したことはない。
相手には悪気がないかもしれないが、
私の言葉に案外、抵抗を感じていたりするのかもしれない。
繊細な人ほどそうかも。
気が弱いために人間関係で悩んでいるのかと思いきや、
ほんとうは、その人のこだわりが強くて、
周りが困って、距離を置いているケースもある。
長年、カウンセリングに通っている、というような人の言動は、
多分に自己中で、考え方も柔軟ではなかったりする。
長年、自己変革に至らないままで生きてきているのかもしれない。
たいていの者は、トラウマをかかえながら、
それでも、自分をなだめ、自分を鍛え直しながら、
なんとか生きていく。
それができないから、カウンセリングに頼るのだろう。
カウンセリングをさまよい続ける人は、過去、たくさん見てきた。
自力で立ち直れないで、ずっと、他人から心の平安をもたらされるのを期待し続ける。
こういう人は、危険かも。
距離を置く。
スマホを忘れただけなのに、、、 ― 2025/01/23 15:05
今朝は、定期的に検査を受けている病院に行くのに、いつもより早く支度をして出かけた。
最近は、朝から出かける用事が少ない(と言うか避けている)ので、結構、たいそうになる。
で、マンションを出て、スマホで電話をしている人を見かけて、
スマホを家に置き忘れてきたことに気づいた。
一瞬、取りに戻ろうときびすを返したが、
清掃の人と挨拶を交わした直後、
なんだか、また会うのもおっくうな感じで、
諦めた。
一日、スマホのない外出を経験するのも、何かの実験だ、と電車に乗って病院へ。
大した乗車時間ではないが、なんだか落ち着かない。
多くの人は、スマホを見ている。
手持ち無沙汰だが、病院に着いて、
病院では、Kindleを持って行っていたので、本を読んでいた。
Kindleがなかったら、たぶん、コンビニに何か本を買いに行ったような気がする。
で、散歩をしてから帰ろうと思った。
が、スマホのない不便さに(特に必要とする場面もないにもかかわらず)妙に疲れを感じて、
昼食用の食べ物を買って、家へまっしぐら。
つ、疲れたぞ、、、。
スマホなしで、長くはいられない。
何だろう? この依存ぶりは、、、。
やたら疲弊した。
何だろうね、この現象。
最近は、朝から出かける用事が少ない(と言うか避けている)ので、結構、たいそうになる。
で、マンションを出て、スマホで電話をしている人を見かけて、
スマホを家に置き忘れてきたことに気づいた。
一瞬、取りに戻ろうときびすを返したが、
清掃の人と挨拶を交わした直後、
なんだか、また会うのもおっくうな感じで、
諦めた。
一日、スマホのない外出を経験するのも、何かの実験だ、と電車に乗って病院へ。
大した乗車時間ではないが、なんだか落ち着かない。
多くの人は、スマホを見ている。
手持ち無沙汰だが、病院に着いて、
病院では、Kindleを持って行っていたので、本を読んでいた。
Kindleがなかったら、たぶん、コンビニに何か本を買いに行ったような気がする。
で、散歩をしてから帰ろうと思った。
が、スマホのない不便さに(特に必要とする場面もないにもかかわらず)妙に疲れを感じて、
昼食用の食べ物を買って、家へまっしぐら。
つ、疲れたぞ、、、。
スマホなしで、長くはいられない。
何だろう? この依存ぶりは、、、。
やたら疲弊した。
何だろうね、この現象。
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