時代は変わった・・・ ― 2025/02/13 11:03
仕事に求めるものを問われた若い人が、
「自分らしくいられない仕事はやりたくない」
「生きがいとならなければ仕事ではない」
などなど、、、。
最初、聞いたときは目眩がしそうだった。
仕事に生きがいを求める、とは?
自分らしくいられる仕事とは?
もちろん、そのような仕事に就けるのは幸せだ、と思う感覚はある。
大正生まれの私の父ですら、テレビで歌手の後ろで楽器を演奏する楽団の人々の楽しそうな顔が映ると、
「自分の好きなことを仕事にできるのはええなぁ」というようなことを言っていた。
私も「主婦」からスタートしたので、
夫が生活費を稼ぐ役割を担当していたから、
少しは選択の自由があったとは思う。
でも、仕事をしたかったので、何でもいいから働きたい、と思っていた時期があった。
が、子どもが小さくて田舎暮らしで、何の資格もない私がやれそうな仕事はなく、
面接に行っても、ことごとく採用されなかった。
何でもいいから働きたい、と切に思っていた。
それは、主婦という、最も自分に合わない役割(=仕事)をあてがわれて、もがいていたからなのだが。
やがて、仕事に就くようになった。
私がそれまで携わってきた様々な「活動」の延長上に仕事があった。
気がついたら、専門職として雇用されるようになっていた。
ある行政の施設で、専門職として働いていたとき、
主に子どもの手が離れた主婦の人たちが数人、アルバイトとして受付や事務作業のためにシフト雇用されていた。
そのうちの一人が、
「〇〇さんは、電話が苦手で、出られないんです」と私に訴えた。
私は、上司ではなく、専門職としてその人たちにアドバイスをする立場だったが、その人たちは、いろいろな困りごとを私に訴えてくるようになっていた。
が、事務や受付などを担当する働き手の、電話が苦手で出たくない、という訴えには、賛同できなかった。
人手が余っているわけではないその職場では、電話に出てもらわなくては困るのだ。
私は、ただ、
「仕事ですからねぇ」と答えた。
苦手だろうが何だろうが、それは給料に見合って期待される業務なのだ。
電話を受けて、判断したり決定したりはしない。
ただ、電話を受けて、決定権のある立場の人につなぐだけの仕事だ。
私にそれを訴えた人は、察しが良く、私の答えを聞いて、
なるほど、と言うように返してきた。
「私たち、甘えてましたね。仕事ですものね、、、」と。
長年、家族の世話だけをしてきて、社会関係は近所づきあいだけ、というような人たちは、お互いに許し合う関係に慣れていたりする。
そのモードを、職場に持ち込んでいたのだ。
私も、できるだけ、その職場を働きやすい職場にするように努力はしていた。
その人たちが、意欲的に仕事に取り組めるように工夫をしていた。
それは、ある程度、成功した面もあると自負している。
当時のその人たちは、私がいた時期のその職場は、仕事にやりがいを感じられて、とても楽しかったと、後々まで言ってくれていた。
それでも、私は、時間給で雇用されている彼女たちは、
雇用主に時間労働を提供して対価を得ているのだから、
想定内の業務であるかぎり得意でなくてもこなさなければならないとは思っていた。
仕事とはそういうものだと。
だからこそ、その人たちのモチベーションを上げるための工夫が要るのだと思っていた。
長年、「主婦」をしていた人たちの、潜在能力を引き出したい、それを見える形にしたい、という強い思いがあった。
当時、女性たちは、あまりにもその能力や適性を顧みられないで、安く買いたたかれていたので、そこを打破したいというのは、私の信念だった。
女性たちも、社会の評価を内面化しているところがあり、自分の能力を信じていなかった。
その彼女たちの能力の再評価、モチベーションの上昇を目指して、私もその自分の役割にやりがいを感じていた。
が、今は違うのだ。
女性たちは、今や、年寄りの手助けなどなくても、
自分の能力、適性をしっかり信じていて、(時には過信していて)、
自分らしくいられない仕事はやらない、と言う。
自分に合った仕事しかしない、と言う。
もちろん、私も仕事を選ぶとき、その思いはあった。
仕事に費やす時間は一日の大半であるので、
自分の適性とかけ離れた仕事では自分が疲弊するだけだろうと思い、
自分の性分、適性、思想に適合した仕事を選びたいと思ってはいた。
が、一方で、見込みとは違う仕事もあるもので、
仕事は身過ぎ世過ぎだと、割り切って続けようとしていたこともある。
辛抱とやりがいのバランスを取っているような感じだった。
だから、辛抱が続く人には、それが緩和されるように、
やりがいを感じている人はさらに力が発揮できるように、
できる手助けをしたかった。
が、
「仕事は、自分らしくいられるもの」と定義する人が増えた。
まあ、その発言の内容には、様々な意味合いが含まれているだろうから、
軽々に評価できないけれども、
そもそもの定義に、呆然とする私がいるのだ。
「なるべく、自分に合った仕事がしたい」というのと、
「自分らしくいられない仕事はやらない」というのとは、
違う気がする。
「自分らしくいられる」ことが当たり前になった現代、
もはや、私の感覚は古すぎるのだろう。
「自分らしさ」なんてワードが存在しなかった時代、
辛くなければめっけもの、
生き延びられれば幸運
だった時代の者の感覚は、もはやあまりにも前時代過ぎて、
通用しないのだろう。
しかし、こういう私の感覚が普通だった時代の考え方をすぐに放擲してはならないような気がする。
足下をすくわれる気がするのだ。
見せかけのパラダイスにだまされてはならない、と思ってしまうのだ。
「自分らしくいられない仕事はやりたくない」
「生きがいとならなければ仕事ではない」
などなど、、、。
最初、聞いたときは目眩がしそうだった。
仕事に生きがいを求める、とは?
自分らしくいられる仕事とは?
もちろん、そのような仕事に就けるのは幸せだ、と思う感覚はある。
大正生まれの私の父ですら、テレビで歌手の後ろで楽器を演奏する楽団の人々の楽しそうな顔が映ると、
「自分の好きなことを仕事にできるのはええなぁ」というようなことを言っていた。
私も「主婦」からスタートしたので、
夫が生活費を稼ぐ役割を担当していたから、
少しは選択の自由があったとは思う。
でも、仕事をしたかったので、何でもいいから働きたい、と思っていた時期があった。
が、子どもが小さくて田舎暮らしで、何の資格もない私がやれそうな仕事はなく、
面接に行っても、ことごとく採用されなかった。
何でもいいから働きたい、と切に思っていた。
それは、主婦という、最も自分に合わない役割(=仕事)をあてがわれて、もがいていたからなのだが。
やがて、仕事に就くようになった。
私がそれまで携わってきた様々な「活動」の延長上に仕事があった。
気がついたら、専門職として雇用されるようになっていた。
ある行政の施設で、専門職として働いていたとき、
主に子どもの手が離れた主婦の人たちが数人、アルバイトとして受付や事務作業のためにシフト雇用されていた。
そのうちの一人が、
「〇〇さんは、電話が苦手で、出られないんです」と私に訴えた。
私は、上司ではなく、専門職としてその人たちにアドバイスをする立場だったが、その人たちは、いろいろな困りごとを私に訴えてくるようになっていた。
が、事務や受付などを担当する働き手の、電話が苦手で出たくない、という訴えには、賛同できなかった。
人手が余っているわけではないその職場では、電話に出てもらわなくては困るのだ。
私は、ただ、
「仕事ですからねぇ」と答えた。
苦手だろうが何だろうが、それは給料に見合って期待される業務なのだ。
電話を受けて、判断したり決定したりはしない。
ただ、電話を受けて、決定権のある立場の人につなぐだけの仕事だ。
私にそれを訴えた人は、察しが良く、私の答えを聞いて、
なるほど、と言うように返してきた。
「私たち、甘えてましたね。仕事ですものね、、、」と。
長年、家族の世話だけをしてきて、社会関係は近所づきあいだけ、というような人たちは、お互いに許し合う関係に慣れていたりする。
そのモードを、職場に持ち込んでいたのだ。
私も、できるだけ、その職場を働きやすい職場にするように努力はしていた。
その人たちが、意欲的に仕事に取り組めるように工夫をしていた。
それは、ある程度、成功した面もあると自負している。
当時のその人たちは、私がいた時期のその職場は、仕事にやりがいを感じられて、とても楽しかったと、後々まで言ってくれていた。
それでも、私は、時間給で雇用されている彼女たちは、
雇用主に時間労働を提供して対価を得ているのだから、
想定内の業務であるかぎり得意でなくてもこなさなければならないとは思っていた。
仕事とはそういうものだと。
だからこそ、その人たちのモチベーションを上げるための工夫が要るのだと思っていた。
長年、「主婦」をしていた人たちの、潜在能力を引き出したい、それを見える形にしたい、という強い思いがあった。
当時、女性たちは、あまりにもその能力や適性を顧みられないで、安く買いたたかれていたので、そこを打破したいというのは、私の信念だった。
女性たちも、社会の評価を内面化しているところがあり、自分の能力を信じていなかった。
その彼女たちの能力の再評価、モチベーションの上昇を目指して、私もその自分の役割にやりがいを感じていた。
が、今は違うのだ。
女性たちは、今や、年寄りの手助けなどなくても、
自分の能力、適性をしっかり信じていて、(時には過信していて)、
自分らしくいられない仕事はやらない、と言う。
自分に合った仕事しかしない、と言う。
もちろん、私も仕事を選ぶとき、その思いはあった。
仕事に費やす時間は一日の大半であるので、
自分の適性とかけ離れた仕事では自分が疲弊するだけだろうと思い、
自分の性分、適性、思想に適合した仕事を選びたいと思ってはいた。
が、一方で、見込みとは違う仕事もあるもので、
仕事は身過ぎ世過ぎだと、割り切って続けようとしていたこともある。
辛抱とやりがいのバランスを取っているような感じだった。
だから、辛抱が続く人には、それが緩和されるように、
やりがいを感じている人はさらに力が発揮できるように、
できる手助けをしたかった。
が、
「仕事は、自分らしくいられるもの」と定義する人が増えた。
まあ、その発言の内容には、様々な意味合いが含まれているだろうから、
軽々に評価できないけれども、
そもそもの定義に、呆然とする私がいるのだ。
「なるべく、自分に合った仕事がしたい」というのと、
「自分らしくいられない仕事はやらない」というのとは、
違う気がする。
「自分らしくいられる」ことが当たり前になった現代、
もはや、私の感覚は古すぎるのだろう。
「自分らしさ」なんてワードが存在しなかった時代、
辛くなければめっけもの、
生き延びられれば幸運
だった時代の者の感覚は、もはやあまりにも前時代過ぎて、
通用しないのだろう。
しかし、こういう私の感覚が普通だった時代の考え方をすぐに放擲してはならないような気がする。
足下をすくわれる気がするのだ。
見せかけのパラダイスにだまされてはならない、と思ってしまうのだ。
小野小町 ― 2025/02/17 10:55
私は、歴史の専門家でもないし、
ただの名もない高齢のブロガー(ブログ書いているからブロガーというだけの意味ね!)なので、
思いつきで、無責任にいろいろ書きます。
で、小野小町のこと。
歴史上、不明なことの多い謎の人物ですが、
「美女」の評判が高く、
歴史好きの男(偏見を交えて言っちゃう)が、
やたら興味をかき立てられたのかなと思います。
男たちの求愛をことごとく断ったことなどが有名で、
自信過剰の男などは、「自分なら」と思い込んだりして、余計、興味を持ったのでしょうか。
<ここから、ですます調、やめる>
ほんっとに、自信持ちすぎの「男」が多い。
それが、そもそもセクハラの素なんだけど。
ま、自信を失ってこじれた「男」もややこしくてうっとうしいけどね。
で、小野小町。
「穴なし小町」などと言われている。
これって、男を寄せ付けなかった、と言われるイメージから来たのだろうか。
実は、私は、このワードで、ずっと思っていることがある。
間違いかどうかは証明のしようがないけれども、私のイメージだ。
小野小町さんが怒ってこなければ許されるだろう。
私は、
小町さんは、今で言う、「完全型アンドロゲン不応症」だったのではないか、と思っている。
これは医学的な名称だが、
ざっくり言うと、
この状況の人は、性染色体はXYだが、
胎児期の性分化の時期に、アンドロゲン(つまり男性ホルモンね)を受容する機能が働かなかったので、
外見は、女性形だ。
そういう人も結構おられるだろうが、その事実に直面して、
絶望する人も多いだろう。
膣は外見的には存在するが、盲端となっている。
男性性器は、原器は存在するが、発達していない。
見た目は完全に女性形。
しかも、通常より女性らしい外見だと言われている。
女性的で美しい人が多い、と聞く。
アメリカの歌手・モデルで、イーデン・アトウッドという人がいる。
写真で見ると、とても美しい。
以前は動画もあったが、今は見つからないので、削除されたのかな?
歌は、youtubeで聞ける。
https://www.youtube.com/watch?v=DxLnMyA0owc&list=RDEMR5jZtPypGGarnsGQT7YLMw&index=2
この人は、アンドロゲン不応症であることをカミングアウトしているが、
事実を知らされたときは、相当な葛藤があったようだ。
苦しみは、ずっと続いている可能性もある。
こうまで美しいと、人々の賞賛や憧れを生むだろう。
が、自身の生物学的性は「男性」だと知らされたのだから、そのショックたるや、想像もつかない。
が、実際のところ、
性染色体がXYであるから、「男性」とは言えない。
決めつけられない、と言うべきか。
多くの人は、Y染色体にあるSRY遺伝子の働きから、いわゆる「男性」の性的特徴を獲得し、
SRY遺伝子を持たない人は、いわゆる「女性」型の特徴を持って生まれる。
が、その境界は実に曖昧だ。
胎児期の性分化はとても複雑だ。
だから、両方の特徴を持つ人もおられる。
そもそも、男女の区別は、どこで線引きされるのか。
実際のところ、男女の二つの性別しかない、という認識では、
現実に見られる実態を説明できない。
性を二種類に分けるのは、生殖機能に着目しての話だが、
実は生殖に関与しない個体もあるわけで、
生殖を軸に人間を分けるのなら、まず生殖年齢に絞らなければならず、雄の個体と雌の個体と、生殖に関与しない個体の3種類がある、ということになる。
男と女の二種類に分けるのは無理があるし、それぞれを定義づけるのは至難だ。
大学の授業で、この性の分化について教えていた頃、
学生たちは、もっと早くに教わるべき事だと感想を伝えてくれた。
教わらなかったから、無知で偏見を持った大人たちのマネをして、
セクシュアリティをネタに、級友をからかったりしてしまった、と、
打ち明けてくる学生もいた。
無知で偏見に満ちた大人たちが、まだ政治を動かし、教育にも出張ってくる。
マイノリティと言われる人々は災難だ。
現在の知見ではこのようなことも、次第に知られるようになってはいるが、
(まあ、まだまだなのだけど)、
小野小町の時代には、そういう知識は、当然、皆無だ。
生物学的に中性的な人の存在は知られていたと思うが、
大らかな時代、「変わった人もいるもんだ」で済まされていたような気もする。
が、小野小町はなにしろ、希代の美女と言われた人。
その「女性性」を疑われることはなかったのだろう。
で、「穴なし小町」という奇妙な言葉が言われるようになったのかな、という、ド素人の解釈である。
「性差」という軛が邪魔だと思ってきた私には、
時代状況の中で、それらがどう解釈されてきたのか、ということは、
興味のある話なのだ。
今、マイノリティと呼ばれているタイプの人々は、どの時代にも確実に存在してきたのだから。
トランプの頑迷固陋で無知な宣言に、同調する人たちは、みんなアホなのか?
ただの名もない高齢のブロガー(ブログ書いているからブロガーというだけの意味ね!)なので、
思いつきで、無責任にいろいろ書きます。
で、小野小町のこと。
歴史上、不明なことの多い謎の人物ですが、
「美女」の評判が高く、
歴史好きの男(偏見を交えて言っちゃう)が、
やたら興味をかき立てられたのかなと思います。
男たちの求愛をことごとく断ったことなどが有名で、
自信過剰の男などは、「自分なら」と思い込んだりして、余計、興味を持ったのでしょうか。
<ここから、ですます調、やめる>
ほんっとに、自信持ちすぎの「男」が多い。
それが、そもそもセクハラの素なんだけど。
ま、自信を失ってこじれた「男」もややこしくてうっとうしいけどね。
で、小野小町。
「穴なし小町」などと言われている。
これって、男を寄せ付けなかった、と言われるイメージから来たのだろうか。
実は、私は、このワードで、ずっと思っていることがある。
間違いかどうかは証明のしようがないけれども、私のイメージだ。
小野小町さんが怒ってこなければ許されるだろう。
私は、
小町さんは、今で言う、「完全型アンドロゲン不応症」だったのではないか、と思っている。
これは医学的な名称だが、
ざっくり言うと、
この状況の人は、性染色体はXYだが、
胎児期の性分化の時期に、アンドロゲン(つまり男性ホルモンね)を受容する機能が働かなかったので、
外見は、女性形だ。
そういう人も結構おられるだろうが、その事実に直面して、
絶望する人も多いだろう。
膣は外見的には存在するが、盲端となっている。
男性性器は、原器は存在するが、発達していない。
見た目は完全に女性形。
しかも、通常より女性らしい外見だと言われている。
女性的で美しい人が多い、と聞く。
アメリカの歌手・モデルで、イーデン・アトウッドという人がいる。
写真で見ると、とても美しい。
以前は動画もあったが、今は見つからないので、削除されたのかな?
歌は、youtubeで聞ける。
https://www.youtube.com/watch?v=DxLnMyA0owc&list=RDEMR5jZtPypGGarnsGQT7YLMw&index=2
この人は、アンドロゲン不応症であることをカミングアウトしているが、
事実を知らされたときは、相当な葛藤があったようだ。
苦しみは、ずっと続いている可能性もある。
こうまで美しいと、人々の賞賛や憧れを生むだろう。
が、自身の生物学的性は「男性」だと知らされたのだから、そのショックたるや、想像もつかない。
が、実際のところ、
性染色体がXYであるから、「男性」とは言えない。
決めつけられない、と言うべきか。
多くの人は、Y染色体にあるSRY遺伝子の働きから、いわゆる「男性」の性的特徴を獲得し、
SRY遺伝子を持たない人は、いわゆる「女性」型の特徴を持って生まれる。
が、その境界は実に曖昧だ。
胎児期の性分化はとても複雑だ。
だから、両方の特徴を持つ人もおられる。
そもそも、男女の区別は、どこで線引きされるのか。
実際のところ、男女の二つの性別しかない、という認識では、
現実に見られる実態を説明できない。
性を二種類に分けるのは、生殖機能に着目しての話だが、
実は生殖に関与しない個体もあるわけで、
生殖を軸に人間を分けるのなら、まず生殖年齢に絞らなければならず、雄の個体と雌の個体と、生殖に関与しない個体の3種類がある、ということになる。
男と女の二種類に分けるのは無理があるし、それぞれを定義づけるのは至難だ。
大学の授業で、この性の分化について教えていた頃、
学生たちは、もっと早くに教わるべき事だと感想を伝えてくれた。
教わらなかったから、無知で偏見を持った大人たちのマネをして、
セクシュアリティをネタに、級友をからかったりしてしまった、と、
打ち明けてくる学生もいた。
無知で偏見に満ちた大人たちが、まだ政治を動かし、教育にも出張ってくる。
マイノリティと言われる人々は災難だ。
現在の知見ではこのようなことも、次第に知られるようになってはいるが、
(まあ、まだまだなのだけど)、
小野小町の時代には、そういう知識は、当然、皆無だ。
生物学的に中性的な人の存在は知られていたと思うが、
大らかな時代、「変わった人もいるもんだ」で済まされていたような気もする。
が、小野小町はなにしろ、希代の美女と言われた人。
その「女性性」を疑われることはなかったのだろう。
で、「穴なし小町」という奇妙な言葉が言われるようになったのかな、という、ド素人の解釈である。
「性差」という軛が邪魔だと思ってきた私には、
時代状況の中で、それらがどう解釈されてきたのか、ということは、
興味のある話なのだ。
今、マイノリティと呼ばれているタイプの人々は、どの時代にも確実に存在してきたのだから。
トランプの頑迷固陋で無知な宣言に、同調する人たちは、みんなアホなのか?
アホに出会った ― 2025/02/18 17:14
昨日、小町のことを書いて、
今日は、某自治体の会議に出て、
早速、昨日、言及したアホに出会った。
性別二元論に揺さぶりをかけると、
どうして、アホな男は、あんなに動揺するのか。
ナルシスティックなヒロイズムで、
滔々と意見を言っていたその男、
私が性別二元論を相対化するような発言をした途端、
過剰反応して、うるさいこと、うるさいこと。
人間にはXXとXYの染色体があるから、
男と女の二種類に分けるのは当然、みたいなことを
しゃべり出した。
そこで私が、
「違うんですよ。性染色体は二種類ではないんですよ」と言うと、
それを聞いたとたん火がついて、ぎゃあぎゃあと意味のないくだらない弁舌を滔々と、、、。
自分には知識がないから、と言いながら、無知の論理を展開して、
あっけにとられたこちらは沈黙。
あなたを個人攻撃しているんではないんですよ、と言いながら、
話が止まらない。
狼狽すると、言い訳やら何やら、わけのわからないことを喋り続けるアホの典型みたいなおっさん。
私は、もう呆れて、反論するのを辞めたので、
相手はずっと喋り続けたあげく、恥ずかしくなったのかもしれない。
わけのわからん終わり方で、話を止めた。
2回ほど、相手の間違いを指摘したあと、
相手に恥ずかしい話をさせたまま、沈黙した私は自分を褒めてあげたい気分。
その人のダメさ加減が露呈した一コマだった。
今日は、某自治体の会議に出て、
早速、昨日、言及したアホに出会った。
性別二元論に揺さぶりをかけると、
どうして、アホな男は、あんなに動揺するのか。
ナルシスティックなヒロイズムで、
滔々と意見を言っていたその男、
私が性別二元論を相対化するような発言をした途端、
過剰反応して、うるさいこと、うるさいこと。
人間にはXXとXYの染色体があるから、
男と女の二種類に分けるのは当然、みたいなことを
しゃべり出した。
そこで私が、
「違うんですよ。性染色体は二種類ではないんですよ」と言うと、
それを聞いたとたん火がついて、ぎゃあぎゃあと意味のないくだらない弁舌を滔々と、、、。
自分には知識がないから、と言いながら、無知の論理を展開して、
あっけにとられたこちらは沈黙。
あなたを個人攻撃しているんではないんですよ、と言いながら、
話が止まらない。
狼狽すると、言い訳やら何やら、わけのわからないことを喋り続けるアホの典型みたいなおっさん。
私は、もう呆れて、反論するのを辞めたので、
相手はずっと喋り続けたあげく、恥ずかしくなったのかもしれない。
わけのわからん終わり方で、話を止めた。
2回ほど、相手の間違いを指摘したあと、
相手に恥ずかしい話をさせたまま、沈黙した私は自分を褒めてあげたい気分。
その人のダメさ加減が露呈した一コマだった。
そういう人生もあるのかなぁ ― 2025/02/19 12:17
テレビを見ていて、ふと思った。
若い頃に出会って、お互いに一目惚れだそうで、
男性が積極的にアタックして、結婚したそうだ。
そして、年を重ねて今もなお、
見た目も悪くない壮年夫婦として、
幸せそうに一緒に商売をしている。
それでふと思ったのだけど、
こういう人って、
つまり、相手をとても気に入っていて、
しかも性格的に良くて、お互いをいたわり合って、
趣味も考え方も合っていて、
そして、ストレスの少ない人生を送ってきたとして、
その人生観はどうなんだろう?
この世の掟を疑ったこともなく、
現状肯定的で、脳天気な人生観、社会観を持つのかな。
自分の生き方がこの世の規範に沿っていて、何の違和感もなく、
自分という個性が、この世の大勢に流されることに不快感もなく、
ハッピーでいられたら、
おそらく、私などとは全く違う人生観を持っているのだろう。
お幸せで結構だが、
この世で不幸をかかえる人の叫びや訴えを邪魔しないでくれたら
できれば、応援すらしてくれていたら、
そういう人の順風満帆な人生も何よりだが、
この人たちにとって、
「こんなに快適で問題のない社会」に、
なぜ、不満を持つのかわからないものだろうか。
あるいはそこまでハッピーでなくても、
波風立たないように努力して築いた暮らしの中で、
何とか小さな幸せを獲得している人々にとって、
社会が変化することを望む抵抗分子は邪魔だろうか。
自分が幸せでも、
そうでない人がたくさんいる、という事実は見えるはずで、
ものを考える人なら、そこに共感もわくだろうと想像するのだが、
それは私の、お花畑的人間観なのか。
若い頃に出会って、お互いに一目惚れだそうで、
男性が積極的にアタックして、結婚したそうだ。
そして、年を重ねて今もなお、
見た目も悪くない壮年夫婦として、
幸せそうに一緒に商売をしている。
それでふと思ったのだけど、
こういう人って、
つまり、相手をとても気に入っていて、
しかも性格的に良くて、お互いをいたわり合って、
趣味も考え方も合っていて、
そして、ストレスの少ない人生を送ってきたとして、
その人生観はどうなんだろう?
この世の掟を疑ったこともなく、
現状肯定的で、脳天気な人生観、社会観を持つのかな。
自分の生き方がこの世の規範に沿っていて、何の違和感もなく、
自分という個性が、この世の大勢に流されることに不快感もなく、
ハッピーでいられたら、
おそらく、私などとは全く違う人生観を持っているのだろう。
お幸せで結構だが、
この世で不幸をかかえる人の叫びや訴えを邪魔しないでくれたら
できれば、応援すらしてくれていたら、
そういう人の順風満帆な人生も何よりだが、
この人たちにとって、
「こんなに快適で問題のない社会」に、
なぜ、不満を持つのかわからないものだろうか。
あるいはそこまでハッピーでなくても、
波風立たないように努力して築いた暮らしの中で、
何とか小さな幸せを獲得している人々にとって、
社会が変化することを望む抵抗分子は邪魔だろうか。
自分が幸せでも、
そうでない人がたくさんいる、という事実は見えるはずで、
ものを考える人なら、そこに共感もわくだろうと想像するのだが、
それは私の、お花畑的人間観なのか。
また、ふと思ったので、、、。 ― 2025/02/19 15:53
一昨日のアホな人のことをまだ考えていた。
思えば、性別二元論を相対化できない人はたくさんいるのだろう。
そして、「あ」と思った。
この人たちは、天動説を信じて生きてきた人たちだ。
そう簡単に、地動説を信じることはできないだろう。
「だって、この地面、全然動いていないじゃないか!」
「地面はまっすくじゃないか、丸くなんかないじゃないか!」
と、怒り出すだろう。
いい加減なことを言うな! と。
この人たちは、性別二元論で生きてきた。
そこに、
「男とか女とか、そういう区切りは曖昧なものですよ」とか、
「性別を、男女で分ける、というのは言説の問題でして、実態はもっと多様です」
とか言っても、わけがわからないだけなんだろうなぁ、、、。
理解ができないのだろう。
もっともっと、情報が行き渡って、
どの人も、地動説を信じるようになるまで、とても年月がかかったように、
これら、知識のない人たちが、そこに到達できるようになるには、途方もない時間がかかるということなのだろうなぁ。
思えば、性別二元論を相対化できない人はたくさんいるのだろう。
そして、「あ」と思った。
この人たちは、天動説を信じて生きてきた人たちだ。
そう簡単に、地動説を信じることはできないだろう。
「だって、この地面、全然動いていないじゃないか!」
「地面はまっすくじゃないか、丸くなんかないじゃないか!」
と、怒り出すだろう。
いい加減なことを言うな! と。
この人たちは、性別二元論で生きてきた。
そこに、
「男とか女とか、そういう区切りは曖昧なものですよ」とか、
「性別を、男女で分ける、というのは言説の問題でして、実態はもっと多様です」
とか言っても、わけがわからないだけなんだろうなぁ、、、。
理解ができないのだろう。
もっともっと、情報が行き渡って、
どの人も、地動説を信じるようになるまで、とても年月がかかったように、
これら、知識のない人たちが、そこに到達できるようになるには、途方もない時間がかかるということなのだろうなぁ。
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