親の呪いの解き方 ― 2024/08/01 08:33
いや、解き方をここには書けない。
私にはまだわからないから。
たぶん、そんな魔法はないだろうと思うから。
ただ、様々な事象、
自分がとびきり自尊感情が低く、
他の多くの人とは違う感じになってしまうことなど、
やはりたどれば、親の呪詛に行き着く。
ことごとく、私をけなし、批判し、
学校の先生に褒められても即座に打ち消すことに躍起になった親。
「お前は、欠陥品だ。商品なら返品するところだが、返品できないから、ここに置いてやっている」と父に言われていた。
何をしても親には気に入られなかった。
親たちは、厳しく育てるのがよい、という信条を持っていた。
幼い私に自信のかけらでも見つけると、すぐにそれを根こそぎ、取り払おうとした。
傲慢は良くない。
自信たっぷりの女なんかかわいげがない。
奥床しく、「いえいえ、私なんて、、、」と自分を消して、控えめにしている女の姿を望んでいた。
10歳の子どもに、である。
徹底主義の親たちは、その自分たちの価値観を信じて疑わなかった。
そうしたことによって子どもが自尊感情を失い、自己否定的な性格形成をするなど、まだ、誰も指摘しない時代だ。
ふと、思うのだけど、昔の日本人の陰気でいじけた性格は、このような環境で育った人が多いせいかもしれない。
とにもかくにも、そういう子ども時代を送った私は、
いつも控え目でひっそりしている大人になったようだ。
他の多くの人が到達しない、
〇〇長に選ばれても、
〇〇賞をもらっても、
他の多くの人が誉めそやしても、
「尊敬しています」とまで言われても、
私の自尊感情は回復しない。低いままだ。
「私なんかがここにいてもいいのですか?」といつもおずおずと尋ねている(声には出さないけど)。
だから、どういう役職に就いても、貫禄がなかったのだな。
だから、なめられ、
ディスられ、
無視される。
ある、公的機関で働く人に紹介され、ご挨拶をした。
その人は、まだ女性がキャリアを積むことが少なかった時代だからそうなったのかわからないが、それなりに横柄な女性だった。
が、別にふんぞり返っているわけではなく、
なんとなく、ちょっと、一般の女性より偉そうな感じ、と言おうか。
しかし、私は気にしないでいた。
ふだん、接触することもない遠方の公的機関だし、
同じような職種で働く者として、
ご挨拶を済ませたので、それ以上、気にしていなかった。
その後、そういう公的機関で働く人などが集まる機会を提供している、埼玉にある国立女性教育会館(ヌエック)で再会した。
食事をしようと食堂へ入っていったら、
その人が一人で食事をしていた。
お互いにすぐに気づいて、挨拶をすると、
その人は、
「M吉さんって、偉い人だったんですね。全然知らなくて、失礼しました」と言った。
「〇〇とか、△△とか、いろいろ書いておられるんですね」と。
どういう経緯で知ったのかわからないが、当時、ライブラリーの仕事をしていた人なので、そこで扱う刊行物などで、私の名前を見たのだろう。
刊行物に名前が載ると、「偉い人」なのか、、、と、ぼんやり思った記憶がある。
それを知らないから、向こうは偉そうにしていたのか、、、と。
過去に何度も、私を第三者に紹介した人が、、
「M吉さんって、ほんとうは偉い人なんですよ」と、言うのを聞いた。
「ほんとうは」
「こう見えても」
という感じ。
当時の役職とか、講演をしている、とか、そういうことを指しているらしい。
私は、いつも気配を消そうとしているから、「偉い人」に見えないのだ。
「どうぞ、私のことは忘れていてください」と念じながら、人々の中にいるから。
講演会場に行っても、受付の人に、
「参加者名簿に名前を書いてね」と言われたり、
「お名前は?」と聞かれて伝えても、参加者名簿から私の名前を探して、「参加者名簿にない」と困られたり、、、。
講師だと思われないことなど、過去に数知れず。
うんと若い頃、たまたま友人が催した読書会で知り合った人と、
後日、2人で話をしたことがあった。
その人が、ある翻訳書を示して、
「これを読む前に知り合えてよかったです。読んでからだったら、すごく遠い偉い人だと思って、話なんてできなかった」と言った。
その翻訳書は共訳なので、翻訳者はグループ名になっているが、あとがきは私が書いていた。
まだ、一般の人が書籍を刊行するなどあり得なかった時代だ。
そこに名前があるだけで、「偉い人」のようなイメージを抱かせた時代だ。
私は自信なさげにそこにいるのだろう。
いや、外観だから、そう見えるのだろうということだ。
いつもいつも自信がないわけではない。
私が友人と主催しているささやかな定期イベントがある。
ある人に言われた。
共同主催の友人は押し出しが良いらしく、目立つらしく、いかにも主催者なのだが、
私は控えめにひっそりと存在しているらしく、
まさか主催者だとは思わなかった、と。
その人は、「小柄だし」とまで付け加えた。
要するに、存在感が薄いのだ。
私が、尊敬するあるNPOの主催者がいる。
私と同世代の女性だ。
すごいことをやり続ける人権系のNPO団体だ。
業界では有名だ。
そして、その主催者の女性は、実にオーラがない。
私の所属する団体で講師に来てもらったときでも、
気負いがなく、肩に力を入れず、でも、確実に伝えるべきことを伝えてくれた。
でも、壇上を下りれば、誰よりも貫禄がない。
私は、見かけ倒しより、よっぽどいいじゃないか、と思う。
そして、この尊大さが微塵もない、誰よりも目立たない感じのこの人を私は尊敬している。
あ、話をもとに戻すと、
私の存在感のなさは、親の呪いがかかったままだからだという話だ。
それは、もう、呪いを解くまじないなど通用しないものだ。
なぜなら、その呪いの下に、人として社会化され、
外の世界を学び、
成長してきたからだ。
そして、老いて来たからだ。
これを解く魔法はないだろう。
ただ、これが親の呪いだということをわかっておくだけだ。
私にはまだわからないから。
たぶん、そんな魔法はないだろうと思うから。
ただ、様々な事象、
自分がとびきり自尊感情が低く、
他の多くの人とは違う感じになってしまうことなど、
やはりたどれば、親の呪詛に行き着く。
ことごとく、私をけなし、批判し、
学校の先生に褒められても即座に打ち消すことに躍起になった親。
「お前は、欠陥品だ。商品なら返品するところだが、返品できないから、ここに置いてやっている」と父に言われていた。
何をしても親には気に入られなかった。
親たちは、厳しく育てるのがよい、という信条を持っていた。
幼い私に自信のかけらでも見つけると、すぐにそれを根こそぎ、取り払おうとした。
傲慢は良くない。
自信たっぷりの女なんかかわいげがない。
奥床しく、「いえいえ、私なんて、、、」と自分を消して、控えめにしている女の姿を望んでいた。
10歳の子どもに、である。
徹底主義の親たちは、その自分たちの価値観を信じて疑わなかった。
そうしたことによって子どもが自尊感情を失い、自己否定的な性格形成をするなど、まだ、誰も指摘しない時代だ。
ふと、思うのだけど、昔の日本人の陰気でいじけた性格は、このような環境で育った人が多いせいかもしれない。
とにもかくにも、そういう子ども時代を送った私は、
いつも控え目でひっそりしている大人になったようだ。
他の多くの人が到達しない、
〇〇長に選ばれても、
〇〇賞をもらっても、
他の多くの人が誉めそやしても、
「尊敬しています」とまで言われても、
私の自尊感情は回復しない。低いままだ。
「私なんかがここにいてもいいのですか?」といつもおずおずと尋ねている(声には出さないけど)。
だから、どういう役職に就いても、貫禄がなかったのだな。
だから、なめられ、
ディスられ、
無視される。
ある、公的機関で働く人に紹介され、ご挨拶をした。
その人は、まだ女性がキャリアを積むことが少なかった時代だからそうなったのかわからないが、それなりに横柄な女性だった。
が、別にふんぞり返っているわけではなく、
なんとなく、ちょっと、一般の女性より偉そうな感じ、と言おうか。
しかし、私は気にしないでいた。
ふだん、接触することもない遠方の公的機関だし、
同じような職種で働く者として、
ご挨拶を済ませたので、それ以上、気にしていなかった。
その後、そういう公的機関で働く人などが集まる機会を提供している、埼玉にある国立女性教育会館(ヌエック)で再会した。
食事をしようと食堂へ入っていったら、
その人が一人で食事をしていた。
お互いにすぐに気づいて、挨拶をすると、
その人は、
「M吉さんって、偉い人だったんですね。全然知らなくて、失礼しました」と言った。
「〇〇とか、△△とか、いろいろ書いておられるんですね」と。
どういう経緯で知ったのかわからないが、当時、ライブラリーの仕事をしていた人なので、そこで扱う刊行物などで、私の名前を見たのだろう。
刊行物に名前が載ると、「偉い人」なのか、、、と、ぼんやり思った記憶がある。
それを知らないから、向こうは偉そうにしていたのか、、、と。
過去に何度も、私を第三者に紹介した人が、、
「M吉さんって、ほんとうは偉い人なんですよ」と、言うのを聞いた。
「ほんとうは」
「こう見えても」
という感じ。
当時の役職とか、講演をしている、とか、そういうことを指しているらしい。
私は、いつも気配を消そうとしているから、「偉い人」に見えないのだ。
「どうぞ、私のことは忘れていてください」と念じながら、人々の中にいるから。
講演会場に行っても、受付の人に、
「参加者名簿に名前を書いてね」と言われたり、
「お名前は?」と聞かれて伝えても、参加者名簿から私の名前を探して、「参加者名簿にない」と困られたり、、、。
講師だと思われないことなど、過去に数知れず。
うんと若い頃、たまたま友人が催した読書会で知り合った人と、
後日、2人で話をしたことがあった。
その人が、ある翻訳書を示して、
「これを読む前に知り合えてよかったです。読んでからだったら、すごく遠い偉い人だと思って、話なんてできなかった」と言った。
その翻訳書は共訳なので、翻訳者はグループ名になっているが、あとがきは私が書いていた。
まだ、一般の人が書籍を刊行するなどあり得なかった時代だ。
そこに名前があるだけで、「偉い人」のようなイメージを抱かせた時代だ。
私は自信なさげにそこにいるのだろう。
いや、外観だから、そう見えるのだろうということだ。
いつもいつも自信がないわけではない。
私が友人と主催しているささやかな定期イベントがある。
ある人に言われた。
共同主催の友人は押し出しが良いらしく、目立つらしく、いかにも主催者なのだが、
私は控えめにひっそりと存在しているらしく、
まさか主催者だとは思わなかった、と。
その人は、「小柄だし」とまで付け加えた。
要するに、存在感が薄いのだ。
私が、尊敬するあるNPOの主催者がいる。
私と同世代の女性だ。
すごいことをやり続ける人権系のNPO団体だ。
業界では有名だ。
そして、その主催者の女性は、実にオーラがない。
私の所属する団体で講師に来てもらったときでも、
気負いがなく、肩に力を入れず、でも、確実に伝えるべきことを伝えてくれた。
でも、壇上を下りれば、誰よりも貫禄がない。
私は、見かけ倒しより、よっぽどいいじゃないか、と思う。
そして、この尊大さが微塵もない、誰よりも目立たない感じのこの人を私は尊敬している。
あ、話をもとに戻すと、
私の存在感のなさは、親の呪いがかかったままだからだという話だ。
それは、もう、呪いを解くまじないなど通用しないものだ。
なぜなら、その呪いの下に、人として社会化され、
外の世界を学び、
成長してきたからだ。
そして、老いて来たからだ。
これを解く魔法はないだろう。
ただ、これが親の呪いだということをわかっておくだけだ。
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