謹賀新年!2020/01/05 12:25

ブログを閉じると言いながら、結局、閉じられないで年を越してしまった。

おめでとうございます、と言うには、
おめでたくないことが多すぎて、言えない。

来年度で、いよいよ仕事を終わるみたいだ。
細々と、獣道みたいな荒れた険しい道を歩いていた。
この先、道は開けるのだろうか、いや、どうもこの悪路は続きそうだ、
などと心細いまま、とにかく歩き続けるのに必死だった。

やがて、この道はなくなるだろう、と知っていた。
もう少し続いて、道は途絶えるのだろうと思っていた。
ら、いきなり、道の先に岩壁が立ちはだかった。
うそだろう? え? 細く細く続いてやがて道が消えると思っていた。
いつでも、予想外の展開だ。
いきなり、道がなくなった。
岩壁で、道は終わる。
そうだったのね。いきなりだったのね。

子どものころ、翌日、楽しみなことがあると、
それが、ダメになる可能性を、考えつく限り考えて、ショックに備えようとしていた。
親が翌日お出かけに連れてくれる日など、無邪気に喜び、
やがて、夜、寝床の中で、それが打ち砕かれるのではないか、
打ち砕かれるとしたら、理由は、あれか、これか、、、とあらゆる可能性を想像した。
が、翌朝、その想像以外のことで、やっぱり打ち砕かれた。
理由は、父の急な仕事、母の気まぐれのどちらかに分類されるが、
その中身は、子どもの私がそれまでの経験から予想した通りではなく、また新たな理由が付け加えられた。

よそ行きの服を着て、家の玄関を出たり入ったりして母を待っていた私の耳に、
母の不機嫌な声が響いたのを昨日のように覚えている。
「私は行かないから、お父さんと二人で行きなさい」と。
そのときの母の不機嫌の理由はわからない。
着て行きたい服が見つからない、
吹き出物ができてしまった、
そんな理由だった時の記憶がある。
子どもをがっかりさせることには、何の気遣いもない母だった。

父と二人で出掛けたってうれしくない。
父も母が行かないのに行きたくなかったのだろう。
結局、せっかく着ていたよそ行きの服を悲しい気持ちで脱いだ記憶が何度もある。

小さなころからそんな繰り返しで、いつも、キャンセルの心の準備はある。
が、予想外でぶちのめされるね。

もうちょっと続くはずの細い細い道。
でもその「ちょっと」が続かなかった。
あと一年、仕事は続くと思っていたら、
就業規則が書き換えられていて、あと半年なのだそうだ。

秋から、私、腑抜けになるかも。
生きていたら、ね。

半年後のことは、もう考えない。
来年度の前半をとにかく全力投球するしかない。

昨年夏、命拾いをしたので、もう大丈夫だと言う人が多いが、
私はそれほど楽観していない。
昨日、命拾いをしても、次の日、命を落とすことだってあるのだ。

期待が薄い分、失望に対する弾力は多少あるかも。
が、あの手この手で、よくもまぁ、こんなに失望の材料が繰り出されてくるなあ、という感じはする。

失意、無念。自分の人生を言葉で表せばこの二語かも。
あと、諦念かな。
母も、あきらめの達人だったところがある。
かなわない希望は抱かない、
未来は開けるはずがないから、夢も持たない。
母の人生も、うまくいかない連続だったのだろう。
で、結局、身の丈に合った見える範囲の生活設計だけを考える、リアリストになった。

身の程を知れ、という昔の人の言い方は、
多くの人がかなわない希望は最初から持たないという、自己防衛の機制の戒めだったのだろう。
私が育った文化は、根暗の文化だったが、
日本というこの国自体が、根暗文化なのだろうね。
非寛容で、内向きで、事なかれ主義の中で、
強い者だけが勝ち上がっていく社会がつくられている。

戦後、妙な「希望の花」が咲いたのは、
焼け跡から芽を吹いた生命を見た人たちの健気なイリュージョンだったのかも。

むやみな期待はしないけど、民主主義を理想に掲げる姿勢だけは堅持しようと、年頭に思うおばあさんの私。
焼け跡世代のチョイ後の世代の私は、大人たちの希望に満ちた顔を見たので、
(学校の先生たちが、民主主義への希望をうれしそうに語るのを見たので)、
それは大事だと信じているのだ。
民主主義や人権思想は、人類の最も美しい発明だと思っているのだ。
生きている限り、その夢だけは見ようと。
今年の9月は、満年齢で古希だ。