そろそろ日常に、、、 ― 2015/09/07 15:15
とは思いますが、なんだか脱力してしまって、少しもしゃんとしません。
母と過ごした最後の日々があまりにも濃くて、虚脱状態が続きます。
ああ、もう、お母さんはいないんだ、と思ったり、まだどこかにいるような気がしたり、
ひょっとして、私を縛る人はもういないということ? ひょっとして、私って自由? と思ったり。
母という存在は、濃い存在です。
今の若い人にとってどうなのかは知りません。
が、私のような年代の者には、母は強烈です。なにしろ、娘を支配した世代だから。
良くも悪くも、人によってタイプは違うとはいえ、娘を支配する権利を持っていると思っていた世代ですから。
で、娘も、支配されることに慣らされていましたから、私のように意識的に距離を置かない場合は、たいてい、母親に悩まされています。
で、母を悼む気持ちと、自由を得た感じとが、交互に押し寄せてきます。複雑です。
母と娘の関係の問題は、少し前までは、テーマにならなかった問題です。友人のカウンセラーも、母娘関係について本を書いていますが、とにかく、母に取り込まれないためにはどうするか、ということが多くの娘にとっての課題のようです。
嫌いな人なら、他人なら、逃げれば済むけど、嫌いではない、時に大好きな人、しかも最も近くにいた人ですから、そのアンビバレンツな感じは、ほんとうに複雑。
そろそろ、仏壇の横に作った祭壇を片付けないといけません。でも、なんだか、着々と片づけをする、ということもできずに、なんとなく、花を買ってきては供えます。
これは8月の写真。
厭世気分が止まらない ― 2015/09/15 10:20
どうも、気分がよろしくない。
誰も知らない、遠いところに行ってしまいたい、などと思ってしまいます。
鬱っぽいのでしょうか、、、。
一人で暮らしているので、朝、誰とも話しません。
(話してたら、怖いですが・・・)
猫はいます。
高齢化して、最近は、やたら大きな声で鳴きます。
鳴く、というより、吠える、という方が近いこともあります。
若い時に比べて、様子が変わってきました。
なんだか、頼りにならない。
(頼りにしてたのか、とつっこまれそうですが^^;)
仕事もそろそろなくなるだろうし、
(私の科目は旧カリキュラムに属していて、新入生は履修しない科目なのです)
家族もいないし、
なんだかな~、という感じなのです。
で、最近は唯一熱中しているIT系の小物を楽しみにしていたのですが、
それがさくさく動かないと、もう、やるせなさばかり。
逆に、新しく入手したITグッズがさくさく動くと、とっても幸せなのですが。
先週、前からほしかったスタンドアローンで使えるポケットプロジェクターを入手して、
(5年前くらいに発売されたもので、だいぶん価格が落ちています)
使用してみたのですが、謳い文句とは違って、
動画が再生されないのです。音声だけがむなしく響く。
で、カスタマーサポートセンターに電話をして、教えられたとおり、
ファームウエアをアップデートして、わくわくしながら動画再生を試みても、
同じ現象。
がっかり~。
さて、次は、パワポをPDF化して、スライドショーを試してみようかな~。
うまくいくかな~。
アンニュイな気分で、PCに向かっています。
左がプロジェクター。オフィス搭載ということで、期待したんだけどな~。
相変わらず、、、 ― 2015/09/19 11:38
気分がイマイチの今日この頃。
母が亡くなった実感は、わきません。そんなものでしょう。何度か、ここにも書いたと思いますが、親しかった人の死を実感する、というのは難しい気がします。いないことに慣れるだけだと、、、。
私たちは、どれくらい、「実感」というものを知っているのか、という新たな問いも立ち上がりますね。
想像していたことと実際に遭遇しての感覚とは異なることが多いので、それを「実感」と呼んでいたのでしょうか。考え出すとわからないことばかり。
以前、自分が癌を告知されたとき、「死」というものを考えました。多くの人が、この病気を告知されると考えるでしょう。特に、余命を宣告されたりしたら、その事実をどう受け入れるか、想像にあまりある葛藤だと思います。
今、日本人の二人に一人が癌になる、と言われている時代。余命宣告を受けるような重篤なケースでない癌が、早期に見つかることが増えたのも罹患率を上げているのだろうと考えます。
私も、ステージⅡだったので、助かる確率は低くなかったのですが、それでも、一旦、「死」を考えました。
自分の「死」は、それこそ、自分で実感することはないわけです。私の場合、未来を失う、という恐怖、あるいは絶望のような感じでした。
でも、「未来」って、誰も持っていないもの。癌を告知される前に私が持っていたのは、「未来があるような気がしている」感じに過ぎず、その感じを持てなくなる、ということでした。
そういう意味では、「未来がない」のは誰も同じ。では、私は何を持っているのか?
過去はもはや手にしているわけではなく、「記憶」というものに過ぎません。状況によって、変容し、違う物語にもなり得る「解釈」の結果でもあります。
未来も過去も、実体はないとすれば、私が手にしているのは、「現在」?
その「現在」は、それこそ過去と未来の結節点ではあっても、実体は認識の速度よりも早く、手から滑り落ちていくもの。
なんだ、私って、何も持ってないじゃん! と思ったら、ずいぶん、気が楽になって、あとは、
「手術が終わったら、固形物を食べられる!」という即物的な希望に身をゆだねて、悲観的な時間は案外短かったのでした。
母も何度も、「死」を考えたことでしょう。からだが楽でないときは、
「早く死にたい」と言ってたり、
ずっと寝たきりだと思い知ったときは、結構、明るい表情で、
「もう、終わろうと思うねん」なんて、言ったり、、、。
からだも丈夫でなく、精神的にもそれほど鍛練されていない少女のような母が、ベッドの上で健気に生きていた姿が、私の記憶に刻まれています。
その記憶を語る私も、やがていなくなる。
そんなことをふと、思ってしまう日々です。
母が亡くなった実感は、わきません。そんなものでしょう。何度か、ここにも書いたと思いますが、親しかった人の死を実感する、というのは難しい気がします。いないことに慣れるだけだと、、、。
私たちは、どれくらい、「実感」というものを知っているのか、という新たな問いも立ち上がりますね。
想像していたことと実際に遭遇しての感覚とは異なることが多いので、それを「実感」と呼んでいたのでしょうか。考え出すとわからないことばかり。
以前、自分が癌を告知されたとき、「死」というものを考えました。多くの人が、この病気を告知されると考えるでしょう。特に、余命を宣告されたりしたら、その事実をどう受け入れるか、想像にあまりある葛藤だと思います。
今、日本人の二人に一人が癌になる、と言われている時代。余命宣告を受けるような重篤なケースでない癌が、早期に見つかることが増えたのも罹患率を上げているのだろうと考えます。
私も、ステージⅡだったので、助かる確率は低くなかったのですが、それでも、一旦、「死」を考えました。
自分の「死」は、それこそ、自分で実感することはないわけです。私の場合、未来を失う、という恐怖、あるいは絶望のような感じでした。
でも、「未来」って、誰も持っていないもの。癌を告知される前に私が持っていたのは、「未来があるような気がしている」感じに過ぎず、その感じを持てなくなる、ということでした。
そういう意味では、「未来がない」のは誰も同じ。では、私は何を持っているのか?
過去はもはや手にしているわけではなく、「記憶」というものに過ぎません。状況によって、変容し、違う物語にもなり得る「解釈」の結果でもあります。
未来も過去も、実体はないとすれば、私が手にしているのは、「現在」?
その「現在」は、それこそ過去と未来の結節点ではあっても、実体は認識の速度よりも早く、手から滑り落ちていくもの。
なんだ、私って、何も持ってないじゃん! と思ったら、ずいぶん、気が楽になって、あとは、
「手術が終わったら、固形物を食べられる!」という即物的な希望に身をゆだねて、悲観的な時間は案外短かったのでした。
母も何度も、「死」を考えたことでしょう。からだが楽でないときは、
「早く死にたい」と言ってたり、
ずっと寝たきりだと思い知ったときは、結構、明るい表情で、
「もう、終わろうと思うねん」なんて、言ったり、、、。
からだも丈夫でなく、精神的にもそれほど鍛練されていない少女のような母が、ベッドの上で健気に生きていた姿が、私の記憶に刻まれています。
その記憶を語る私も、やがていなくなる。
そんなことをふと、思ってしまう日々です。
母の日記 ― 2015/09/27 14:17
母は、寝たきりになる直前まで、日記を書いていました。そんなに長いものではないのですが、ほぼ毎日書いていたようです。
人の日記は読むべきではない、というルールが私を縛っていて、見ないようにしていたのですが、ふと、ある日、ぱらぱらとめくりました。
特に自分の名前が出てくるところに目をひかれて、ドキドキしながら読んでしまいました。
そして、あらためて、母という人を思います。
母は、誰のことについても、悪く書いていません。時には淡々とできごとを、時には、自分への教訓のように、物事を記録しているのです。
そこには、見事なほどに、心の闇がないのです。
ある日、私に電話をしたけれども、私は出なかったそうです。
すると、母は、
「M吉は忙しいようだ。あまり甘えないで、できるだけ自分でできることは、自分でやるようにしよう」と書いています。私が電話に出なかったことへの恨みはなくて、これは、自分でがんばれ、ということなのだろうと、自分を励まして自力でがんばろうとします。
一貫して、日記はそういうトーンです。(全部、読んだわけではないけど、どこを拾い読みしても、恨みや怒りは皆無です。)
ヘルパーさんのことも、「来てもらってありがたい」と書いていて、ある大好きなヘルパーさんについては、「とても尊敬している」と書いてます。
ネガティブな感情を拾わずに、すべてをポジティブにとらえていく思考の処理の仕方。ストレスのない暮らしを目指した、母なりの人生のテクでしょう。
心身共にそれほどタフではない母が、平均寿命まで生きたのは、この暮らしのテクの効果かもしれません。
確かに、怒りはからだに悪い。ネガティブな感情は、誰よりも自分自身を蝕みます。
怒りっぽい高齢者のことなどを聞くと、まだエネルギーがあるんだなぁと、ただただ感心します。
私も母に似て、からだに悪いネガティブな感情は、なるべく早く自分の中から捨て去るように処理をする癖がついていますが、でも、あのような素直な、少女のような日記は真似できません。
延々と自分のこだわりを書き続け、ようやく、整理に到達する感じです。でも、これをやっていると、整理がついて、ネガティブな感情が薄まってきます。
私は、なぜ、このことに怒りを覚えるのか、なぜこんなにいやな気分になるのか、そのことをとりあえず文字を使って書き連ねます。
ものすごく辛かったある事件については、何年にもわたって、エッセイのかたちで発表し続けました。最近ようやく、自分の中で折り合いがついてきて、そうなると、自分の欠点や足りないところも認められるようになってきました。悪感情は、不毛です。悪感情を排して、ようやくある程度客観的に物事が見えるようになりました。
母のように初期操作でネガティブな感情を処理することは無理です。私は私なりに、分析を試みたりあれこれ解釈を重ねて、ネガティブな感情を処理します。
ストレスを減らし、魂をのびやかにしないと、憤死しそうだったので、生き延びるために思考の癖をしつけ直したように思います。
母もまた、長い人生の中で、自分をしつけ直していったのでしょう。
愛すべき健気な姿を、最後に私の記憶に残していってくれました。
人の日記は読むべきではない、というルールが私を縛っていて、見ないようにしていたのですが、ふと、ある日、ぱらぱらとめくりました。
特に自分の名前が出てくるところに目をひかれて、ドキドキしながら読んでしまいました。
そして、あらためて、母という人を思います。
母は、誰のことについても、悪く書いていません。時には淡々とできごとを、時には、自分への教訓のように、物事を記録しているのです。
そこには、見事なほどに、心の闇がないのです。
ある日、私に電話をしたけれども、私は出なかったそうです。
すると、母は、
「M吉は忙しいようだ。あまり甘えないで、できるだけ自分でできることは、自分でやるようにしよう」と書いています。私が電話に出なかったことへの恨みはなくて、これは、自分でがんばれ、ということなのだろうと、自分を励まして自力でがんばろうとします。
一貫して、日記はそういうトーンです。(全部、読んだわけではないけど、どこを拾い読みしても、恨みや怒りは皆無です。)
ヘルパーさんのことも、「来てもらってありがたい」と書いていて、ある大好きなヘルパーさんについては、「とても尊敬している」と書いてます。
ネガティブな感情を拾わずに、すべてをポジティブにとらえていく思考の処理の仕方。ストレスのない暮らしを目指した、母なりの人生のテクでしょう。
心身共にそれほどタフではない母が、平均寿命まで生きたのは、この暮らしのテクの効果かもしれません。
確かに、怒りはからだに悪い。ネガティブな感情は、誰よりも自分自身を蝕みます。
怒りっぽい高齢者のことなどを聞くと、まだエネルギーがあるんだなぁと、ただただ感心します。
私も母に似て、からだに悪いネガティブな感情は、なるべく早く自分の中から捨て去るように処理をする癖がついていますが、でも、あのような素直な、少女のような日記は真似できません。
延々と自分のこだわりを書き続け、ようやく、整理に到達する感じです。でも、これをやっていると、整理がついて、ネガティブな感情が薄まってきます。
私は、なぜ、このことに怒りを覚えるのか、なぜこんなにいやな気分になるのか、そのことをとりあえず文字を使って書き連ねます。
ものすごく辛かったある事件については、何年にもわたって、エッセイのかたちで発表し続けました。最近ようやく、自分の中で折り合いがついてきて、そうなると、自分の欠点や足りないところも認められるようになってきました。悪感情は、不毛です。悪感情を排して、ようやくある程度客観的に物事が見えるようになりました。
母のように初期操作でネガティブな感情を処理することは無理です。私は私なりに、分析を試みたりあれこれ解釈を重ねて、ネガティブな感情を処理します。
ストレスを減らし、魂をのびやかにしないと、憤死しそうだったので、生き延びるために思考の癖をしつけ直したように思います。
母もまた、長い人生の中で、自分をしつけ直していったのでしょう。
愛すべき健気な姿を、最後に私の記憶に残していってくれました。
瞬発力 ― 2015/09/28 10:41
友人で、瞬発力があり過ぎて、何かムッとすることを言われると、間髪を入れず応酬する人がいます。で、あとで、クヨクヨ。
「気を悪くされたみたい」
「私もムッとしたから、、、」
「でも、言い過ぎたかも」
「すぐに跳ね返さなけりゃよかった、、、」
あ~、と何も言えない私。
そうなんです。私は、瞬発力がなくて、何かいやなことを言われても、その時は、ボー然としてしまいます。ただ、「え? 何?」という感じで、言い返すほどに頭が働かないのです。
で、あとから、じわじわ悔しい思いがわいてきたり、夜寝る前に、出来事を反芻して、
「あれって、ひどいことを言われたんだ」と、気づいて、怒りにふるえたり。でも、もう意趣返しをするには、タイミングをはずし過ぎて、結局、もやもやしたまま、終わってしまいます。
でも、先に述べた友人を見ていると、私の場合、この瞬発力のなさで、命拾いしているかも、とも思います。
昔、一緒に働いている人のことを、上司が、こっそり「瞬間湯沸かし器」と呼んで、困っていました。確かに、その人は怒りっぽい。で、私から見ても、何を怒っているのかよくわからないことが多々ありました。
で、私の方は、「電気コタツ」。まあ、嫌われない、です。
ただ、この「電気コタツ」、たまにショートします。こういう時に遭遇した人は、ひときわ恐怖に陥るようです。
瞬間湯沸かし器の人より、電気コタツの私の方が怖いらしいです。
まあ、何年かに一度のことですが。
でも、何年経っても、「M吉さん、怒ったらこわいんだよ」と、言い続けられるのには閉口します。
とにかく、怒りを相手にぶつけるのは考えもの。
「一呼吸、置いてね」と、上に述べた友人には言っていますが、瞬発力の優れた人は、どうもそう思う前に、反応しちゃってるらしいです。
怒りの感情は誰にも起こるでしょう。それ自体が悪いわけではなさそうです。怒りを感じないようにしよう、というのは無理かも。
でも、それをどう表現するか、というところでは、自分をコントロールするテクニックが要りますね。
自分より弱い人に向けると、DVや虐待やいじめにつながります。互角の人に向けると、バトルになって、互いに傷つきます。
私は、自分より地位や権力がまさっている人に向けがちでした。相手が権力を持つ人だと、心が痛まない。でも、お返しがすごくて、こちらのダメージが大き過ぎるということを思い知りました。
で、結局、コントロールするテクを磨くしかない、ということになるのですね。
生きるにはスキルが要るんだ、ということを、どうもちゃんと教わってこなかった気がするのですが、(もちろん、立ち回りをうまくする、とか、そういうことではなく)、民主主義を貫くには、スキルが要るのだと、いまさらのように思います。
な~んて、話を大きくしちゃった~(^0^)
「気を悪くされたみたい」
「私もムッとしたから、、、」
「でも、言い過ぎたかも」
「すぐに跳ね返さなけりゃよかった、、、」
あ~、と何も言えない私。
そうなんです。私は、瞬発力がなくて、何かいやなことを言われても、その時は、ボー然としてしまいます。ただ、「え? 何?」という感じで、言い返すほどに頭が働かないのです。
で、あとから、じわじわ悔しい思いがわいてきたり、夜寝る前に、出来事を反芻して、
「あれって、ひどいことを言われたんだ」と、気づいて、怒りにふるえたり。でも、もう意趣返しをするには、タイミングをはずし過ぎて、結局、もやもやしたまま、終わってしまいます。
でも、先に述べた友人を見ていると、私の場合、この瞬発力のなさで、命拾いしているかも、とも思います。
昔、一緒に働いている人のことを、上司が、こっそり「瞬間湯沸かし器」と呼んで、困っていました。確かに、その人は怒りっぽい。で、私から見ても、何を怒っているのかよくわからないことが多々ありました。
で、私の方は、「電気コタツ」。まあ、嫌われない、です。
ただ、この「電気コタツ」、たまにショートします。こういう時に遭遇した人は、ひときわ恐怖に陥るようです。
瞬間湯沸かし器の人より、電気コタツの私の方が怖いらしいです。
まあ、何年かに一度のことですが。
でも、何年経っても、「M吉さん、怒ったらこわいんだよ」と、言い続けられるのには閉口します。
とにかく、怒りを相手にぶつけるのは考えもの。
「一呼吸、置いてね」と、上に述べた友人には言っていますが、瞬発力の優れた人は、どうもそう思う前に、反応しちゃってるらしいです。
怒りの感情は誰にも起こるでしょう。それ自体が悪いわけではなさそうです。怒りを感じないようにしよう、というのは無理かも。
でも、それをどう表現するか、というところでは、自分をコントロールするテクニックが要りますね。
自分より弱い人に向けると、DVや虐待やいじめにつながります。互角の人に向けると、バトルになって、互いに傷つきます。
私は、自分より地位や権力がまさっている人に向けがちでした。相手が権力を持つ人だと、心が痛まない。でも、お返しがすごくて、こちらのダメージが大き過ぎるということを思い知りました。
で、結局、コントロールするテクを磨くしかない、ということになるのですね。
生きるにはスキルが要るんだ、ということを、どうもちゃんと教わってこなかった気がするのですが、(もちろん、立ち回りをうまくする、とか、そういうことではなく)、民主主義を貫くには、スキルが要るのだと、いまさらのように思います。
な~んて、話を大きくしちゃった~(^0^)


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