自己肯定感 ― 2025/05/21 09:53
この手のテーマは、しょっちゅう書いているので、また同じ事の繰り返しかもしれないけれど、
人の生涯に大きい影響を与えるのは、
標題のこのことだと思う。
しみじみ思う。
人は、みな、少しずつ他の人とは違うものだ。
癖も、生活習慣も、体調も、あらゆる面が人それぞれだ。
共通点もあるが、違いもある。
それは、赤ちゃんの時から顕著だ。
それが、個性というものだろう。
が、その個性の違いを受け止められない養育者に育てられると、
子どもは災難だ。
自分そのものである部分を否定され、除去しようとされ、
自分であろうとすることが攻撃を受ける。
その子どもは、「その人自身」でいることを受け容れてもらえないのだから、
いつもびくびくといじけている子どもになる。
が、養育者によっては、
子どもの個性を当たり前のこととして理解しているので、
その子どもが、その子らしい部分を発揮することを妨げない。
「そういう子だ」と受容している。
矯正しようとはしない。
もちろん、社会のルールやマナーは教えるが、
その子がその子自身であることを否定したりはしない。
人はそれぞれ、みな異なるので、
それぞれその人らしいだけなのだが、
この、養育者の態度によって、人生の明暗が分かれる。
その子らしさを損なわれずに受容されてきた子は、
臆することなく、その子自身の個性を発揮して、
のびのびした自己認識を持つことになる。
が、その子らしさを否定され、叱られ、嫌われて育った子は、
自分が自分であることに引け目ばかり感じている。
自分は良くない存在だと思い込んで育つ。
いつもおどおどし、暗い人格を形成して大人になる。
以下のことも、嘗てここに書いたことかもしれないが、
また、書く。
忘れられないことだからだ。
以前、大教室で大人数の学生を教えていた。
ある時、同じ系列の科目を教えている専任の先生から、
「学生アンケートをとりたいので、M吉先生のところは学生数が多いから、アンケートに協力してほしい」と、頼まれた。
もちろん、二つ返事でOKである。
授業の最後の方で時間を取って、アンケートに回答するように学生に伝えた。
人数が多いので、教室を出るときに、教卓にアンケート回答を置いて出るように指示をした。
学生はそういうのは嫌がらない。
2~300人の学生が教卓に回答用紙を置いて、次から次へと出て行く。
そのアンケートは匿名だが、フェイスシートに「自分のことを好きかどうか」という設問があって、5段階のうちのどこかに回答するようになっていた。
学生が回答用紙を置くのを見守りながら、ある時から、用紙を置く学生の表情とフェイスシートの回答との関係に気づいた。
学生の表情が暗めの子は、必ず、「自分が嫌い」を選んでいた。
いきいきした、あるいは脳天気な顔つきの学生は、「自分が好き」のところをチェックしていた。
学生の表情を見てから回答を見ると、100パーセント、予想が当たった。
もちろん、学生たちは無表情なつもりだろう。
泣き顔でもなければ、一人で笑っているはずもない。
比較的豊かな家庭の、常識の通じる学生たちなので、普段の、一人でいるときの表情をしているだけだったろう。
が、憂いを帯びた顔と、前向きのいきいきした表情の違いは、見事に回答に反映されていた。
許されるなら、悲しげな学生一人ひとりを傍に呼んで、
「あなたはとても素敵な子よ、あなたのままで素晴らしいのよ」と伝えたくなった。
養育者は、子どもの間違った行為は正してやらないといけない。
が、その子どものその子らしさを正そうなどとしてはならない。
それは、その子自身であって、そこを否定すると、その子の魂は死ぬ。
魂は殺してはいけない。
あらためてこんなことを考えたのは、
私の友人たちをいろいろ思い浮かべて、
皆それぞれ、どこか変で、独特だ、と思ったからだ。
が、そのことを恥じるわけでも、悔いるわけでもなく、
堂々とその人自身である、という人が多い。
たまたま、私の交流関係は、高学歴で仕事に成功している人が多い。
高学歴で仕事に成功する、ということは、
満足度、幸福感が高い、ということと相関関係があるだろう。
だから、比較的、元気で明るめの高齢者が多いことになる。
もちろん、それも一概には言えない。
私の周りにはそういう人が多いようだ、というだけのことだ。
一方、昔、出会ったカウンセリングに訪れていた人たちは、
自己否定の権化のようだった。
一時的な「相談」ではなく、カウンセリングを必要とする人たちは、
「あなたはそのままで素敵なのよ」という言葉を聞きたかったのかもしれない。
が、カウンセラーからいくらその言葉を聞いても、
あまり効果はない。
カウンセリングの理屈を知り尽くしているその人たちは、
カウンセラーの決まり文句で慰められたりはしない。
必要だったのは、もっと幼い頃、
自己認識と共に成長するプロセスで、
その言葉を聞くことだった。
じゃあ、成長しきったら、もう回復できないのか。
いや、大人になっても好転することはあるだろう。
ただ、子ども時代に否定的に育てられた悲しみは残る。
心に傷は残るだろう。
それでもいいのだ。
完治はしないが、寛解まで持って行ければ、上上出来だ。
そんなことを考える今日この頃。
、
人の生涯に大きい影響を与えるのは、
標題のこのことだと思う。
しみじみ思う。
人は、みな、少しずつ他の人とは違うものだ。
癖も、生活習慣も、体調も、あらゆる面が人それぞれだ。
共通点もあるが、違いもある。
それは、赤ちゃんの時から顕著だ。
それが、個性というものだろう。
が、その個性の違いを受け止められない養育者に育てられると、
子どもは災難だ。
自分そのものである部分を否定され、除去しようとされ、
自分であろうとすることが攻撃を受ける。
その子どもは、「その人自身」でいることを受け容れてもらえないのだから、
いつもびくびくといじけている子どもになる。
が、養育者によっては、
子どもの個性を当たり前のこととして理解しているので、
その子どもが、その子らしい部分を発揮することを妨げない。
「そういう子だ」と受容している。
矯正しようとはしない。
もちろん、社会のルールやマナーは教えるが、
その子がその子自身であることを否定したりはしない。
人はそれぞれ、みな異なるので、
それぞれその人らしいだけなのだが、
この、養育者の態度によって、人生の明暗が分かれる。
その子らしさを損なわれずに受容されてきた子は、
臆することなく、その子自身の個性を発揮して、
のびのびした自己認識を持つことになる。
が、その子らしさを否定され、叱られ、嫌われて育った子は、
自分が自分であることに引け目ばかり感じている。
自分は良くない存在だと思い込んで育つ。
いつもおどおどし、暗い人格を形成して大人になる。
以下のことも、嘗てここに書いたことかもしれないが、
また、書く。
忘れられないことだからだ。
以前、大教室で大人数の学生を教えていた。
ある時、同じ系列の科目を教えている専任の先生から、
「学生アンケートをとりたいので、M吉先生のところは学生数が多いから、アンケートに協力してほしい」と、頼まれた。
もちろん、二つ返事でOKである。
授業の最後の方で時間を取って、アンケートに回答するように学生に伝えた。
人数が多いので、教室を出るときに、教卓にアンケート回答を置いて出るように指示をした。
学生はそういうのは嫌がらない。
2~300人の学生が教卓に回答用紙を置いて、次から次へと出て行く。
そのアンケートは匿名だが、フェイスシートに「自分のことを好きかどうか」という設問があって、5段階のうちのどこかに回答するようになっていた。
学生が回答用紙を置くのを見守りながら、ある時から、用紙を置く学生の表情とフェイスシートの回答との関係に気づいた。
学生の表情が暗めの子は、必ず、「自分が嫌い」を選んでいた。
いきいきした、あるいは脳天気な顔つきの学生は、「自分が好き」のところをチェックしていた。
学生の表情を見てから回答を見ると、100パーセント、予想が当たった。
もちろん、学生たちは無表情なつもりだろう。
泣き顔でもなければ、一人で笑っているはずもない。
比較的豊かな家庭の、常識の通じる学生たちなので、普段の、一人でいるときの表情をしているだけだったろう。
が、憂いを帯びた顔と、前向きのいきいきした表情の違いは、見事に回答に反映されていた。
許されるなら、悲しげな学生一人ひとりを傍に呼んで、
「あなたはとても素敵な子よ、あなたのままで素晴らしいのよ」と伝えたくなった。
養育者は、子どもの間違った行為は正してやらないといけない。
が、その子どものその子らしさを正そうなどとしてはならない。
それは、その子自身であって、そこを否定すると、その子の魂は死ぬ。
魂は殺してはいけない。
あらためてこんなことを考えたのは、
私の友人たちをいろいろ思い浮かべて、
皆それぞれ、どこか変で、独特だ、と思ったからだ。
が、そのことを恥じるわけでも、悔いるわけでもなく、
堂々とその人自身である、という人が多い。
たまたま、私の交流関係は、高学歴で仕事に成功している人が多い。
高学歴で仕事に成功する、ということは、
満足度、幸福感が高い、ということと相関関係があるだろう。
だから、比較的、元気で明るめの高齢者が多いことになる。
もちろん、それも一概には言えない。
私の周りにはそういう人が多いようだ、というだけのことだ。
一方、昔、出会ったカウンセリングに訪れていた人たちは、
自己否定の権化のようだった。
一時的な「相談」ではなく、カウンセリングを必要とする人たちは、
「あなたはそのままで素敵なのよ」という言葉を聞きたかったのかもしれない。
が、カウンセラーからいくらその言葉を聞いても、
あまり効果はない。
カウンセリングの理屈を知り尽くしているその人たちは、
カウンセラーの決まり文句で慰められたりはしない。
必要だったのは、もっと幼い頃、
自己認識と共に成長するプロセスで、
その言葉を聞くことだった。
じゃあ、成長しきったら、もう回復できないのか。
いや、大人になっても好転することはあるだろう。
ただ、子ども時代に否定的に育てられた悲しみは残る。
心に傷は残るだろう。
それでもいいのだ。
完治はしないが、寛解まで持って行ければ、上上出来だ。
そんなことを考える今日この頃。
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