時代は変わった・・・2025/02/13 11:03

仕事に求めるものを問われた若い人が、
「自分らしくいられない仕事はやりたくない」
「生きがいとならなければ仕事ではない」
などなど、、、。

最初、聞いたときは目眩がしそうだった。

仕事に生きがいを求める、とは?
自分らしくいられる仕事とは?

もちろん、そのような仕事に就けるのは幸せだ、と思う感覚はある。
大正生まれの私の父ですら、テレビで歌手の後ろで楽器を演奏する楽団の人々の楽しそうな顔が映ると、
「自分の好きなことを仕事にできるのはええなぁ」というようなことを言っていた。

私も「主婦」からスタートしたので、
夫が生活費を稼ぐ役割を担当していたから、
少しは選択の自由があったとは思う。
でも、仕事をしたかったので、何でもいいから働きたい、と思っていた時期があった。
が、子どもが小さくて田舎暮らしで、何の資格もない私がやれそうな仕事はなく、
面接に行っても、ことごとく採用されなかった。
何でもいいから働きたい、と切に思っていた。
それは、主婦という、最も自分に合わない役割(=仕事)をあてがわれて、もがいていたからなのだが。

やがて、仕事に就くようになった。
私がそれまで携わってきた様々な「活動」の延長上に仕事があった。
気がついたら、専門職として雇用されるようになっていた。

ある行政の施設で、専門職として働いていたとき、
主に子どもの手が離れた主婦の人たちが数人、アルバイトとして受付や事務作業のためにシフト雇用されていた。
そのうちの一人が、
「〇〇さんは、電話が苦手で、出られないんです」と私に訴えた。
私は、上司ではなく、専門職としてその人たちにアドバイスをする立場だったが、その人たちは、いろいろな困りごとを私に訴えてくるようになっていた。
が、事務や受付などを担当する働き手の、電話が苦手で出たくない、という訴えには、賛同できなかった。
人手が余っているわけではないその職場では、電話に出てもらわなくては困るのだ。
私は、ただ、
「仕事ですからねぇ」と答えた。
苦手だろうが何だろうが、それは給料に見合って期待される業務なのだ。
電話を受けて、判断したり決定したりはしない。
ただ、電話を受けて、決定権のある立場の人につなぐだけの仕事だ。

私にそれを訴えた人は、察しが良く、私の答えを聞いて、
なるほど、と言うように返してきた。
「私たち、甘えてましたね。仕事ですものね、、、」と。

長年、家族の世話だけをしてきて、社会関係は近所づきあいだけ、というような人たちは、お互いに許し合う関係に慣れていたりする。
そのモードを、職場に持ち込んでいたのだ。

私も、できるだけ、その職場を働きやすい職場にするように努力はしていた。
その人たちが、意欲的に仕事に取り組めるように工夫をしていた。
それは、ある程度、成功した面もあると自負している。
当時のその人たちは、私がいた時期のその職場は、仕事にやりがいを感じられて、とても楽しかったと、後々まで言ってくれていた。

それでも、私は、時間給で雇用されている彼女たちは、
雇用主に時間労働を提供して対価を得ているのだから、
想定内の業務であるかぎり得意でなくてもこなさなければならないとは思っていた。
仕事とはそういうものだと。
だからこそ、その人たちのモチベーションを上げるための工夫が要るのだと思っていた。
長年、「主婦」をしていた人たちの、潜在能力を引き出したい、それを見える形にしたい、という強い思いがあった。
当時、女性たちは、あまりにもその能力や適性を顧みられないで、安く買いたたかれていたので、そこを打破したいというのは、私の信念だった。
女性たちも、社会の評価を内面化しているところがあり、自分の能力を信じていなかった。
その彼女たちの能力の再評価、モチベーションの上昇を目指して、私もその自分の役割にやりがいを感じていた。

が、今は違うのだ。
女性たちは、今や、年寄りの手助けなどなくても、
自分の能力、適性をしっかり信じていて、(時には過信していて)、
自分らしくいられない仕事はやらない、と言う。
自分に合った仕事しかしない、と言う。

もちろん、私も仕事を選ぶとき、その思いはあった。
仕事に費やす時間は一日の大半であるので、
自分の適性とかけ離れた仕事では自分が疲弊するだけだろうと思い、
自分の性分、適性、思想に適合した仕事を選びたいと思ってはいた。
が、一方で、見込みとは違う仕事もあるもので、
仕事は身過ぎ世過ぎだと、割り切って続けようとしていたこともある。
辛抱とやりがいのバランスを取っているような感じだった。

だから、辛抱が続く人には、それが緩和されるように、
やりがいを感じている人はさらに力が発揮できるように、
できる手助けをしたかった。
が、
「仕事は、自分らしくいられるもの」と定義する人が増えた。

まあ、その発言の内容には、様々な意味合いが含まれているだろうから、
軽々に評価できないけれども、
そもそもの定義に、呆然とする私がいるのだ。

「なるべく、自分に合った仕事がしたい」というのと、
「自分らしくいられない仕事はやらない」というのとは、
違う気がする。

「自分らしくいられる」ことが当たり前になった現代、
もはや、私の感覚は古すぎるのだろう。
「自分らしさ」なんてワードが存在しなかった時代、
辛くなければめっけもの、
生き延びられれば幸運
だった時代の者の感覚は、もはやあまりにも前時代過ぎて、
通用しないのだろう。

しかし、こういう私の感覚が普通だった時代の考え方をすぐに放擲してはならないような気がする。
足下をすくわれる気がするのだ。
見せかけのパラダイスにだまされてはならない、と思ってしまうのだ。