独居から施設へ? ― 2019/11/10 10:56
古い友人が、病気が進んできたので、
施設に入ることにしたと言う。
パーキンソンなので、からだが思うように動かないらしい。
たまにしか会わなくなったが、
確かに、進行しているのだろうと、素人目にもわかる。
今回、施設に入ることになり、彼女がマンションに保管していた、活動団体の昔の資料を捨てるか引き取るか私たちに決めてほしいと言って来たので、もう一人の友人と行った。
以前もからだがゆらゆらと揺れていたが、
今回は、揺れがだいぶん激しい。
話はしっかりしているが、からだはかなり不自由そうだ。
歩くときは、シルバーカートを押して歩くそうだ。
私より4歳年上。
同年代でも、しゃきしゃきしている人はたくさんいるのに、
えらい病気になってしまったものだと思う。
だが、一人暮らしの心細さはわかる。
あれだけ、からだが不自由になると、もう一人ではやっていけないというのは、ものすごくよくわかる。
「おひとりさま」で最期まで自宅で、なんて、どこの恵まれた人なのだろう。
最期まで自宅で独居で、というのは、家の中で死後一定の時間が経ってから、見つけてもらうという覚悟つきだ。
友人のように、からだが不自由になってしまっては、そうはいかない。
四六時中、他人に来てもらって世話をしてもらうより(どれくらいお金がかかるのか)、施設で、複数の人に交替でケアをされながら、最期を迎える方が現実的な選択だ。
自宅は密室だし、誰かが来てくれるまで孤独だろう。
私は今でも、寝たきりになった母を一人にした罪悪感がぬぐえない。
気に入ったヘルパーさんに「帰らないで」と、引き留めていたそうだ。
ある日、母の家に行ったら、「誰か来てください!」と叫んでいる母の声を聞いて、
びっくりして、奥の部屋に行ったら、
ちょっと照れくさかったのか、母がおちゃめな表情で、
「誰か来てくれへんかなと思って、呼んでた」と笑っていた。
体が不自由になると、自分で行きたいところに行けない。
あれほど、他人を家に入れるのをいやがっていた母が、誰彼に来てもらいたいと思うようになったのだ。
もちろん、私が行くのが一番いいのだが、私でなくても、お気に入りのヘルパーさんやケアマネさん。
手厚い介護体制だったので、結構、人は入っていたのだが、それでも、24時間ついているわけにはいかない。
母は、私が、呼べば来る範囲に、24時間いてほしかったのだろう。
しかし、仕事があるし、私の自宅はすぐ近くとはいえ他にあるのだから、そこまでは望めないということもわかっていた。
母が孤独なのを知って、ずっと悩んでいた。
施設は絶対いやだと言っていたのは母だったが、
小さなグループホームのようなところをケアマネさんに探してもらっていた。
それなりのプライバシーは保つことができて、呼べばすぐに誰かが来るところ、いつも人の気配がするところ、そんなところはないだろうかと、ケアマネさんに言っていた。
が、ケアマネさんが、母にふさわしいと思えるところを絞り込んでくれた頃、母は、入院先で息を引き取った。
もう、こんな人生なら、生きていてもしかたがないと思ったかのように、
あっさりと去った。
ケアマネさんに連絡したら、びっくりしていた。
退院後、今度は自宅でなく、母にふさわしい手厚い所に入れるように算段してくれていたし、私もまだまだ母のニーズを満たす工夫をしながら介護をしていく予定だった。
だから、いつまでも罪悪感が残る。力不足だったと、泣きたくなる。
からだのケアはできても、心のケアは誰ができるだろう。
私が自分の人生を捨てて、母に仕えるなら可能だったろう。母をある程度、満足させてあげられただろう。
しかし、私は私の人生を選んでいた。
そして、今、私は、今後の自分の暮らしを思う。
子どもは子どもの人生の良きものを味わって生きてほしい。
自分の人生の始末は自分でつけるより仕方がない。
ただ、からだが不自由になると、それが自分の手だけでできない無念さがあるなぁ。
施設に入ることにしたと言う。
パーキンソンなので、からだが思うように動かないらしい。
たまにしか会わなくなったが、
確かに、進行しているのだろうと、素人目にもわかる。
今回、施設に入ることになり、彼女がマンションに保管していた、活動団体の昔の資料を捨てるか引き取るか私たちに決めてほしいと言って来たので、もう一人の友人と行った。
以前もからだがゆらゆらと揺れていたが、
今回は、揺れがだいぶん激しい。
話はしっかりしているが、からだはかなり不自由そうだ。
歩くときは、シルバーカートを押して歩くそうだ。
私より4歳年上。
同年代でも、しゃきしゃきしている人はたくさんいるのに、
えらい病気になってしまったものだと思う。
だが、一人暮らしの心細さはわかる。
あれだけ、からだが不自由になると、もう一人ではやっていけないというのは、ものすごくよくわかる。
「おひとりさま」で最期まで自宅で、なんて、どこの恵まれた人なのだろう。
最期まで自宅で独居で、というのは、家の中で死後一定の時間が経ってから、見つけてもらうという覚悟つきだ。
友人のように、からだが不自由になってしまっては、そうはいかない。
四六時中、他人に来てもらって世話をしてもらうより(どれくらいお金がかかるのか)、施設で、複数の人に交替でケアをされながら、最期を迎える方が現実的な選択だ。
自宅は密室だし、誰かが来てくれるまで孤独だろう。
私は今でも、寝たきりになった母を一人にした罪悪感がぬぐえない。
気に入ったヘルパーさんに「帰らないで」と、引き留めていたそうだ。
ある日、母の家に行ったら、「誰か来てください!」と叫んでいる母の声を聞いて、
びっくりして、奥の部屋に行ったら、
ちょっと照れくさかったのか、母がおちゃめな表情で、
「誰か来てくれへんかなと思って、呼んでた」と笑っていた。
体が不自由になると、自分で行きたいところに行けない。
あれほど、他人を家に入れるのをいやがっていた母が、誰彼に来てもらいたいと思うようになったのだ。
もちろん、私が行くのが一番いいのだが、私でなくても、お気に入りのヘルパーさんやケアマネさん。
手厚い介護体制だったので、結構、人は入っていたのだが、それでも、24時間ついているわけにはいかない。
母は、私が、呼べば来る範囲に、24時間いてほしかったのだろう。
しかし、仕事があるし、私の自宅はすぐ近くとはいえ他にあるのだから、そこまでは望めないということもわかっていた。
母が孤独なのを知って、ずっと悩んでいた。
施設は絶対いやだと言っていたのは母だったが、
小さなグループホームのようなところをケアマネさんに探してもらっていた。
それなりのプライバシーは保つことができて、呼べばすぐに誰かが来るところ、いつも人の気配がするところ、そんなところはないだろうかと、ケアマネさんに言っていた。
が、ケアマネさんが、母にふさわしいと思えるところを絞り込んでくれた頃、母は、入院先で息を引き取った。
もう、こんな人生なら、生きていてもしかたがないと思ったかのように、
あっさりと去った。
ケアマネさんに連絡したら、びっくりしていた。
退院後、今度は自宅でなく、母にふさわしい手厚い所に入れるように算段してくれていたし、私もまだまだ母のニーズを満たす工夫をしながら介護をしていく予定だった。
だから、いつまでも罪悪感が残る。力不足だったと、泣きたくなる。
からだのケアはできても、心のケアは誰ができるだろう。
私が自分の人生を捨てて、母に仕えるなら可能だったろう。母をある程度、満足させてあげられただろう。
しかし、私は私の人生を選んでいた。
そして、今、私は、今後の自分の暮らしを思う。
子どもは子どもの人生の良きものを味わって生きてほしい。
自分の人生の始末は自分でつけるより仕方がない。
ただ、からだが不自由になると、それが自分の手だけでできない無念さがあるなぁ。
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