もめ事2023/04/03 11:11

女性だけのグループでのもめごとをチョイチョイ経験している。
いつも、私は、渦中にはいないが、巻き込まれることがある。
巻き込まれるのは、つまり、ぼーっとしているから、裏の事情をわからないまま、同じ文脈に入ってしまうのだ。

最近は、少しは賢くなったが、
それでも、私を味方につけたい人が、
肝心の自分の失態を隠したまま、攻撃を受けた事実だけを私に伝えて、私の同情を買おうとする。
あるいは、自分が正しいと信じ切っている人が、怒りのあまりに、私に電話をしてきて、私が怒りを共有しないと、
「あなたは人がいいから、良いようにしか考えない」とかえって恨まれる。

私はお人よしなのではない。
たいていの怒りは、理解ができないのだ。
たいていは、「いやだったのだろうなぁ」というところまでは理解している。
が、そこまで、怒りを出すことに、理解がついていかない。

ある人が失敗したとすると、日ごろのその人への不快感を全部、その失敗に怒りを集中させて、相手の非を言い立てる。
相手をどうしたいのか、が、私にはわからない。

私から見ると、怒りに身を任せすぎの人が多いように見える。
感情に溺れているように見える。

もちろん、感情は「悪」ではない。
その人の思いを、他の誰かが否定することはできないと思う。
ただ、共感を強要されても困るのだ。
私の中には存在しないのだから。

もめ事というものに頭をかかえることが多い。
悪口もごめんだ。
悪口は、誰も傷つかないような場面で吐き出す方がいい。
もめている人たちとは何の利害関係もない、知り合いでもない友人に聞いてもらったりすると、これは楽だし、聞いた方も無責任に共感できる。
そこにとどめておくべきものだろう。
なぜなら、感情は、全く合理性を持たないものだから。
いかに自分の感情が正しいかを証明しようとしても、
正当性を証明できない。
共感を呼ぶことはありうるが、「気持ちはわかるよ」ということであって、
何が起こっていて、どういう感情が喚起されたか、など、
その時のシチュエーション、その感情の主の経験ストーリーなど、
多要素があり過ぎて、
客観的評価の対象にはなりにくい。

ハラスメントによる被害感情は、
今では多くの人が共感するものとなり、合意できるものとなったが、
それも複雑化している。
パワーの所在が、昔のように、
地位や職階の上下関係だけで読めないからだ。
上司が圧倒的に権力者である時代ではない。
「平場」的な雰囲気を大事にするコミュニティでは、
別のパワーポリティクスが作動することもある。

物事は、見えている通りではない。
被害者が被害者の立場に立てこもって、
自らの正しさを主張し続ける限り、事態の究明は難しい。
先に、「傷ついた」「被害を受けた」と言い立てた方が有利になったりする。
被害者の立場を利用して、被害者以外の言論を封殺することだってできるのだ。
いや、何も故意に被害者がそういう「特権」を利用しようとしなくても、「被害者」に寄り添い、被害者に共感する、という本来なら望ましい支援者の姿勢が、物事の解明を停滞させ、社会にはびこる「本当の」パワーの偏在を読み解けなくすることがある。

被害者中心主義による問題性を、告発している文章を読んだ。
非常に、興味深い本だ。
フェミニズムの理論が今日的状況の中で、
教条主義的なパワーに陥る危険性を告発し、
新たな視点の獲得、新たに相対化する立ち位置への可能性を示唆している。
『被害と加害のフェミニズム』である。
最近、本を読まないで、動画中毒になっていたが、
これは、久々に骨のある理論書に出会ったと思った。
理論書と言っても、日本の本のように、
アカデミズムの担い手が、学術書として書いたものではなく、
アクティビストが、実活動の中で、獲得してきたことばに満ちている。

私の今のもやもやにずいぶん、言葉を与えられたと思う。
若い人からも、本当に学べるんだなとつくづく思った本だ。
特に私のような古いフェミニストは、すっかり偉くなって権威となったフェミニスト学者の目に見えない力に圧倒されそうになるので。

人生の終盤に、贈り物のような本に出会った。
もちろん、宿題もかかえたのだけど、、、。
宿題は、この年寄りには希望だ。