子ども時代の虐待のトラウマは生涯消えない ― 2025/01/15 09:13
タイトルに書いたことは、私の実感に過ぎない。
が、被害経験からの回復とか、
トラウマの克服とか、
そういう字面を見ると、反発する私がいる。
回復なんかしないだろうと思う。
なぜなら、子ども時代の被虐待経験は、
その子どもが人として人格形成をされるプロセスに
織り込まれているからだ。
折に触れて悲しみがよみがえり、
辛い気持ちが再現される。
10歳だった私が経験したことは、
74歳の今になっても、時折、疼痛として私を苛む。
このまま、ちょっと悲しいまま、死んでいくのだろうと思う。
もちろん、適切なケアを受けなかったからだ、という見方もあるだろう。
子ども時代の被虐待経験は、
時を置かずに、ケアを受ければ、深い傷となって残ることはなかったかもしれない。
応急処置が適切に行われれば、傷の回復は望める気もする。
そういう意味では、子ども時代にひどい扱いを受けたとしても、
すかさずその子どもをケアし、温かく見守る体制があれば、
その子どもは助かったかもしれない。
大人への信頼を速やかに回復したかもしれない。
世の中への信頼感も育てることができたかもしれない。
が、私の世代の多くは、
そのような環境にはいなかった。
ひどい扱いを受けたとしても、
外から見える甚だしい虐待でもなければ、
誰もが無関心だった時代だ。
親子や家族、というもの以外に子どもを支えるシステムがなかった。
家庭という地獄から助け出されても、
またもや家庭に帰されるのが当たり前だった時代だ。
だから、そのことの認識が発達してきた現在の状況は、
多少は改善されているのかもしれない。
まぁ、悲劇はまだまだ起こっているだろうと思うけれど。
私のような世代は、トラウマをかかえて年老いている。
悲しみや怒りをかかえて、老いても呻吟している。
自分を虐待した親たちは、その自覚もなく、
安らかに自己満足の最期を迎えたりしているだろうし、
外面からは、結構、恵まれた人であるかのように見られているかもしれない。私などもそうだ。
声を上げなければ、誰も知らない。
が、声を上げても、ただの愚痴だろう。
なにしろ、外見では、それなりに成長して老いてきたのだから。
声を上げることもしない、あるいはできない、
ただただ恨みをかかえて老いてきた人たちは、
扱いにくい老人になっているのかもしれない。
自分をいやな目に遭わせた者が何者かもわからず、
湧き上がる不快な感情をコントロールできず、
自分を虐待した親に似た人になって、
不機嫌に生きているのかもしれない。
親たちは、子どもに鬱屈をぶつけて自分の気分を解消しようとしたが、
それが問題行動だとは思いもしなかっただろう。
「子どものため」というのは、自分の不善な行動のエクスキューズだ。
理不尽な行為だということは薄々わかっていても、
目の前の手のかかる者に感情をぶつけないと自分の鬱憤が晴らせないとき、
あるいは、手がかかる、というそのこと自体に、自分の鬱屈した感情を増幅させて、
虐待を始めるのだ。
私の父の場合、最初、
私に対して、因縁をつけるところから始まる。
私が何かをした、というようなタイミングではなく、
黙って本を読んでいても、一人遊びをしている時であっても、
父は、暇つぶしに私を扱うのだ。
からかったり、説教を始めたり、小言を言ったりして、私を自分の方に向かせることから始まる。
私には不当としか思えないような言いがかりで、
私の欠点を指摘したり、言動の些末な不完全な部分を盛んに言い立てるなどして、
私が怒りを表明するまでやめない。
私は父のその言動の身勝手さに怒りを覚える。
(通りすがりの酔っ払いがからんできたのなら、相手をせずに逃げるところだが、一つ屋根の下にいる素面の父親だ。子どもの私に逃げる才覚はなかった。)
私は難癖をつけてきた父に、怒りをもって反論する。
「口答えするのか」と父は激高し、やがて激しい言い合いになり、最後は父は私を叩く。
言ってわからないやつは叩いてわからせる、という言い分だ。
そこで、初めて、母が言う。
「親に何を言われてもええやんか、もっと大人になりなさい」と。
そして、私と父の性格が似ているから、と、
すべてを私の責任だとなじり、黙って耐えない私を責め立てる。
私が悔しさで泣いて泣いて、それでも、父の理不尽、母の理不尽な意見(親なのだから何を言ってもいいのだ、子どもの私に大人になりなさい、と叱りつける理不尽)に抗弁する。
結局、父からの暴力の痛みと恐怖、
母からの精神的な攻撃への絶望と無力感によって、
私が抗弁をやめ、そして、父の攻撃がやむ。
私は憤死しそうなほど、悔しい思いをかかえて、泣きながら眠るのが常だった。
10歳ほどの子どもだ。
どこにも、私の味方がいない、この世で最も弱い生き物だった頃だ。
大人二人から、力づくで黙らされていた。
世間で報道される虐待事件は、他人事とは思えない。
殺されていった子どもたちは、あの頃の私だと思う。
父との諍いを最初からすべて見ていた母は、ただの一度も間に入らなかった。
父の身体的暴力が激化すると、
私を言葉で叱りつけて黙らせる役割を担った。
多くの夫たちがDVのターゲットに妻を選ぶ。
が、私の父親は私を選んだ。
私が中学3年生まで、母の父親が同居していたので、とても母には手が出せなかっただろう。
彼が鬱屈を晴らす相手は私しかいなかったのだ。
しかも、母は、父が私を褒めたりかわいがったりするのを喜ばない。
母の顔色をうかがう父にとって、
私への攻撃は母の機嫌を取るのにも都合のよい手段だった。
同じ頃のことで覚えている出来事がある。
母が、仕事から帰った父に、
私がいかに言うことをきかない子どもであるかを愚痴った。
すると、父はいきなり私を叩いた。
母は、
「たたかんと、言うてきかせてほしいのに」と父に言った。
母の理想の夫の姿は、
たぶん、妻の言うことを受けて、娘に理路整然とことわりを教える、そのような、
つまり、
戦後のアメリカのホームドラマ、『パパは何でも知っている』の父親のような姿だったのだろう。
勘違いもいいところだ。
武骨な田舎育ちで、太平洋戦争で死んだものとされていたのに、
南方から復員してきた、承認欲求の強い大正生まれの男が、ソフィスティケートされたアメリカの白人中産階級のエリート男と同じふるまいができるわけがない。
私が慰撫されなかったのは、
彼らのやりたい放題の下で、自分の気持ちを封殺されてしまったことだ。
そのくやしさだ。
ただの一度も慰撫されず、悲しみやくやしさを抱えたまま、私は人格形成され、社会化されてきた。
だから、もう、ここからは脱出できない。
あの連中をよみがえらせて、手をついて謝らせることができれば、
涙ながらに詫びを言わせれば、私も少しは心和むかもしれない。
が、連中はもうこの世にいない。
私の親だけではなく、多くのあの時代の親たちは、子どもの心をズタズタにしながら、
自分はいい親だった、と思いながら死んでいった者が多いのかもしれない。
私の世代の人たちが、鬱屈しているのはわかるね。
性格が悪い。
多くが似たような目に遭っているから。
しかし、何でもそうだが、同じ目に遭っていない人も結構いるから、
同世代でも理解されない、というのもいつものことだ。
特に、日頃から付き合いのある、比較的良い教育を受けた人たちは、
自分の現状に満足していたりするから、
ますます、そうではない者の屈折が理解できない人が多い。
理解しようとしても共感ができない。
そうすると、こちらは、慰撫されるどころか、
さらに孤立感を深め、心の傷は疼き続ける。
それも、いつものことだ。
が、被害経験からの回復とか、
トラウマの克服とか、
そういう字面を見ると、反発する私がいる。
回復なんかしないだろうと思う。
なぜなら、子ども時代の被虐待経験は、
その子どもが人として人格形成をされるプロセスに
織り込まれているからだ。
折に触れて悲しみがよみがえり、
辛い気持ちが再現される。
10歳だった私が経験したことは、
74歳の今になっても、時折、疼痛として私を苛む。
このまま、ちょっと悲しいまま、死んでいくのだろうと思う。
もちろん、適切なケアを受けなかったからだ、という見方もあるだろう。
子ども時代の被虐待経験は、
時を置かずに、ケアを受ければ、深い傷となって残ることはなかったかもしれない。
応急処置が適切に行われれば、傷の回復は望める気もする。
そういう意味では、子ども時代にひどい扱いを受けたとしても、
すかさずその子どもをケアし、温かく見守る体制があれば、
その子どもは助かったかもしれない。
大人への信頼を速やかに回復したかもしれない。
世の中への信頼感も育てることができたかもしれない。
が、私の世代の多くは、
そのような環境にはいなかった。
ひどい扱いを受けたとしても、
外から見える甚だしい虐待でもなければ、
誰もが無関心だった時代だ。
親子や家族、というもの以外に子どもを支えるシステムがなかった。
家庭という地獄から助け出されても、
またもや家庭に帰されるのが当たり前だった時代だ。
だから、そのことの認識が発達してきた現在の状況は、
多少は改善されているのかもしれない。
まぁ、悲劇はまだまだ起こっているだろうと思うけれど。
私のような世代は、トラウマをかかえて年老いている。
悲しみや怒りをかかえて、老いても呻吟している。
自分を虐待した親たちは、その自覚もなく、
安らかに自己満足の最期を迎えたりしているだろうし、
外面からは、結構、恵まれた人であるかのように見られているかもしれない。私などもそうだ。
声を上げなければ、誰も知らない。
が、声を上げても、ただの愚痴だろう。
なにしろ、外見では、それなりに成長して老いてきたのだから。
声を上げることもしない、あるいはできない、
ただただ恨みをかかえて老いてきた人たちは、
扱いにくい老人になっているのかもしれない。
自分をいやな目に遭わせた者が何者かもわからず、
湧き上がる不快な感情をコントロールできず、
自分を虐待した親に似た人になって、
不機嫌に生きているのかもしれない。
親たちは、子どもに鬱屈をぶつけて自分の気分を解消しようとしたが、
それが問題行動だとは思いもしなかっただろう。
「子どものため」というのは、自分の不善な行動のエクスキューズだ。
理不尽な行為だということは薄々わかっていても、
目の前の手のかかる者に感情をぶつけないと自分の鬱憤が晴らせないとき、
あるいは、手がかかる、というそのこと自体に、自分の鬱屈した感情を増幅させて、
虐待を始めるのだ。
私の父の場合、最初、
私に対して、因縁をつけるところから始まる。
私が何かをした、というようなタイミングではなく、
黙って本を読んでいても、一人遊びをしている時であっても、
父は、暇つぶしに私を扱うのだ。
からかったり、説教を始めたり、小言を言ったりして、私を自分の方に向かせることから始まる。
私には不当としか思えないような言いがかりで、
私の欠点を指摘したり、言動の些末な不完全な部分を盛んに言い立てるなどして、
私が怒りを表明するまでやめない。
私は父のその言動の身勝手さに怒りを覚える。
(通りすがりの酔っ払いがからんできたのなら、相手をせずに逃げるところだが、一つ屋根の下にいる素面の父親だ。子どもの私に逃げる才覚はなかった。)
私は難癖をつけてきた父に、怒りをもって反論する。
「口答えするのか」と父は激高し、やがて激しい言い合いになり、最後は父は私を叩く。
言ってわからないやつは叩いてわからせる、という言い分だ。
そこで、初めて、母が言う。
「親に何を言われてもええやんか、もっと大人になりなさい」と。
そして、私と父の性格が似ているから、と、
すべてを私の責任だとなじり、黙って耐えない私を責め立てる。
私が悔しさで泣いて泣いて、それでも、父の理不尽、母の理不尽な意見(親なのだから何を言ってもいいのだ、子どもの私に大人になりなさい、と叱りつける理不尽)に抗弁する。
結局、父からの暴力の痛みと恐怖、
母からの精神的な攻撃への絶望と無力感によって、
私が抗弁をやめ、そして、父の攻撃がやむ。
私は憤死しそうなほど、悔しい思いをかかえて、泣きながら眠るのが常だった。
10歳ほどの子どもだ。
どこにも、私の味方がいない、この世で最も弱い生き物だった頃だ。
大人二人から、力づくで黙らされていた。
世間で報道される虐待事件は、他人事とは思えない。
殺されていった子どもたちは、あの頃の私だと思う。
父との諍いを最初からすべて見ていた母は、ただの一度も間に入らなかった。
父の身体的暴力が激化すると、
私を言葉で叱りつけて黙らせる役割を担った。
多くの夫たちがDVのターゲットに妻を選ぶ。
が、私の父親は私を選んだ。
私が中学3年生まで、母の父親が同居していたので、とても母には手が出せなかっただろう。
彼が鬱屈を晴らす相手は私しかいなかったのだ。
しかも、母は、父が私を褒めたりかわいがったりするのを喜ばない。
母の顔色をうかがう父にとって、
私への攻撃は母の機嫌を取るのにも都合のよい手段だった。
同じ頃のことで覚えている出来事がある。
母が、仕事から帰った父に、
私がいかに言うことをきかない子どもであるかを愚痴った。
すると、父はいきなり私を叩いた。
母は、
「たたかんと、言うてきかせてほしいのに」と父に言った。
母の理想の夫の姿は、
たぶん、妻の言うことを受けて、娘に理路整然とことわりを教える、そのような、
つまり、
戦後のアメリカのホームドラマ、『パパは何でも知っている』の父親のような姿だったのだろう。
勘違いもいいところだ。
武骨な田舎育ちで、太平洋戦争で死んだものとされていたのに、
南方から復員してきた、承認欲求の強い大正生まれの男が、ソフィスティケートされたアメリカの白人中産階級のエリート男と同じふるまいができるわけがない。
私が慰撫されなかったのは、
彼らのやりたい放題の下で、自分の気持ちを封殺されてしまったことだ。
そのくやしさだ。
ただの一度も慰撫されず、悲しみやくやしさを抱えたまま、私は人格形成され、社会化されてきた。
だから、もう、ここからは脱出できない。
あの連中をよみがえらせて、手をついて謝らせることができれば、
涙ながらに詫びを言わせれば、私も少しは心和むかもしれない。
が、連中はもうこの世にいない。
私の親だけではなく、多くのあの時代の親たちは、子どもの心をズタズタにしながら、
自分はいい親だった、と思いながら死んでいった者が多いのかもしれない。
私の世代の人たちが、鬱屈しているのはわかるね。
性格が悪い。
多くが似たような目に遭っているから。
しかし、何でもそうだが、同じ目に遭っていない人も結構いるから、
同世代でも理解されない、というのもいつものことだ。
特に、日頃から付き合いのある、比較的良い教育を受けた人たちは、
自分の現状に満足していたりするから、
ますます、そうではない者の屈折が理解できない人が多い。
理解しようとしても共感ができない。
そうすると、こちらは、慰撫されるどころか、
さらに孤立感を深め、心の傷は疼き続ける。
それも、いつものことだ。
「普通」ということ ― 2024/10/24 20:13
ずっと、「普通」になりたいと思ってきた。
それは、親がそう望んでいたからだ。
娘の私が、学校で優秀であるという評価を受けると、父親は怖かったのかもしれない。
普通のつつがない人生を送らせたいのに、「特に優秀だ」などと言われると、私は喜んだが、父はいやがった。
私の親は、とても不安の強い人たちだった気がする。
自分の見知った世界でないと、安心できない。
だから、私をあれほど制限したのだろうと思う。
自分の見知った世界など狭くてたかが知れている、と考えることができるのは、違う世界があると、それももっと良き世界があると、知っているからこそだ。
そうでない人は、視野の狭い考え方しかできない。
残念ながら、私の親たちは、そういう人たちだった。
狭い世界の価値観しか知らず、そこで精いっぱい生きていた。
だから、自分の見知らぬ世界へ私が行きそうで、
そしてそれは、世間から後ろ指をさされる「堕落」を意味するから、
必死で制止したのだろう。
成績がとびぬけて良い、などと教師に言われることは、父の目には、
「嫁にいけなくなる」という不吉な予兆でしかない。
私はその親の価値観の世界で成長するしかなく、
「普通」でいたいと切望していた。
学校で評価されることは大事ではなく、親が恐れる「落伍」を、私も恐れたのだ。
「普通」を目指していた。
が、今は思う。
私は父が理想とする「普通の娘」ではなかった。
いや、父が理想とする娘など、ほんとうはこの世にいないのだ。
「理想の普通」などないのだ。
何事もほどほどにわきまえて、母親の手伝いを自ら健気にやって、
親の言うことにはいつも「はい」「はい」と従順で、
親を敬い、物静かで、しかもいつも明るく素直な娘。
それが父の言う「普通の娘」。
すべてが満たされなくて、父は私に文句を言い続けた。
「出来損ない」だと私を罵った。
父の目からは、私は「普通」ではなかった。
今、思えば、天真爛漫な子どもらしい子どもだっただけだ。
父が想定するよりはるかに学校の成績はよかった。
美人の誉れ高い母よりも学級の中での目立ち度が高かった。
が、現実が苦しくて、いつも空想の世界に生きるより仕方がなかった。
私は、親の手に負えない子どもだったのだ。
狭い世界観しか持てない、硬直した価値観の親たちには、
私は理解できなかったのだ。
そして、抑圧し続けた。
だから、私は、うつうつとした子ども時代を送った。
明るくなく、やがて死ぬことばかり考えるようになった。
それもまた、父母から見ると、
「普通」からの逸脱で、許せなかったらしい。
原因が何か、などとは考えない。
今のような「子どもの人権」とか「児童虐待」の概念がない時代だ。
だから、また、私が暗い、元気がない、ということで責め続けた。
災難以外の何物でもない子ども時代だ。
いまになると、「普通」というばかばかしい圧力を相対化できるが、
なにしろ、子どもだったから。
それは、親がそう望んでいたからだ。
娘の私が、学校で優秀であるという評価を受けると、父親は怖かったのかもしれない。
普通のつつがない人生を送らせたいのに、「特に優秀だ」などと言われると、私は喜んだが、父はいやがった。
私の親は、とても不安の強い人たちだった気がする。
自分の見知った世界でないと、安心できない。
だから、私をあれほど制限したのだろうと思う。
自分の見知った世界など狭くてたかが知れている、と考えることができるのは、違う世界があると、それももっと良き世界があると、知っているからこそだ。
そうでない人は、視野の狭い考え方しかできない。
残念ながら、私の親たちは、そういう人たちだった。
狭い世界の価値観しか知らず、そこで精いっぱい生きていた。
だから、自分の見知らぬ世界へ私が行きそうで、
そしてそれは、世間から後ろ指をさされる「堕落」を意味するから、
必死で制止したのだろう。
成績がとびぬけて良い、などと教師に言われることは、父の目には、
「嫁にいけなくなる」という不吉な予兆でしかない。
私はその親の価値観の世界で成長するしかなく、
「普通」でいたいと切望していた。
学校で評価されることは大事ではなく、親が恐れる「落伍」を、私も恐れたのだ。
「普通」を目指していた。
が、今は思う。
私は父が理想とする「普通の娘」ではなかった。
いや、父が理想とする娘など、ほんとうはこの世にいないのだ。
「理想の普通」などないのだ。
何事もほどほどにわきまえて、母親の手伝いを自ら健気にやって、
親の言うことにはいつも「はい」「はい」と従順で、
親を敬い、物静かで、しかもいつも明るく素直な娘。
それが父の言う「普通の娘」。
すべてが満たされなくて、父は私に文句を言い続けた。
「出来損ない」だと私を罵った。
父の目からは、私は「普通」ではなかった。
今、思えば、天真爛漫な子どもらしい子どもだっただけだ。
父が想定するよりはるかに学校の成績はよかった。
美人の誉れ高い母よりも学級の中での目立ち度が高かった。
が、現実が苦しくて、いつも空想の世界に生きるより仕方がなかった。
私は、親の手に負えない子どもだったのだ。
狭い世界観しか持てない、硬直した価値観の親たちには、
私は理解できなかったのだ。
そして、抑圧し続けた。
だから、私は、うつうつとした子ども時代を送った。
明るくなく、やがて死ぬことばかり考えるようになった。
それもまた、父母から見ると、
「普通」からの逸脱で、許せなかったらしい。
原因が何か、などとは考えない。
今のような「子どもの人権」とか「児童虐待」の概念がない時代だ。
だから、また、私が暗い、元気がない、ということで責め続けた。
災難以外の何物でもない子ども時代だ。
いまになると、「普通」というばかばかしい圧力を相対化できるが、
なにしろ、子どもだったから。
親の呪いの解き方 ― 2024/08/01 08:33
いや、解き方をここには書けない。
私にはまだわからないから。
たぶん、そんな魔法はないだろうと思うから。
ただ、様々な事象、
自分がとびきり自尊感情が低く、
他の多くの人とは違う感じになってしまうことなど、
やはりたどれば、親の呪詛に行き着く。
ことごとく、私をけなし、批判し、
学校の先生に褒められても即座に打ち消すことに躍起になった親。
「お前は、欠陥品だ。商品なら返品するところだが、返品できないから、ここに置いてやっている」と父に言われていた。
何をしても親には気に入られなかった。
親たちは、厳しく育てるのがよい、という信条を持っていた。
幼い私に自信のかけらでも見つけると、すぐにそれを根こそぎ、取り払おうとした。
傲慢は良くない。
自信たっぷりの女なんかかわいげがない。
奥床しく、「いえいえ、私なんて、、、」と自分を消して、控えめにしている女の姿を望んでいた。
10歳の子どもに、である。
徹底主義の親たちは、その自分たちの価値観を信じて疑わなかった。
そうしたことによって子どもが自尊感情を失い、自己否定的な性格形成をするなど、まだ、誰も指摘しない時代だ。
ふと、思うのだけど、昔の日本人の陰気でいじけた性格は、このような環境で育った人が多いせいかもしれない。
とにもかくにも、そういう子ども時代を送った私は、
いつも控え目でひっそりしている大人になったようだ。
他の多くの人が到達しない、
〇〇長に選ばれても、
〇〇賞をもらっても、
他の多くの人が誉めそやしても、
「尊敬しています」とまで言われても、
私の自尊感情は回復しない。低いままだ。
「私なんかがここにいてもいいのですか?」といつもおずおずと尋ねている(声には出さないけど)。
だから、どういう役職に就いても、貫禄がなかったのだな。
だから、なめられ、
ディスられ、
無視される。
ある、公的機関で働く人に紹介され、ご挨拶をした。
その人は、まだ女性がキャリアを積むことが少なかった時代だからそうなったのかわからないが、それなりに横柄な女性だった。
が、別にふんぞり返っているわけではなく、
なんとなく、ちょっと、一般の女性より偉そうな感じ、と言おうか。
しかし、私は気にしないでいた。
ふだん、接触することもない遠方の公的機関だし、
同じような職種で働く者として、
ご挨拶を済ませたので、それ以上、気にしていなかった。
その後、そういう公的機関で働く人などが集まる機会を提供している、埼玉にある国立女性教育会館(ヌエック)で再会した。
食事をしようと食堂へ入っていったら、
その人が一人で食事をしていた。
お互いにすぐに気づいて、挨拶をすると、
その人は、
「M吉さんって、偉い人だったんですね。全然知らなくて、失礼しました」と言った。
「〇〇とか、△△とか、いろいろ書いておられるんですね」と。
どういう経緯で知ったのかわからないが、当時、ライブラリーの仕事をしていた人なので、そこで扱う刊行物などで、私の名前を見たのだろう。
刊行物に名前が載ると、「偉い人」なのか、、、と、ぼんやり思った記憶がある。
それを知らないから、向こうは偉そうにしていたのか、、、と。
過去に何度も、私を第三者に紹介した人が、、
「M吉さんって、ほんとうは偉い人なんですよ」と、言うのを聞いた。
「ほんとうは」
「こう見えても」
という感じ。
当時の役職とか、講演をしている、とか、そういうことを指しているらしい。
私は、いつも気配を消そうとしているから、「偉い人」に見えないのだ。
「どうぞ、私のことは忘れていてください」と念じながら、人々の中にいるから。
講演会場に行っても、受付の人に、
「参加者名簿に名前を書いてね」と言われたり、
「お名前は?」と聞かれて伝えても、参加者名簿から私の名前を探して、「参加者名簿にない」と困られたり、、、。
講師だと思われないことなど、過去に数知れず。
うんと若い頃、たまたま友人が催した読書会で知り合った人と、
後日、2人で話をしたことがあった。
その人が、ある翻訳書を示して、
「これを読む前に知り合えてよかったです。読んでからだったら、すごく遠い偉い人だと思って、話なんてできなかった」と言った。
その翻訳書は共訳なので、翻訳者はグループ名になっているが、あとがきは私が書いていた。
まだ、一般の人が書籍を刊行するなどあり得なかった時代だ。
そこに名前があるだけで、「偉い人」のようなイメージを抱かせた時代だ。
私は自信なさげにそこにいるのだろう。
いや、外観だから、そう見えるのだろうということだ。
いつもいつも自信がないわけではない。
私が友人と主催しているささやかな定期イベントがある。
ある人に言われた。
共同主催の友人は押し出しが良いらしく、目立つらしく、いかにも主催者なのだが、
私は控えめにひっそりと存在しているらしく、
まさか主催者だとは思わなかった、と。
その人は、「小柄だし」とまで付け加えた。
要するに、存在感が薄いのだ。
私が、尊敬するあるNPOの主催者がいる。
私と同世代の女性だ。
すごいことをやり続ける人権系のNPO団体だ。
業界では有名だ。
そして、その主催者の女性は、実にオーラがない。
私の所属する団体で講師に来てもらったときでも、
気負いがなく、肩に力を入れず、でも、確実に伝えるべきことを伝えてくれた。
でも、壇上を下りれば、誰よりも貫禄がない。
私は、見かけ倒しより、よっぽどいいじゃないか、と思う。
そして、この尊大さが微塵もない、誰よりも目立たない感じのこの人を私は尊敬している。
あ、話をもとに戻すと、
私の存在感のなさは、親の呪いがかかったままだからだという話だ。
それは、もう、呪いを解くまじないなど通用しないものだ。
なぜなら、その呪いの下に、人として社会化され、
外の世界を学び、
成長してきたからだ。
そして、老いて来たからだ。
これを解く魔法はないだろう。
ただ、これが親の呪いだということをわかっておくだけだ。
私にはまだわからないから。
たぶん、そんな魔法はないだろうと思うから。
ただ、様々な事象、
自分がとびきり自尊感情が低く、
他の多くの人とは違う感じになってしまうことなど、
やはりたどれば、親の呪詛に行き着く。
ことごとく、私をけなし、批判し、
学校の先生に褒められても即座に打ち消すことに躍起になった親。
「お前は、欠陥品だ。商品なら返品するところだが、返品できないから、ここに置いてやっている」と父に言われていた。
何をしても親には気に入られなかった。
親たちは、厳しく育てるのがよい、という信条を持っていた。
幼い私に自信のかけらでも見つけると、すぐにそれを根こそぎ、取り払おうとした。
傲慢は良くない。
自信たっぷりの女なんかかわいげがない。
奥床しく、「いえいえ、私なんて、、、」と自分を消して、控えめにしている女の姿を望んでいた。
10歳の子どもに、である。
徹底主義の親たちは、その自分たちの価値観を信じて疑わなかった。
そうしたことによって子どもが自尊感情を失い、自己否定的な性格形成をするなど、まだ、誰も指摘しない時代だ。
ふと、思うのだけど、昔の日本人の陰気でいじけた性格は、このような環境で育った人が多いせいかもしれない。
とにもかくにも、そういう子ども時代を送った私は、
いつも控え目でひっそりしている大人になったようだ。
他の多くの人が到達しない、
〇〇長に選ばれても、
〇〇賞をもらっても、
他の多くの人が誉めそやしても、
「尊敬しています」とまで言われても、
私の自尊感情は回復しない。低いままだ。
「私なんかがここにいてもいいのですか?」といつもおずおずと尋ねている(声には出さないけど)。
だから、どういう役職に就いても、貫禄がなかったのだな。
だから、なめられ、
ディスられ、
無視される。
ある、公的機関で働く人に紹介され、ご挨拶をした。
その人は、まだ女性がキャリアを積むことが少なかった時代だからそうなったのかわからないが、それなりに横柄な女性だった。
が、別にふんぞり返っているわけではなく、
なんとなく、ちょっと、一般の女性より偉そうな感じ、と言おうか。
しかし、私は気にしないでいた。
ふだん、接触することもない遠方の公的機関だし、
同じような職種で働く者として、
ご挨拶を済ませたので、それ以上、気にしていなかった。
その後、そういう公的機関で働く人などが集まる機会を提供している、埼玉にある国立女性教育会館(ヌエック)で再会した。
食事をしようと食堂へ入っていったら、
その人が一人で食事をしていた。
お互いにすぐに気づいて、挨拶をすると、
その人は、
「M吉さんって、偉い人だったんですね。全然知らなくて、失礼しました」と言った。
「〇〇とか、△△とか、いろいろ書いておられるんですね」と。
どういう経緯で知ったのかわからないが、当時、ライブラリーの仕事をしていた人なので、そこで扱う刊行物などで、私の名前を見たのだろう。
刊行物に名前が載ると、「偉い人」なのか、、、と、ぼんやり思った記憶がある。
それを知らないから、向こうは偉そうにしていたのか、、、と。
過去に何度も、私を第三者に紹介した人が、、
「M吉さんって、ほんとうは偉い人なんですよ」と、言うのを聞いた。
「ほんとうは」
「こう見えても」
という感じ。
当時の役職とか、講演をしている、とか、そういうことを指しているらしい。
私は、いつも気配を消そうとしているから、「偉い人」に見えないのだ。
「どうぞ、私のことは忘れていてください」と念じながら、人々の中にいるから。
講演会場に行っても、受付の人に、
「参加者名簿に名前を書いてね」と言われたり、
「お名前は?」と聞かれて伝えても、参加者名簿から私の名前を探して、「参加者名簿にない」と困られたり、、、。
講師だと思われないことなど、過去に数知れず。
うんと若い頃、たまたま友人が催した読書会で知り合った人と、
後日、2人で話をしたことがあった。
その人が、ある翻訳書を示して、
「これを読む前に知り合えてよかったです。読んでからだったら、すごく遠い偉い人だと思って、話なんてできなかった」と言った。
その翻訳書は共訳なので、翻訳者はグループ名になっているが、あとがきは私が書いていた。
まだ、一般の人が書籍を刊行するなどあり得なかった時代だ。
そこに名前があるだけで、「偉い人」のようなイメージを抱かせた時代だ。
私は自信なさげにそこにいるのだろう。
いや、外観だから、そう見えるのだろうということだ。
いつもいつも自信がないわけではない。
私が友人と主催しているささやかな定期イベントがある。
ある人に言われた。
共同主催の友人は押し出しが良いらしく、目立つらしく、いかにも主催者なのだが、
私は控えめにひっそりと存在しているらしく、
まさか主催者だとは思わなかった、と。
その人は、「小柄だし」とまで付け加えた。
要するに、存在感が薄いのだ。
私が、尊敬するあるNPOの主催者がいる。
私と同世代の女性だ。
すごいことをやり続ける人権系のNPO団体だ。
業界では有名だ。
そして、その主催者の女性は、実にオーラがない。
私の所属する団体で講師に来てもらったときでも、
気負いがなく、肩に力を入れず、でも、確実に伝えるべきことを伝えてくれた。
でも、壇上を下りれば、誰よりも貫禄がない。
私は、見かけ倒しより、よっぽどいいじゃないか、と思う。
そして、この尊大さが微塵もない、誰よりも目立たない感じのこの人を私は尊敬している。
あ、話をもとに戻すと、
私の存在感のなさは、親の呪いがかかったままだからだという話だ。
それは、もう、呪いを解くまじないなど通用しないものだ。
なぜなら、その呪いの下に、人として社会化され、
外の世界を学び、
成長してきたからだ。
そして、老いて来たからだ。
これを解く魔法はないだろう。
ただ、これが親の呪いだということをわかっておくだけだ。
母たちは不幸だった ― 2024/06/28 07:49
自分の母親を思い出したり、友人たちの母親の話を聞いていると、
娘に対して酷薄な母というものの姿が見えて来る。
慈母ではない。
もちろん、個人差はあるから、一概に言えないのはいつもの通りなのだが、
私たちの母の世代は、私の世代よりもっと男尊女卑が厳しかった。
母たちの人生には生き方の選択肢などなかった。
私の母は、自分が行きたかった女学校ではなく、父親が勧める女学校に行った話をしていた。
私が子供の頃に話を聞いていたので、こちらも子供だから、
学制自体が違っていて、あまり理解はしていなかったと思うが、
繰り返し言っていたから、母の無念な一つだったのだろう。
娘の世代になると、可能性が開かれていて、悔しい思いをしていたのだろう。
NHK朝ドラの『虎に翼』のヒロインは、超エリートだ。
娘の希望を後押ししてくれる父親が登場して、娘の将来を開くのに貢献するが、、この時代にはレアな人物だ。
かつて、男尊女卑の時代に、世に出て歴史に名を残した女性の多くは、そういう父親の後押しを受けていた人が多い。
社会とつながる父親が娘の良き理解者となることがなければ、
娘は社会につながれない。
多くの娘たちは、「大したことない」父親の無理解の下、自分以外の人間のちまちました身の周りの世話をして、生涯を送ったのだ。
そして、女性たちは、「今度生まれてくるときは、男に生まれたい」とかなわぬ思いを抱いたのだろう。
女性の意識調査で、
今度生まれてくるときは男に生まれたい、という女性より、
今度生まれてきても女に生まれたい、という女性の方が増えて逆転したのは、1960年代だ。
高度経済成長期に入って、人々の生活が底上げされ、
それ以前の母親たちの世代より生活が楽になって、
法的に平等が謳われて10年以上が経ち、そのことが人々に定着してきた頃だ。
女の方が楽に見えてきた時代かもしれない。
まさに私の母が、母親業をしていた頃だ。
母は、「女も、結婚しないで仕事をして生きていけるならその方がいい」と一度だけ、言ったことがある。
が、その考えが娘の私に適用されることはなかった。
むしろ、母は、娘だけが幸せになるのは許せない、と思っている様子だった。
自分の方が優秀なはずなのに、この娘なんかが褒められるなんて、と感じていたようだ。
(付け加えておくと、母の方が優秀なのかどうかはわからない。あまりにも性格や興味嗜好が異なるので、比べようがない。)
小中学生の頃は、私が成績が良いことに機嫌が良かったが、
私が成長するにつれて、違う感情がこみあげてきていたようだ。
私を応援する気持ちにはなれなかったようだ。
私の母は、しょっちゅう、父に文句を言っていた。
自分の恵まれなさを訴えていた。
台所の設備が悪いことや私が思うように言うことをきかないことや、
父が気が利かないことや、
何もかも、自分の現状が気に入っていなかった。
「忍従」の人生を生きるには、「自我」が発達した時代の女性たちの一人だったのだろう。
専業主婦として、家の中で夫や子どもの世話に明け暮れなければならない日々が、自我が育ち、一定の教育も受けた世代の女性たちには喜ばしい人生ではなかったのだろう。
権利意識がめばえ、多少メディアも発達しているから上流階級の生活も垣間見ることができた世代だ。
自分にぞっこんの、年上の鷹揚な男を夫に決めたのは、母の直感だろう。実際、母は、父に優しく遇され、甘えさせてもらっていた。
だから、幼い私を父が甘やかすのは気に入らなかった。
しょっちゅう、父に、「あんたはあの子に甘すぎる」と文句を言っていた。
幼い時は父に甘やかされたが、少し大きくなると、父が私に対して意地悪になり、厳しくなり、身体的暴力に及ぶのは、
母の意向だ。
母は、無意識に父を操っていた。
私の母に限らず、多くのあの世代の母親たちは、
夫や子どもを操縦していたのだろう。
その母たちの意向によって、家族の和がつくられたり不和が生じたりしていたのだろうと思う。
まあ、それは、私が育った家庭のように、核家族というシンプルな構造の家庭の話なのだが。
母の一元支配がわかりやすい構造だったから。
母娘の葛藤が如実になるのは、こうした高度経済成長期を通して、母娘関係を生きた世代の現象なのだろう。
子どもの数が少ない。娘の数も少ない。
母たちは、不本意な専業主婦だ。
直接対峙する機会が多くなり、
母の「不幸」感の影響をもろに受けたのが、昭和一桁世代の母親を持った娘の世代のようだ。
そのために心病んだ女性もたくさんいるようだ。
もちろん、世代が違っても、同様の状況にいるもっと若い世代もいる。
昔、私が相談にのっていたある学生さんは、
母親に振り回されていて、なおかつ母親を幸せにしたいと苦しんでいた。
幸せにしたい、というより、本当は、母親の機嫌を良くしたかったのだろう。
彼女は、母が不幸であるのを嘆いていて、そのために自分がやつあたりされるので苦しんでいた。
「お母さんの幸せは、あなたの責任ではなくて、お母さん自身の責任ですよ」「お母さんには、自分で幸せになってもらいましょう」と励ますと、その時は納得するが、
私より、母親と一緒に過ごす時間の方がはるかに長いので、
母親に、「私は、お前のせいで幸せになれない」と言われると、また、自責の念に駆られて、苦しんでしまうようだ。
その母親は典型的な、他者依存型の不幸人だ。
こういう人にいつまでも付き合っていると、自分も母親のようになる。
この母親は典型的な様相を呈しているが、
私がつきあいのある「娘」たちは、多かれ少なかれ、「不幸な母」のとばっちりを受けて成長してきた。
それをなんとか、自分の世代で断ち切ろうと意識はしている。
どの程度、できているかは不明だけれど。
娘に対して酷薄な母というものの姿が見えて来る。
慈母ではない。
もちろん、個人差はあるから、一概に言えないのはいつもの通りなのだが、
私たちの母の世代は、私の世代よりもっと男尊女卑が厳しかった。
母たちの人生には生き方の選択肢などなかった。
私の母は、自分が行きたかった女学校ではなく、父親が勧める女学校に行った話をしていた。
私が子供の頃に話を聞いていたので、こちらも子供だから、
学制自体が違っていて、あまり理解はしていなかったと思うが、
繰り返し言っていたから、母の無念な一つだったのだろう。
娘の世代になると、可能性が開かれていて、悔しい思いをしていたのだろう。
NHK朝ドラの『虎に翼』のヒロインは、超エリートだ。
娘の希望を後押ししてくれる父親が登場して、娘の将来を開くのに貢献するが、、この時代にはレアな人物だ。
かつて、男尊女卑の時代に、世に出て歴史に名を残した女性の多くは、そういう父親の後押しを受けていた人が多い。
社会とつながる父親が娘の良き理解者となることがなければ、
娘は社会につながれない。
多くの娘たちは、「大したことない」父親の無理解の下、自分以外の人間のちまちました身の周りの世話をして、生涯を送ったのだ。
そして、女性たちは、「今度生まれてくるときは、男に生まれたい」とかなわぬ思いを抱いたのだろう。
女性の意識調査で、
今度生まれてくるときは男に生まれたい、という女性より、
今度生まれてきても女に生まれたい、という女性の方が増えて逆転したのは、1960年代だ。
高度経済成長期に入って、人々の生活が底上げされ、
それ以前の母親たちの世代より生活が楽になって、
法的に平等が謳われて10年以上が経ち、そのことが人々に定着してきた頃だ。
女の方が楽に見えてきた時代かもしれない。
まさに私の母が、母親業をしていた頃だ。
母は、「女も、結婚しないで仕事をして生きていけるならその方がいい」と一度だけ、言ったことがある。
が、その考えが娘の私に適用されることはなかった。
むしろ、母は、娘だけが幸せになるのは許せない、と思っている様子だった。
自分の方が優秀なはずなのに、この娘なんかが褒められるなんて、と感じていたようだ。
(付け加えておくと、母の方が優秀なのかどうかはわからない。あまりにも性格や興味嗜好が異なるので、比べようがない。)
小中学生の頃は、私が成績が良いことに機嫌が良かったが、
私が成長するにつれて、違う感情がこみあげてきていたようだ。
私を応援する気持ちにはなれなかったようだ。
私の母は、しょっちゅう、父に文句を言っていた。
自分の恵まれなさを訴えていた。
台所の設備が悪いことや私が思うように言うことをきかないことや、
父が気が利かないことや、
何もかも、自分の現状が気に入っていなかった。
「忍従」の人生を生きるには、「自我」が発達した時代の女性たちの一人だったのだろう。
専業主婦として、家の中で夫や子どもの世話に明け暮れなければならない日々が、自我が育ち、一定の教育も受けた世代の女性たちには喜ばしい人生ではなかったのだろう。
権利意識がめばえ、多少メディアも発達しているから上流階級の生活も垣間見ることができた世代だ。
自分にぞっこんの、年上の鷹揚な男を夫に決めたのは、母の直感だろう。実際、母は、父に優しく遇され、甘えさせてもらっていた。
だから、幼い私を父が甘やかすのは気に入らなかった。
しょっちゅう、父に、「あんたはあの子に甘すぎる」と文句を言っていた。
幼い時は父に甘やかされたが、少し大きくなると、父が私に対して意地悪になり、厳しくなり、身体的暴力に及ぶのは、
母の意向だ。
母は、無意識に父を操っていた。
私の母に限らず、多くのあの世代の母親たちは、
夫や子どもを操縦していたのだろう。
その母たちの意向によって、家族の和がつくられたり不和が生じたりしていたのだろうと思う。
まあ、それは、私が育った家庭のように、核家族というシンプルな構造の家庭の話なのだが。
母の一元支配がわかりやすい構造だったから。
母娘の葛藤が如実になるのは、こうした高度経済成長期を通して、母娘関係を生きた世代の現象なのだろう。
子どもの数が少ない。娘の数も少ない。
母たちは、不本意な専業主婦だ。
直接対峙する機会が多くなり、
母の「不幸」感の影響をもろに受けたのが、昭和一桁世代の母親を持った娘の世代のようだ。
そのために心病んだ女性もたくさんいるようだ。
もちろん、世代が違っても、同様の状況にいるもっと若い世代もいる。
昔、私が相談にのっていたある学生さんは、
母親に振り回されていて、なおかつ母親を幸せにしたいと苦しんでいた。
幸せにしたい、というより、本当は、母親の機嫌を良くしたかったのだろう。
彼女は、母が不幸であるのを嘆いていて、そのために自分がやつあたりされるので苦しんでいた。
「お母さんの幸せは、あなたの責任ではなくて、お母さん自身の責任ですよ」「お母さんには、自分で幸せになってもらいましょう」と励ますと、その時は納得するが、
私より、母親と一緒に過ごす時間の方がはるかに長いので、
母親に、「私は、お前のせいで幸せになれない」と言われると、また、自責の念に駆られて、苦しんでしまうようだ。
その母親は典型的な、他者依存型の不幸人だ。
こういう人にいつまでも付き合っていると、自分も母親のようになる。
この母親は典型的な様相を呈しているが、
私がつきあいのある「娘」たちは、多かれ少なかれ、「不幸な母」のとばっちりを受けて成長してきた。
それをなんとか、自分の世代で断ち切ろうと意識はしている。
どの程度、できているかは不明だけれど。
DV被害者の心理? ― 2024/05/07 09:27
今も時々、思い出すことがある。
大学の授業で、DVを取り上げた時だったか、
授業後、教卓に集まった学生のレポートを片付けていると、3人の女子学生が私のところにやって来た。
いずれも派手目の服装の、美しいイマドキの女子学生だ。
そのうちの一人が、彼氏のDVに悩んでいるらしい。
聞けば、典型的な若者のDVのようだ。
優しい時もあれば、荒れて暴力をふるうことがある、というような、、、。
別れた方がいいかどうか、悩み中。
両脇の二人は、相談に乗っていたらしい。
別れられない被害女性の、これまたよくある語りがなされる。
年齢を重ねた主婦が夫と別れたいと思いながら決心がつかない説明と、酷似している。
経済的に頼ってもいず(むしろ、男にたかられたりする)、子どもがいるわけでもない女子学生がなぜ別れたくても別れられないのか。
すると、彼女は言った。
「私のことを好きだと言ってくれるんです」と。
私は間髪を入れず、
「それは関係ないよ」と答えた。
すると、だ。
3人ともが、「あ」という反応をし、ホッとしたように一人が言った。
「先生、それがわかれば充分です」と、実に解放されたような声を出した。
何度も何度も、彼女たちは頷いた。
そのあと、まだ少し会話を交わした後、
彼女たちは礼を言って、立ち去った。
ホッと肩の荷を下ろした感じと言おうか、実にはっきりと表れている後ろ姿だった。
彼女たちは、3人で、あれこれ、知恵を出し合ったり、意見を言い合ったりして、悩みと向き合ってきたのだろう。
もう見切りを付けよう、と何度も決心したのに、最後までクリアできなかったのは、彼の好意、愛情だったに違いない。
「愛」という名の呪縛だ。
DV男は、「愛」を餌に女を手なずける。
心細げに女に頼ってきたり、「お前がいなければ俺は生きていけない」と縋ったり、いろいろな手を使う。
いや、たぶん、男も本気でそう思っているのだろう。
で、女はほだされる。
そんなの関係ねえ! のだけれども、
自分に愛や依存が向くと、ほっとけなくなるのだ。
実際に、自分が虐待していた相手に去られて、生きていく力を失って死んでしまう男がいるのも事実だ。
相手を虐待することで、活力を得ていたのだから、活力源がなくなれば、当然、弱ったり死んだりするだろう。
が、そこまで責任を負う必要はない。
相手の犠牲になるために自分を投げ出すのも自由だが、それは義務でも責任でもないので、やめる自由もある。
この大学での出来事は、チョイチョイ思い出す。
若くて美しくて、元気いっぱいに青春を謳歌しているように見える女子学生が、こういうことで悩んでいたとは。
そして、その呪縛が、虐待者の「愛」だったとは。
なんか、古典的過ぎてくらくらするが、
「愛」というわけのわからない概念に惑わされる愚からは、早く脱け出した方がいい。
大学の授業で、DVを取り上げた時だったか、
授業後、教卓に集まった学生のレポートを片付けていると、3人の女子学生が私のところにやって来た。
いずれも派手目の服装の、美しいイマドキの女子学生だ。
そのうちの一人が、彼氏のDVに悩んでいるらしい。
聞けば、典型的な若者のDVのようだ。
優しい時もあれば、荒れて暴力をふるうことがある、というような、、、。
別れた方がいいかどうか、悩み中。
両脇の二人は、相談に乗っていたらしい。
別れられない被害女性の、これまたよくある語りがなされる。
年齢を重ねた主婦が夫と別れたいと思いながら決心がつかない説明と、酷似している。
経済的に頼ってもいず(むしろ、男にたかられたりする)、子どもがいるわけでもない女子学生がなぜ別れたくても別れられないのか。
すると、彼女は言った。
「私のことを好きだと言ってくれるんです」と。
私は間髪を入れず、
「それは関係ないよ」と答えた。
すると、だ。
3人ともが、「あ」という反応をし、ホッとしたように一人が言った。
「先生、それがわかれば充分です」と、実に解放されたような声を出した。
何度も何度も、彼女たちは頷いた。
そのあと、まだ少し会話を交わした後、
彼女たちは礼を言って、立ち去った。
ホッと肩の荷を下ろした感じと言おうか、実にはっきりと表れている後ろ姿だった。
彼女たちは、3人で、あれこれ、知恵を出し合ったり、意見を言い合ったりして、悩みと向き合ってきたのだろう。
もう見切りを付けよう、と何度も決心したのに、最後までクリアできなかったのは、彼の好意、愛情だったに違いない。
「愛」という名の呪縛だ。
DV男は、「愛」を餌に女を手なずける。
心細げに女に頼ってきたり、「お前がいなければ俺は生きていけない」と縋ったり、いろいろな手を使う。
いや、たぶん、男も本気でそう思っているのだろう。
で、女はほだされる。
そんなの関係ねえ! のだけれども、
自分に愛や依存が向くと、ほっとけなくなるのだ。
実際に、自分が虐待していた相手に去られて、生きていく力を失って死んでしまう男がいるのも事実だ。
相手を虐待することで、活力を得ていたのだから、活力源がなくなれば、当然、弱ったり死んだりするだろう。
が、そこまで責任を負う必要はない。
相手の犠牲になるために自分を投げ出すのも自由だが、それは義務でも責任でもないので、やめる自由もある。
この大学での出来事は、チョイチョイ思い出す。
若くて美しくて、元気いっぱいに青春を謳歌しているように見える女子学生が、こういうことで悩んでいたとは。
そして、その呪縛が、虐待者の「愛」だったとは。
なんか、古典的過ぎてくらくらするが、
「愛」というわけのわからない概念に惑わされる愚からは、早く脱け出した方がいい。
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