平場の組織作りって、、、2024/02/14 16:45

代表を持たない、みんなが均等に仕事をシェアする、というような、理想を掲げて、女性たちの団体は運営しようとしてきたけど、実は成功してはいない。

私はそういう団体に身を置いて長いけど、
結局、誰かがしんどくて、陰になる仕事を引き受け、
誰かが中心人物のようになり、
雑務を陰で引き受けてきた人が休んだりすると、
たちどころに活動は停止する。

ある団体では、私は自分が頼りにされているのは知っている。
しかし、頼りにされるということは、他のメンバーが自分がやりたくない仕事や不快を回避するために、それらを私に押し付けてくることだ。
気の張る、めんどくさそうな仕事が発生したら、「あ、私のところにくるな」とわかる。
案の定、来る。断っても来る。
それが、長年、重なってくると、もう、勘弁してください、そろそろ、私ものびのびと好きなことだけしたい、という気持ちになってくるのだ。
もうそろそろ、他人の「頼り」にはなりたくない。

軽々と何でもなくやれていると思われているのだろうか、
そうとしたら、間違いだ。
他人が、しんどいな、気が張るな、難しいな、と思うことは、私にだって同じなのだ。
それを引き受けてきた。
で、もう、やめようと思うのだ。

平場なんて、信じない。
明示的なヒエラルキーは存在しないし、
上意下達のシステムでもない。
しかし、その場の力学が働く。
必ず、働く。

平場主義というのは、言葉のまやかしだ。

そろそろ、辛抱はやめるよ。

老いの焦りやら諦めやら、、、2023/12/25 13:48

若い人の論考から眼をそむけることが増えていた。

読むと必ずざわざわする自分を制御しにくい。
失望や悲しみが立ち上るからだ。

それって、私もずいぶん考えていたことだよ。
なんで、今頃、そのことが注目されたり、評価されたりするんだろう。
私なんか、ずっと考えてきていたことだよ、という醜い(?)焦り、嫉妬。

時代の思考というものがあって、
私と同じことを考える人は他にもいる。
そのうちの誰かが、発表し、日の目を見る。
何も、その人の発明品ではなく、ただ、私たちの思いを外に出してくれた人だ。
が、偉い人がそれを評価すると、その発表物が唯一無二のように扱われる。
その人にヒントを与えたかもしれない私はどうなるの? というケチな思い。
それでも、発信力の強い人が脚光を浴びる。

いや、若い人に限る話ではない。
私は自分のなした仕事を低く見積もる癖があるが、
誇大に表示する人は、時に勝者になる。
自分が非常勤として雇用の更新を打ち切られるときになって、
初めて非常勤職の均等待遇を言い出したある人は本を出版している。
非常勤管理職として、非常勤スタッフの首切りに同意している「前科」があるのに。
一方、私はその人の後任だが、その職に就くもっと前から、正規職と非常勤職との均等待遇を掲げて、ワークショップなどをやってきている。
そして、その事実を知ってくれて、発言力もある人がおられたが、もう、死んでしまった。
ある程度、有名になって、ちゃんと発表の場を持たないと、ただの恨みがましいばあさんになって朽ち果てる。

それはいかんなぁ。
で、これまでの考察について、まとめようと思うが、
なにしろ、エネルギーが足りない。

私の言っていたことの正しさは、時には、ずっと後になって、多くの人が認める事態になる。
しかし、もう、私が言っていたことなど忘れられている。
その時に声が大きかった人が注目される。

そんなことはどうでもいいのだ、
正しいことが正しいと認められ、人々の考え方に浸透していけばそれでいいのだ、自分はただの礎になれれば、それでいいのだ、と思えるほど、まだ人間ができていないのか、
「ち! それって、私の考えだったのだよ。手柄を持っていかれた」と腹立たしい思いをしたりする。

これって、何だろうね。
私の中で、何かがかみ合っていないのだろうね。
私の諦念が出来損なっている問題かな~。

自転車乗りに告ぐ2022/08/19 19:57

これって、何かの警告文みたいだけど、
ほんとうに、こういう書き方しかできない気分。

毎日、毎日、街を歩く人間は、危険にさらされている。
歩道を走る自転車に。

以前は、年寄りや小さい子供は別だけど、
元気そうな人は、歩道を自転車で走るな、と思っていた。

しかし、最近、車道は確かに危険だから、
車道に行け、とは言えないなと思う。

だから、歩道を使ってくれていいよ。
一応、徒歩の人間が優先だけどね。

しかし、歩道を疾走するな! 

歩道を使うのはやむを得ない。
が、前を歩いている高齢者は、いつよろけるかわからない。
いや、道の反対側にわけあって、移動するかもしれない。
そういう者の横を猛スピードですり抜ける自転車。
これは危険極まりない行為なのだ。

下りて押しなさい、とも言わない。
前はそう思っていたけど、それも無理だとわかった。
乗りたいんだよね。
だけど、疾走するな!

チリンチリンを鳴らしてはいけないことになっているらしい。
歩行者をチリンチリンで追い散らしてはいけない。
なにしろ、歩道は歩行者のものだから。

だからと言って、音もたてずに、
後ろから、猛スピードで歩行者を追い抜いていく自転車。
こちらはよぼよぼなんだよ。
その風圧で、倒れそうにさえなるのだ。
通り過ぎることができると踏んでいるんだろうが、
予測通りに行かないことが起こるのだ。
生命の危険の問題だ。

どこか、行政機関に言っていくしかないかな、、、。
もっと、自転車運転を指導しろ、と。
そもそも、あんなにスピードの出る自転車を販売許可するって、
どういうことなんだろう。
街中を走る自転車は、もう少しスピード規制のある仕様にできないものか。
あるいは、自転車ゾーンをしっかり設けてほしい。
と、ここでこんなことを言っても始まらないな。

場所を特定できれば、行政機関に言っていけるのだけど。
以前、そうだったみたいに、
行政は、何らかのきっかけで動く。
私が、行政と警察の両方に要望の連絡を入れたら(もちろん、名前を名乗って)、
2回、電話がかかって来た。
2回目の連絡は、
「予算がおりて、実施できます」と、うれしそうな報告だった。
すでに、いくつも苦情があったタイミングで、連絡先を明らかにしている私が要望を出したのかもしれない。
そのへんはわからない。
行政が動くタイミングというものがあるので、それまでは粘り強く運動を続けるしかないのかも。

が、今度は、自転車乗り、というだけで、
土地の不備を特定できない。

う~ん、知恵が要るな。

ポスト・トゥルース2017/06/28 22:41

もう10年以上も前になるが、
私が遭遇した事件の時には、まだ標題の言葉はなかった。
が、まさにポスト・トゥルースの事件であった。

当時、ある「陰謀」が強く言われていたが、
その「陰謀」の場面を見た、という人は誰もいなかった。
「陰謀」があったに違いない、という推測だけが独り歩きしていた。
「陰謀」によって、ポジションを奪われた、という人の主張であった。
が、その後、その人に最も近いポジションに就いた私は、
どこをどう見ても、「陰謀」の痕跡を見つけられなかった。
私の目には、「陰謀」などなかった。
が、パワーゲームがあり、
様々な人たちによるそれぞれの思惑に基づいた言動はあった。
早い話が、「陰謀」を共有するほど意思統一のできた組織ではなく、
それぞれが、自分の利益を第一義に、勝手にいろいろ言ったりやったりしていた、という感じだ。

私の目から見れば、「真相」は実にくだらない。
各々が自分の感情で、パワーゲームをやっていた、のだ。
その結果、ある人がポジションを追われてしまった。
ポジションを追われたのは気の毒だが、
もう少し、冷静に事態を見る目は必要だったと思う。
自分の利益に寄与しない人は、みな、悪い人に見えていたようなのだが、
誰もが自分自身の利益に沿って動いていただけなのだ。
くだらな過ぎて、ミステリーにもならない。

しかし、その「陰謀」疑惑は、裁判にまでなった。
私も迷惑をこうむった。
自分の利益に目がくらんで、「陰謀」だと思い込んだ人の妄想に、
皆、振り回された。
しかし、その「陰謀」説は、まだ信じる人は信じているのだろう。

人は、見たいものだけを見、知りたいことだけを知り、信じたいことを信じるのだ、と、この事件に振り回されて、つくづく思った。

ポスト・トゥルースの時代だと言う。
それなら、私はもっと以前に巻き込まれて、エライ目にあった。
だから、とてもよくわかる。
ほんとうに、そういう時代だ。
否、昔からそうだったものに、呼び名が与えられたのかもしれない。
たぶん、そうだろう。

「不思議な力」というやつ2016/09/22 10:21

からだの不調が重症化すると、
藁にもすがる溺れる人になってしまう。

友人が薦めてくれたフルーツジュース。
健康食品として、いろいろな病気に効能がある、という触れ込みだ。
説明を聞き、店も訪れ、
とりあえず、安くない瓶を一本買った。
7千円ほどする。
一か月4本くらい消費するとよいらしいが、た、高い!

友人のことも信頼しているし、友人が紹介してくれた、それを普及する人も、誠実な感じでいい。
騙して儲けようなんて、絶対にしていないと思う。

でも、説明に
「これには、不思議な力があって、、、」というような言葉が入ると、
もう、私の心は冷めていく。
その、ミラクルを強調するような表現、やめてほしい。

きっと、悪くないものだろう。
友人はそれで、痛みをあまり感じなくなったと、言っている。
だから、効果があるという実感を抱いている。
だから、私の痛みにも効く、と。
私の場合、元の病気が問題だから、痛みに鈍いからだを作ることが良いことかどうか、わからない。
薬の対症療法で十分です、という感じ。

やっぱり、もうちょっと、こちらの理解に届く説明がほしいなぁ。
「不思議」とか、「ミラクル」とか、そういう表現って、
近代科学に侵された私の頭が跳ね返すんだわ。

理解の枠組みを組み替えるにしても、
組み替えるきっかけをもう少しほしい感じ。
なんか、鶴が傷を癒しているのを見て、お坊さんが温泉を開いた、というようなローカルな温泉町の起源話を思い出す。
効果は本当にあるのだろうけれど、
即効性はなさそう。
時間と闘っている現代人には不向きなもののような気がするんだよねぇ。