人に寄り添うということのリスク2024/03/03 09:44

パワハラの被害者として、寄り添わねばならなかった人がいる。
立場上、寄り添う必要があった。
カウンセラーではなく、上司として。

難しい立場に追い込まれて、ものすごく厳しい状況ではあったが、
パワハラは放置できないので、がんばった。
その騒動は、ずいぶん昔の話なのだが、
結局、当事者ではなく、一番ダメージを被ったのは私のようだ。

最近、当の被害者と話をした。
彼女はとっくに乗り越えていて、また、私に悩みを打ち明けてきていた。
この人との関係はなんとなく続いていて、
話を聞く立場になるのだが、何度か、「え?」と思うような出来事もあった。
「伺います」と言っていたイベントに来なくて、後から、言い訳の連絡が来たり、(私は彼女に渡すはずの物を持って来ていて、大荷物と一緒にまた持ち帰る羽目になった)、
イベントの直前で必死の状態の私に電話をしてきて、オンラインに入れないから入れてくれと言ってきたり(それができるのも私だけという状況)、
自分の行為が、私をどれだけ困らせることなのかを理解していないようだ。

しかし、私は、そういう細事は忘れようとするタイプなので、まあ、彼女の未熟さには気づいていたが、やり過ごしてきた。
で、このたび、なかなかめんどくさいことに巻き込んでくれた。
この人と会話さえしなければ起こらなかったようなこと。
実にくだらないことで、ここに説明を書く気も起こらないが、
こういう巻き込み方をされる自分にもうんざり。

「上司」という立場だったころ、何人か、私を慕ってくれる人たちかいて、
中には、正義感は強いが、困ったこともやってくれる人などもいて、
「もう、かばいきれない」ような窮地に追い込まれて、困惑しきったことがある。
そういうタイプの人って必ずいるのだが、
結局、そういう人に頼られる(利用される)私の問題なのかもしれない、と改めて思う。

彼女たちは、私の窮状を理解する立場には就いたことがない。
しっかりと自立した人は、後に管理監督職などに就くようになるが、
永遠に部下の立場でい続ける彼女たちは、
生涯、自分の言動の意味を理解することはないのかもしれない。

私は、そういう人がいる、ということを理解しないといけないのだろう。

対等性、共感性、というようなことばかりを信じていると、
女性(敢えて女性というが)たちの、言動の病み具合が見えなくなる。
そこが見えていない私の欠点は、
「嫌われたくない」という思いでがんばってしまうところからきている。
「期待にこたえたい」という思いが、私を窮地へと導いてしまうことがある。

孤独であっても、たとえ、耐えがたい孤独であっても、
自分を「利用されない」賢さは要る。
相手は邪悪な人ではなく、善意で、単に無意識に、私に頼り、自分の辛さ、弱さを露出してくるだけなのだが、それは私が利用されることになるのだ。
手を離す必要がある。
いや、彼女たちは、自分の望み通りに、私が彼女たちを救う動きをしなければ、自分の方から手を離す人たちだ。
これはやはり「利用」だ。

賢く、強くならないといけないのは私だ。
古希を過ぎて、まだこんなことを考えているのは我ながら情けないが、死ぬまで自己改革をし続けるしかないのだろう。

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