人間を幸せにしない国2021/11/01 09:51

ここ数年、しみじみ、
私が生まれ育ったこの国は、
人を幸せにしない国なんだなぁと実感するようになった。
「幸せでない」という実感が、この数年で芽生えたのではない。
ずっと不幸せだった。
しかし、この不幸せは、自分の不徳の致すところだと思っていた。
もっと、幸せになれるように、努力しないといけないのに、
少しも幸せを感じられないのは、まだまだ修行が足りないのだと思っていた。

が、この年齢になると、
いろいろ我慢もして、自分なりに精一杯やってきて、
一息ついて、
あれ? なんか幸福感が生まれていないな、と気づく。
あんなにがんばったのに、こんなものか、、、。
地獄にいる、というほどはひどくない、
身もだえするほどつらいこともあったし、そのトラウマにさいなまれるけど、
まあまあ、今は、煉獄で身を焼かれる、というほどでもない。
そこそこ普通に生きられている。
明日も明後日もこのままならよいのかな、、、時折、辛いことはあったとしても、、、という境地

が、ちょっと待てよ。
このどん底でないから、まあまあ良し、としようかという消極的な幸福観はなんなのだ?

私の親もたぶん、不幸に慣れていた。
自分たちの作った家庭では、今度こそ幸せになろうとしていた。
しかし、子どもという「家庭に不可欠の」、しかし、大人の論理を持たない理不尽な存在を前にして、こんなはずではない、といきり立っていた。
子どもに大人と同じ分別、いやむしろ、それ以上に忖度する賢い振る舞いを期待する、精神的に成熟していない大人たち。
虐待の芽はそういうところにもあるのだろう。
子どもの子どもらしさを許さない、ガキの大人。

それは、彼ら自体が、子どもとしての幸福を経験していないからかもしれない。
上の世代から抑圧が来る、そして、その抑圧を自分より立場の弱い者へ権力を発揮して解消しようとする、、、日本社会の構造はこうした心理的抑圧の移譲を構造化して、全体のバランスをとってきている社会だそうだ。
そして、今、私はそれを実感として味わっているわけだ。

人々の陰湿な意地悪、一向に平明にならない議論と決定過程、親しくなれば例外なく生じる(と私が感じる)支配と被支配の関係、、、
これら、人々の心理的機構に埋め込まれた抑圧とその移譲のサイクルがベースにあるとしたら、これはもう救いがたいよ、この国は。

人々はそれを無意識に繰り返し、
強い者には負け、弱い者に力をふるい、(それも無意識に)、
権力に服従してこの社会をつくってきた。
弱い立場の者はずっと負けの人生だが、自分より弱い者に小さな権力をふるって、気持ちの均衡を図ることを繰り返す。
気持ちの均衡がとれることで、それを相対化せずに維持するわけだ。
そうした、心理機構が、社会機構を形成してきている。

だから、幸せではなかったのだ。
上から来る抑圧が辛い、しかし、その抑圧を自分より下に移譲することで、圧迫感をやり過ごすが、自分より下の者を抑圧するストレスもないわけではなく、なんとなくもやもやするかもしれない。
しかし、地獄の苦しみではないのだから、
まあ良し、としようと、もやもやした、少し哀愁を帯びた、しかし無事に過ごせる日々を受け容れる。

それは、被抑圧と抑圧の繰り返しという不健全な心理機構に基づいている。
だから、本当は、「良し」とするべきではないのに、
そのように思うことによって、
「まあまあ幸せ」だと自己確認する。

選挙で、保守が勝つのは、その日本人のメンタリティをよく反映している。

負ける癖がついている、
しかもその「負け」を、弱い者への微細な抑圧や諦めで処理している。

そうして、みんな幸せではないこの国が出来上がっている