母の感慨2021/12/03 16:43

生前、母は、
「老いの寂しさやねぇ」とほほ笑みながら言っていた。

もう、80歳を過ぎていたと思う。
親戚の中でも、亡くなる人が増え、
自分の若い頃を知っている人はいなくなり、
唯一、頼りにしている娘の私はまだ現役の感じで、母と同じ話題を共有していなかった。

昔の女性は、「主婦」として生きることを余儀なくされているから、
よほどの個性や能力の持ち主でなければ、
なかなか80歳を超えて、現役と同じ感覚にはなれない。
話す内容もどんどん内向きになり、
現役世代と話が合わなくなる。

そして、足腰の衰えを感じ始め、
自分が死に向かって一人で歩んでいる感じが出てきたのだろうか。

それでも、母は、ぐちぐちと私をつかまえて、話を聞かせるようなことは、とっくに諦めていた。
で、「老いの寂しさ」と表現していたのだろう。

最後は、介護保険を駆使して、
母をずっと家で世話した。
適度な距離と、適度な寄り添いを全うしていたつもりだが、
母には足りないのはわかっていた。
24時間、母に仕える人が必要だった。
一緒の家に住み、呼べば来る人が必要だった。

が、それはかなわない。
現役世代には現役世代の事情がある。
他の誰かのために、自分を明け渡すことはできない。

いや、子育て中は、自分を明け渡した。
自分のことはすべて、後回しだった。
子育て経験のない人には、自分を明け渡す経験はないだろう。
24時間、誰かのために待機している状態だ。
これだけは、なかなか経験しないことだ。
育児を妻に任せている夫たち、育児をたまにしか手伝わない人たちには、ない経験だろう。
が、一生に2回、それをやったから、私はもう十分だ。

自分のニーズに脳が従うなんて、なんという楽さだろう。

生理的欲求すら、コントロールした時代。
寒さも痛さも、自分の感覚は後回し。
小さな他者のために。
自分の生存より優先されることがあった時代だ。

それでも、フェミニズムの洗礼を受けた私には、
「子どもを産まない女に、女の本当の苦労はわからない」なんて、金輪際言えない。
自分が若い頃は、さんざん言われたことを、自分は口が裂けても言えない。

割が合わねぇなあ。

母の介護に、子育てと同じ苦労は無理だ。
こちらの年齢もあるけれど、自分を完全に明け渡すことはできない。

そして、母は、一人、「老いの寂しさ」を味わっていたのだ。

今、私が、母の言葉を味わい始めている。
母より、10年以上早いが、同じ境涯になりつつある。

母と違うのは、他の「女」たちへの共感とサポートを希望に据えて、
前の方を見ることができる、ということかもしれない。
一世代分、知恵がついた。
が、その分、苦悩も増えた。

自分の残り時間2021/12/05 22:58

私の左の腎臓は、死につつある。
5年の間にも、ずいぶん、進んだそうだ。

2007年に大腸がんの手術をしたときに、
尿管が曲がったのだろうと言われている。
が、当時の手術の責任者は、そのことは認めなかった。
手術の後、そういった報告はなかった、とのことだ。
が、同じ大学病院の泌尿器科の医師が、
大腸がんの手術の直前と直後の写真を見せて、
この時に曲がってしまっているから、それ以外に考えられない、と言った。
しかし、その泌尿器科の医師はその後すぐにいなくなったし、
その写真は病院に保管されているもの(まだ存在すれば、だが)で、
私の手元にはない。
訴える気もないし、大腸がんの手術で私を救ってくれたのだし、恨みもない。
ただ、そうした経緯がちゃんと記録として残り、
今の状態を時系列で説明できる状態を望んでいるだけだ。
そうすることによって、今の症状に取り組む方法も適切になるだろうと思うのだ。

しかし、カルテは私の手元にはない。
カルテは誰のものか。

2003年に夫が亡くなったあと、
病院を訪れて、カルテや看護記録のコピーを欲しいと願い出た。
訴えるための資料とか、そういうものではなく、
ただ、あっという間にこの世を去った夫の、あの3か月は何だったのか、どうしてもその痕跡を手元に置いておきたかった。
長い期間をかけて(費用は忘れた)、病院側は、コピーを作成してくれた。
それをもらって帰ったが、結局、私はその書類の束を見ることはなかった。
あまりにも辛く、とてもではないが、闘病記録など見ることはできなかった。
何を見ても、のたうち回るように泣いていた頃だ。

夫がもう長くないと医師に宣告されても、
私は、夫は死なないと、思っていた。
何をばかなことを言うのだ、そんなはずはない、と思っていた。
否、死なないことにしていたのだ。
死んでたまるか! 死なせてたまるか! という気持ちだった。
病院に向かって自転車をこぎながら、泣けて泣けて仕方がなかったが、苦しくて苦しくてたまらなかったが、
病室の前で切り替えた。
「あなたは治って、退院するのよ」ということを、規定の事実のように、自分にも彼にも宣言していた。
そして、明るく、何でもない風に振舞っていた。
死なない、彼が死ぬはずがない、、、
ただただそう考えていた。いや、考えることにしていたのだろう。

辛過ぎることは否認するしかない。
受け止められない。
未だに、彼は死んではいない。
死んだことになっているが、死んではいない。
私が死なせていないから・・・

生きていると、こんなに辛いことを経験するのか、、、
こんなに苦しいことを味わうのか、、、、。

人の死を描いた小説やドラマなどを創作する人というのは、ほんとうにこの苦しみを味わったことがあるのだろうか。
それとも、悲惨な場面を、想像して描いているだけなのか。
もし、経験したことを描いているなら、身がよじれるほどの苦痛で消耗しきっているだろう。
寿命を縮めて描いているのだろう。

私には受け止める力はない。

そして、今、私の生命力もあんまり強くはないような気がする。
腎臓は片方でも生きられる。
だから、今の状態が致命的なわけではない。
それでも、何もない腎臓を持っている人のようには健全ではいられなくて、たまに不都合な状態になる。

同世代でも、内臓が丈夫な人は元気だ。
よく食べ、よく動き、活発だ。
そういうのを見ると、自分の残り時間を考えてしまう。
気力がなくなって、この世にあんまり喜びが感じられなくなったら終わりを迎えるのだろう。
今、ちょっとそういうヤバい状態。
諦めそうになる。
が、まだ、準備が足らん。
死ぬ準備はまだできていない。
もうちょっと、時間をくれ、とは思う。

まあ、そんな今日この頃。