人との関係で一つわかったこと2024/03/01 10:15

長年の近しい友人が、あんまり親しくない人にはものすごく優しいのに、
私には、えらそうで、粗雑に扱うので、
嫌な感じはするのだけど、
あんまり、友達のいない私は、それでも縁を切れない。

私が、文句を言う時は、
その瞬間は、
一生、絶交することになってもやむを得ない、という気持ちで言う感じだった。

この世に別れを告げる覚悟は、子どもの頃からあって、
最後は死んでしまったらおしまいだから、
もう、どうでもいいや、という気持ちになる。
子ども時代に絶望感をさんざん味わった、というのは、そういう心性を育てたということだ。
私を養育した人たちは、私に心があると考えたこともなかったのだろうと思う。
自分たちがおこなっていることを、世間で言う「虐待」とは想像もしなかっただろう。
物質的に満たしてやっているのだから、これ以上に良い親はいないと思っていたようだ。
私を
「人間の屑」だの、
「出来損ない」だの、
「欠陥品」だのと罵り続けた。
こういうことを言われ続けた子どもが、「自分は生きる価値がない」と思うようになるのは当然なのだけど、
大人になって少しずつ、自分にも生きる価値がある、と思えるようになって、
人生の色が変わってきた。
それでも、子ども時代の親の呪詛は追い払えないから、辛いことがあると、つい、自分を「消す」という行為に直結して考える。
子ども時代の虐待は、脳に影響を与える、という研究はあって、身体的虐待でなくても、脳に何らかの損傷を残すのだろうということは、納得のいく話だ。
脳内の化学作用はその人の「本質」に近くなるだろうと、私も考えている。

私は、友人と思っている人に、苦情を言うときは、それなりに、覚悟を持って言ってきた。
が、有難いことに、(ここはほんとうにありがたいことに)、
友人たちは、それで私と縁を切らなかった人がほとんどだ。

逆に、そのために、私と縁を切った人は、私がその人にとってそれだけの位置にいたということか、
あるいは、その人自身が、「絶望」をいつも溜めていたか、だと思う。

心が健康な人は、それだけでは縁を切らない。
私の苦情が覚悟の上だったとしても、
その人を全否定しているわけではないことをわかっている人は、
その一事をもってして、私と縁を切ろうとはしない。
こういう心の健康な人によって、私は生かされてきたのだなと思う。

そして、冒頭の近しい友人だが、
他の人にはとても親切で優しいのに、
私にはぞんざいになるのはなぜか、ということを尋ねたら、
(これは苦情ではなく、疑問形で尋ねた)、
「あなたは少々、雑なことを言っても、関係は変わらないから」と答えた。
あ、そういうことか、と初めて知った。
私は他人にそういう安心感を持たないから、いつも「覚悟」が要ったのだ。

その人は、近くにいる人ほど、雑に扱うように見える。
自分の母親には特に雑だ。
そんなことで文句を言わなくても、と思うようなことで、
ずけずけと文句を言っている。
が、一方で、母がうるさいから、と気も使っている。
たぶん、ずけずけと文句を言い合う親子なのだろう。
だから、お互いに喧嘩をしては気を使い合う日常のようだ。

私はそのような日常には疲れるので、それはしたくない。
子ども時代、父親にさんざん嫌がらせを言われ、
呼吸するように文句を言われ続けて、
それが当たり前になってしまっていた。
それに対して、抗弁しては喧嘩になり、最後は「口答え」を封じる父親によって暴力をふるわれ、泣き寝入りしてきた。
その父のやり方は私にもしみついた習慣になって残っていて、
結婚相手にも文句を言い続けたし(彼はほとんど聞いていなかったけど)、
近しい友人にも同じことをしていたと思う。

ある日、そのことに気づき、父の影響だと気づいて、
ピタッとやめた。
無意識の習慣になっていることを止めるのは、相当な気づきと自己改革が要る。
いろいろな気づきの集積によって、ようやくこの悪癖から逃れた(と思う)。

母は、この悪癖を持たなかったので、(私には冷たい人だったけど)、母の振る舞いに学ぼうとした。
それも無意識の内なのだが、母の振る舞い方を取り入れた。
私の中には「母」もいたので、「父」を駆逐して、「母」を採用したのだ。

が、件の友人は、自分の母親の習慣から抜け出せない。
母親と同居しているので、その習慣を日々生きている。
この友人の母親も、外面は極めて良い。
が、娘にはごちゃごちゃとうるさいらしい。
私は、この友人の習慣のとばっちりを受けてきた。
が、ある時、大喧嘩になって、それで彼女は以前より、ガミガミ言わなくなった。
しかし、私の中には、しこりが残り続ける。
それでも、距離を置けば、気の置けない友人でいられるので、なんとなく友人関係は続いている。
そして、彼女は、私には縁を切られないと、信じているということがわかった。
そうだろうな、どんな扱いを受けても、私から縁を切ったことはない。
私はたいていは、縁を切らない。
仕方がないからだ。

子ども時代の父に比べたら、まだましに感じる人が多い。
なにしろ、いつでも縁を切れる関係というのは、うんとましだ。
子ども時代には、親とは縁を切れない。
あの悪夢を生きたので、今はこの世はまだましだ、という気分で生きてはいる。
どんなに寂しくても、今はましだ。

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