公的な発言ということ ― 2018/10/05 11:12
私は、今でもシチュエーションによっては「公」的なポジションにいることがある。
市民の方たちを含めた公的な会議では、
市民の方たちは、自分の私的な意見をのびのびと言う。
自分の経験と日常感覚を遺憾なく押し出す。
そういう声をきちんと採り入れるのが民主的な会議のはずなのだけど、
実は、その市民の方たちは市民全体を代表できているわけではない。
市民は、実に多様だ。
が、そういう場に出て発言する人は、市民代表ということになっている。
行政はめんどくさいから、長年、同じ人を会議のメンバーにして
「市民の声を聞いている」というトークンにしている。
市民の中には、自分が正しいと思うことは、何が何でも正しいから推進したいと思う人もいる。
長年、NPOなどで活躍していると、自信がすごくついてきて、
なんだか、もう、自分が正義、みたいになっている人たちもいる。
はっきり言って、困った人たちも多い。
市民は多様で、複雑で、一元的な価値観では測れない。
だから、会議を統括する立場としては、理念はぶれてはいけないが、様々な解釈をしながら、方途を探すことになる。
が、猪突猛進タイプの人が思い込みで走ると、
多角的な視点がなくなり、
異なる意見や保留されることに堪えられなくなるようだ。
自分の信じるところまっしぐらになって、それ以外を糾弾し始める。
それ、怖いよ。
全体主義になるよ。
ファシズムになるよ。
もちろん、私にも、個人的な好悪の感情はある。
お茶を飲みながらうだうだとしゃべっているときは、
「そういうの、嫌いだわ~」と言ったりもする。
が、公的な会議の場では、言わない。
責任があるからだ。
私が「嫌い」だと言えば、正式に否定してしまうことになる。
大した影響力がなくても、私の個人的な意見そのものが問題だ。
「個人の感想です」と言えない状況、言えない立場というものがある。
昔の村役人の会議なら、親分の意向が行政の方向性になることもあっただろうし、
井戸端会議では、一番口の立つ気の強いおかみさんが、民意を形成していたかもしれない。
が、今では、誰でもが公的な場で発言する機会があり、
民主主義を担う一員だ。
自分の立場の表明をすることはとても大事なことで、
聞かれる必要がある。
立場の違う他の発言を封じてしまわない、という前提で、意見表明は必要だ。
が、それをとりまとめていかないといけない立場になると、
特定の利益を代表してはならないのが鉄則だ。
もちろん、あくまでも理念を超えない前提付きだが、いろいろな意見に配慮し、その上で優先事項を絞り込めたら上出来。
(それがなかなか難しいのだけど、、、。)
しかし、今、
官僚も大臣も、昔の田舎役人みたいな失言を繰り返すし、
日本はまだまだ民主主義が発展途上なのだろうか?
いや、アメリカだって、トランプみたいな私人としてのふるまい方しか知らない、町の顔役みたいな人が大統領になっているのだから、
民主主義の行き詰まりなのかもしれない。
ほんとに、どう乗り越えればいいのか。
ずっと、戦後の民主主義について考えてきているけれど、
で、私のまわりの友人たちも、皆、そこを考えている人ばかりだけど、
何なのだろう?
どんどん少数派だけが、民主主義を考えるようになっているのか?
まぁ、確かに、若い世代の学生でも、
同じテーマに向き合っていても、
社会的な意識がゼロの学生が大半で、
一部の学生だけが、社会を担っている自覚がある、という感じがする。
○○な社会になってほしい、
という超他人事な意見がたくさんあって、
「なってほしい、じゃなくて、あなたたちが社会を作るんですよ」と、
毎年毎年叫んできたが、
昨年、今年あたりから、少し、自覚ができている学生が増えた気がする。
ひょっとしたら、18歳以上に選挙権が与えられるようになったのが正解だったのかも、とちょっとだけ、希望が、、、、。
市民の方たちを含めた公的な会議では、
市民の方たちは、自分の私的な意見をのびのびと言う。
自分の経験と日常感覚を遺憾なく押し出す。
そういう声をきちんと採り入れるのが民主的な会議のはずなのだけど、
実は、その市民の方たちは市民全体を代表できているわけではない。
市民は、実に多様だ。
が、そういう場に出て発言する人は、市民代表ということになっている。
行政はめんどくさいから、長年、同じ人を会議のメンバーにして
「市民の声を聞いている」というトークンにしている。
市民の中には、自分が正しいと思うことは、何が何でも正しいから推進したいと思う人もいる。
長年、NPOなどで活躍していると、自信がすごくついてきて、
なんだか、もう、自分が正義、みたいになっている人たちもいる。
はっきり言って、困った人たちも多い。
市民は多様で、複雑で、一元的な価値観では測れない。
だから、会議を統括する立場としては、理念はぶれてはいけないが、様々な解釈をしながら、方途を探すことになる。
が、猪突猛進タイプの人が思い込みで走ると、
多角的な視点がなくなり、
異なる意見や保留されることに堪えられなくなるようだ。
自分の信じるところまっしぐらになって、それ以外を糾弾し始める。
それ、怖いよ。
全体主義になるよ。
ファシズムになるよ。
もちろん、私にも、個人的な好悪の感情はある。
お茶を飲みながらうだうだとしゃべっているときは、
「そういうの、嫌いだわ~」と言ったりもする。
が、公的な会議の場では、言わない。
責任があるからだ。
私が「嫌い」だと言えば、正式に否定してしまうことになる。
大した影響力がなくても、私の個人的な意見そのものが問題だ。
「個人の感想です」と言えない状況、言えない立場というものがある。
昔の村役人の会議なら、親分の意向が行政の方向性になることもあっただろうし、
井戸端会議では、一番口の立つ気の強いおかみさんが、民意を形成していたかもしれない。
が、今では、誰でもが公的な場で発言する機会があり、
民主主義を担う一員だ。
自分の立場の表明をすることはとても大事なことで、
聞かれる必要がある。
立場の違う他の発言を封じてしまわない、という前提で、意見表明は必要だ。
が、それをとりまとめていかないといけない立場になると、
特定の利益を代表してはならないのが鉄則だ。
もちろん、あくまでも理念を超えない前提付きだが、いろいろな意見に配慮し、その上で優先事項を絞り込めたら上出来。
(それがなかなか難しいのだけど、、、。)
しかし、今、
官僚も大臣も、昔の田舎役人みたいな失言を繰り返すし、
日本はまだまだ民主主義が発展途上なのだろうか?
いや、アメリカだって、トランプみたいな私人としてのふるまい方しか知らない、町の顔役みたいな人が大統領になっているのだから、
民主主義の行き詰まりなのかもしれない。
ほんとに、どう乗り越えればいいのか。
ずっと、戦後の民主主義について考えてきているけれど、
で、私のまわりの友人たちも、皆、そこを考えている人ばかりだけど、
何なのだろう?
どんどん少数派だけが、民主主義を考えるようになっているのか?
まぁ、確かに、若い世代の学生でも、
同じテーマに向き合っていても、
社会的な意識がゼロの学生が大半で、
一部の学生だけが、社会を担っている自覚がある、という感じがする。
○○な社会になってほしい、
という超他人事な意見がたくさんあって、
「なってほしい、じゃなくて、あなたたちが社会を作るんですよ」と、
毎年毎年叫んできたが、
昨年、今年あたりから、少し、自覚ができている学生が増えた気がする。
ひょっとしたら、18歳以上に選挙権が与えられるようになったのが正解だったのかも、とちょっとだけ、希望が、、、、。
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