戦後の民主主義2020/08/11 09:52

私は戦後の生まれだから、高度経済成長の申し子のような世代の人間だ。

家庭環境もあるのだろうが、使い捨てが推奨され、常に新品を購入することが良いことのような空気があって、
特に母がそうだったせいか、
私は、いつも新しい物を持っていた。
未だに、中古は苦手だ。
他人の使った物をもらい受けるなど、とんでもない、という感じだ。

子どもの頃、社会には、民主主義の到来を、まだ喜んでいるような空気が漂っていた。
小学校、中学校ではしつけが中心で、「ちゃんとしないといけない」という空気があったが、
高校に入った時、その自由な空気にめまいがしそうだった。
当時の京都は蜷川府政。おそらく、その革新の息吹が教員たちにも共有されていたのだろう。
自由と平等を享受し、それを生徒にも伝えようとする教員たちの明るい表情が、私にも希望を与えるものだった。

カリキュラムは基本的に個人単位。
もちろん、学年制なので、学年をまたぐことはできなかったが、
いくつかの選択科目から自分で選び、自分で履修科目を構成する。
全く同じカリキュラムの人は、クラスに一人もいなかった。
ホームルームの机は一応指定されているが、
そこに物は入れない。
ほぼ、毎時間、カバンを持って、受講する教室に移動するからだ。
休憩時間は、常に、移動する生徒が流れている。
親しい友人に会うと、
「次、何の科目受けるの?」という会話がしょっちゅう交わされる。

朝、登校すると、必ず掲示板を見る。
休講通知が出ているので、休講を確認したときは、「さて、何をしようか、どこに行こうか」ということになる。
午後の休講だと、帰宅する生徒も多い。
私も帰宅組だった。
1時間目が休講だとわかっている日は、登校も遅い。

科目によっては、席が決まっていないので、座る場所も自由。
好きな科目だったりすると、かぶりつきに座る。

「この科目が、入試に関係のない人は、後ろの席で内職してよろしい」と言うような先生もいた。

制服の指定はあったが、
制服廃止キャンペーンを張っていた生徒会の役員たちによると、
「制服ではなくて、標準服だから、着ることは強制されていない」とのことだった。
それでも、制服を着せようとする統制型の体育の教員などがいて、
生徒との攻防が盛んだった。
が、体育の教員もさまざまで、
「鬼の××、仏の〇〇」と称されている二人の男子体育の教員がいた。
実際、「仏の〇〇」がホームルームの担任になったとき、
その穏やかさに感嘆した。
こういう大人になりたい、と切に思った。

男子は詰襟の学生服だったが、全員が着ているわけではなく、
ダークな色のセーターやカーディガンをいつも着用している生徒もいた。
あるホームルームで制服談議になったとき、一人の女子が、
「詰襟の制服を着ている男子は素敵に見える」と発言したら、
カーディガン派の生徒が、
「俺、明日から制服着よっ」と言って笑わせていた。
ある男子学生は、詰襟の下に派手なオレンジ色のセーターを着ていて、どこにいても目立っていた。
暑かったのか、たまたま教室で制服を脱いだとき、
一瞬言葉を失った教員は、
「派手な色やなぁ。目がちかちかするわ」と苦笑していた。
女子は、基本的に制服の上着(これは実は気に入っていた)の下に着用するブラウスの規定がなく、(たぶん、白とは書かれていたのだと思う)、
私もフリルやレースのついたブラウスを着ていて、女子のブラウスはどの人もなかなか華やかだった。

靴について、戦後すぐに作られた校則だったのか、
「赤い靴はいけない」とのみ書かれていた。
だから、私たちの世代は、「赤い靴でなければいいんだ」と解釈し、私も冬は、白いブーツをはいていた。
「なんで、そんなしゃれた格好してんねん。君は、おしゃれなんかしないで、家で青い顔をして受験勉強してると思ってた」と漢文の教員に言われた。
受験勉強なんかしていないが、そう誤認識されていたことが結構ショックだった。

とにかく、平和で牧歌的で、穏やかな教員と生徒たちが集まっている学校だった。
振り返る限り、あまり何かを愛する気持ちが薄い私でも、高校時代は良かったと思っている。
個人的には孤独で、家に帰れば親との闘いが続く日々だったが、高校は良かった。

わが校は、六三三一四制だと、一年先輩の生徒が言っていたが、
確かに、一浪して大学に入った生徒が多かったようだ。
社会科の教員は、
「わが校は、昔は秀才が集まっている名門校だったのに、今は何だ、君らは縁側で日向ぼっこしてぼーっとしている老人みたいだ」と、嘆いていた。

そうなのだ、その日向ぼっこしている老人のような平和で鷹揚な雰囲気が私を救っていた。

そして、教員側にも、基本的に生徒の自主性と尊厳を重んじる姿勢が貫かれていた。何か申し合わせがあったのか、やはり、当時の政治的姿勢が反映されていたのか、
戦後の平和と民主主義の訪れを、教員たちはほんとうに喜んでいる感じがした。
これを享受し、維持しよう、という意欲を感じていた。

府内では、毎年、各高校から希望者を募って、討論集会が行われていた。
希望者だけなのだが、結構、参加する生徒も多く、私も毎年参加した記憶がある。
各分科会に分かれるのだが、テーマは部落問題や人権問題などの、政治社会的な問題から、友情や恋愛までさまざまだった。
バスに乗って、会場となっている他の高校へ移動した。
同じ高校生でありながら、理論的な発言をしていく生徒たちに圧倒された。
私はどうしても、部落問題をわかりたかった。党派的な主張と人権論がどうずれるのか、どうしても知りたかった。
今は党派自体が変容しているので当てはまらないが、当時は共産党系と社会党系と、新左翼系の主張が錯綜していて、私にはわからなかったのだ。
党派的に落ち着きたかった。
しかし、誘われて参加した党派は、私には違和感があった。そして、抜けた。
もちろん、数年後には、その違和感の正体を言語化することができ、私は今日的な問題意識を持っていたのだと思えるのだが、当時は苦しんだ。
平和ボケしているような同級生の中で、学校自体はよきものを醸し出していたが、個人的にはいろいろ悩んだ時代だ。

そして、今の時代、あの民主主義の日差しは陰っている。
現政権ののらりくらりは、あの時代の悪しき継承かも。

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