土曜日2018/04/07 21:23

土曜日というのは、
いろいろな団体のイベントが開催される。
で、みんなぶつかる。

どのイベントに行っても、知り合いに会う。
「あなたもこっちに来たの?」
「あっちにも行きたかったんだけど、、、」というような会話が会場のあちこちで交わされる。

昨日のイベントも同じ。
ちょくちょくこうしたイベントで会う友だちの一人Mさん。
Mさんはいくつかの団体の主宰者なので、
「いつも会うけど、いつも主催側の席にいるね」と言ったら、
「ずっと、こんなことばかりしていて、これでいいのかなと思うわ」と笑っていた。
で、イベントを土曜日に開催することが多いので、
他のイベントに分散して、参加者数が少ないのだと言う。
ほんとうに、もう何十年、こんな風景が続いているだろう。
どこに行っても、同じ顔ぶれ。
変わったのは、みんな年を取っただけ。
(と思うのは悲観的過ぎるかな。)

この50年ほどの間に、
政権交代は気まぐれのようにあったけど、何が変わったのだろう。
経済格差はひどくなった。
心を病む人も増えている気がする。

政権は圧倒的なパワーだ。
しかも、日本の官僚型政治は健在で、
官僚を操るテクに長けた今の政権は、絶大な力を持ってしまった。

そもそも経済政策と労働政策を一緒にやろう、という了見が、
とんでもないのじゃないのか。
まぁ、経済学なんてわからないのだけど、
労働政策が経済学の基本なのかもしれないけど、
市場原理が優先されて、労働者の人権が考えられているようには見えない。
「マル経」がどっか行っちゃって、
今やものすごくヤバいことになっているのじゃないか、と、素人頭で考えてしまう。

この政権から一般国民に突き付けられている選択肢は、
即死か、
じわじわ死ぬのか、
どっちがいい?
という二択。
働き盛りの人は生かさず殺さず、、、。

昨日の講演会から、波及的にいろいろ思った。
それともう一つ、思ったのは、
こうしたテーマを共有するのはいつも同じ顔ぶれだということ。

誰にどう思われようと気にしないでよい2018/03/16 09:42

ということを言われるようになって久しい。

が、
そんなこと、後から言われても、、、。

人の目を気にしろ、気にしろ、と言われて生長してきたのだ。

「世間に見られていることを忘れてはいけない」
「人がなんと言うか、考えなさい」
「みっともないことをしてはいけません」
「人からどう見られると思ってるの!」

もの心つけば、それが生き方の指針だった。
だから、人から見て恥ずかしくないようにふるまうことに一生懸命だった。

で、委縮した大人になると、
今度は、
「人の目ばかり、気にして、、、」と、苦言を呈される。

何なんだよ!

そこから、自己改造、自己変革・・・
1980年代くらいから、カウンセリングが一般的になり始めた。
今は、カウンセリングの場はとても多い。
公共施設などでは、無料でやっているところもある。
感情の処理に苦しむ人が多いのだろう。
案外手軽な感じで、カウンセリングに赴く。

でも、年を取ると、なんだか、全部腹立たしくて、めんどくさい。

いい人でいたいと思っている私・・・
それがいかんのか!
それでうまくいかなかったら、今度はいい人じゃない私になるよ。
細やかな気遣いがめんどくさくなっている。

たぶん、一番、めんどくさくて腹立たしいのは、アドバイスとか批評とかいうやつなんだろう。
いちいち、言ってくるな!
「M吉さんって、・・・という人なのね」
やかましい!
いちいち批評するな。

あかん、今朝は機嫌が悪い。
いろいろ思い出して、ムカムカしている。
でも、そのままこの気持ちは放置。
いじらない。

昔の感覚ではいられない2018/02/24 12:42

当たり前のことなんだけど、
昔の保守とか革新とか、
私自身が単純に信じていた二項対立は、全然通用しない。

思えば、きっと昔からそうなんだろう。
入り組んでいたのだろう。
私が単純化したがっただけなんだろう。
自分の理解力に合わせて、、、。

先日、参加した飲み会では、
最後の立て看世代、という人が盛んに大学時代の紛争の話をしていた。
60歳を過ぎても、
昨日のことのように大学時代の話をするのは、
ブランド大学出身者に多い。
今に至る紆余曲折も、ある種、一貫したアイデンティティに支えられているから、
自分の足元が崩れる経験をしていない人が多い気がする。
常に闘う相手が外部にいる、と感じる人たちだ。

アイデンティティが揺らがない、というのは特権的な状況だ。
左翼的インテリのその鈍さに、うんざりすることがある。
まぁ、左翼的インテリと一括りにしてもいかんのだろうけど。

1月に、西部進が自死したことにショックを受けた。
保守と言っても多様だから、
交点を感じないわけではなかったし、、、。

保守とか右翼とか、革新とか左翼とか、そういう二項では分けられない。
今、現政権がしゃにむに通そうとしている「働き方改革」だって、
「改革」だし、、、。
そうするとこちらは、反改革派になっちまうし、、、。

人権派、反人権派、と呼び換えてみたらどうだろう?
労働者の人権を守りたいと思っている反「改革」派と、
労働者の人権を蹂躙しようと思っている与党の「改革」派、、、
こんな法案、通したら、生活破壊が進むだけ。

ポスト・トゥルース2017/06/28 22:41

もう10年以上も前になるが、
私が遭遇した事件の時には、まだ標題の言葉はなかった。
が、まさにポスト・トゥルースの事件であった。

当時、ある「陰謀」が強く言われていたが、
その「陰謀」の場面を見た、という人は誰もいなかった。
「陰謀」があったに違いない、という推測だけが独り歩きしていた。
「陰謀」によって、ポジションを奪われた、という人の主張であった。
が、その後、その人に最も近いポジションに就いた私は、
どこをどう見ても、「陰謀」の痕跡を見つけられなかった。
私の目には、「陰謀」などなかった。
が、パワーゲームがあり、
様々な人たちによるそれぞれの思惑に基づいた言動はあった。
早い話が、「陰謀」を共有するほど意思統一のできた組織ではなく、
それぞれが、自分の利益を第一義に、勝手にいろいろ言ったりやったりしていた、という感じだ。

私の目から見れば、「真相」は実にくだらない。
各々が自分の感情で、パワーゲームをやっていた、のだ。
その結果、ある人がポジションを追われてしまった。
ポジションを追われたのは気の毒だが、
もう少し、冷静に事態を見る目は必要だったと思う。
自分の利益に寄与しない人は、みな、悪い人に見えていたようなのだが、
誰もが自分自身の利益に沿って動いていただけなのだ。
くだらな過ぎて、ミステリーにもならない。

しかし、その「陰謀」疑惑は、裁判にまでなった。
私も迷惑をこうむった。
自分の利益に目がくらんで、「陰謀」だと思い込んだ人の妄想に、
皆、振り回された。
しかし、その「陰謀」説は、まだ信じる人は信じているのだろう。

人は、見たいものだけを見、知りたいことだけを知り、信じたいことを信じるのだ、と、この事件に振り回されて、つくづく思った。

ポスト・トゥルースの時代だと言う。
それなら、私はもっと以前に巻き込まれて、エライ目にあった。
だから、とてもよくわかる。
ほんとうに、そういう時代だ。
否、昔からそうだったものに、呼び名が与えられたのかもしれない。
たぶん、そうだろう。

「不思議な力」というやつ2016/09/22 10:21

からだの不調が重症化すると、
藁にもすがる溺れる人になってしまう。

友人が薦めてくれたフルーツジュース。
健康食品として、いろいろな病気に効能がある、という触れ込みだ。
説明を聞き、店も訪れ、
とりあえず、安くない瓶を一本買った。
7千円ほどする。
一か月4本くらい消費するとよいらしいが、た、高い!

友人のことも信頼しているし、友人が紹介してくれた、それを普及する人も、誠実な感じでいい。
騙して儲けようなんて、絶対にしていないと思う。

でも、説明に
「これには、不思議な力があって、、、」というような言葉が入ると、
もう、私の心は冷めていく。
その、ミラクルを強調するような表現、やめてほしい。

きっと、悪くないものだろう。
友人はそれで、痛みをあまり感じなくなったと、言っている。
だから、効果があるという実感を抱いている。
だから、私の痛みにも効く、と。
私の場合、元の病気が問題だから、痛みに鈍いからだを作ることが良いことかどうか、わからない。
薬の対症療法で十分です、という感じ。

やっぱり、もうちょっと、こちらの理解に届く説明がほしいなぁ。
「不思議」とか、「ミラクル」とか、そういう表現って、
近代科学に侵された私の頭が跳ね返すんだわ。

理解の枠組みを組み替えるにしても、
組み替えるきっかけをもう少しほしい感じ。
なんか、鶴が傷を癒しているのを見て、お坊さんが温泉を開いた、というようなローカルな温泉町の起源話を思い出す。
効果は本当にあるのだろうけれど、
即効性はなさそう。
時間と闘っている現代人には不向きなもののような気がするんだよねぇ。